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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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39.誠実で苛烈な救済

 (さが)()主任が手配したタクシーで向かった先は、夜でも人がまばらにいる喫茶店だった。どの客にも気怠げな満足感が浮かんでおり、飲み歩いた終着点がここなのだという風の顔ぶれだった。

 テーブルを挟んで、(さが)()主任と向かい合って座る。彼は、わたしの前にコーヒーが置かれるのを待ってから、自分のコーヒーに口をつけた。


「……本当に、意味がわかりません」


 コーヒーカップを両手で抱えながら、わたしは何度目かわからない怒りを口にした。


「今回のために、わたしたちがどれだけの工数をかけて根回ししたか、わかっているはずですよね。それを、あんな感情的な理由で全部ひっくり返すなんて……。主任らしくないです」


「そうですね。僕の判断ミスです」


 (さが)()主任は、あっさりと肯定した。


「君たちの努力を、僕が無駄にした。本当に申し訳ないと思っています」


「だったら!」


 声を荒げそうになり、慌てて声量を落とす。彼が反論してくれないせいで、わたしの怒りは矛先を失い、空回りしてばかりだ。


「……なら、どうしてあんなことをしたんですか。わたしが相手をすれば済んだのに……」


 そうつぶやいた瞬間、(さが)()主任がコーヒーカップをソーサーに置いた。彼は、わたしの目をまっすぐ見ていた。


「それだけで済むと思ったのか。あいつらが君をどういう目で見ていたか、気づかなかったわけじゃないだろう」


 瞳に冷たい怒りがあるのを見て取って、わたしは息を呑む。

 わたしは答えなかった。答えられなかったのだ。彼の問いの答えはとっくにわかっていた。

 それだけで済んだはずがない。だが、それがいったい何だというのだ。わたしの中にも小さな怒りが灯る。


「……ええ。だからあのまま、お酒に付き合えばよかったんです。違いますか」


「そうしたら、次は『もっと静かな場所で』と言われる。契約を盾にして、きっとホテルに誘われた」


 低い声が、わたしの薄っぺらい鎧を引きはがしていく。わたしが何をしようとしたのか、さまざまと思い知らせる。仕事のために、自分の尊厳を差し出そうとしたのだと。

 遅れて、じわりと恐怖がやってくる。冷たい汗が滲んでくる。違う、違う……! 彼が、(さが)()主任が無理やり気づかせたからだ。

 追い詰められても、ほんのちょっとの間だけ心を殺して、痛みに耐えれば済んだ。

 ……最悪、後からどうにかする手段が、ないわけではない。


「わたしなら、上手くやります。上手く――」


「こんなことを上手くやる必要なんかない。君は、自分自身をそんなに安い存在だと思っているのか」


 (さが)()主任は断じるように言ってから、深く息を吐き出す。


「俺は、君の価値を高く見積もっているんだ。……いや、」


 彼はそこで、短く言葉を切った。


「そんなきれいな理由じゃないな。ただ、嫌だったんだ。君があんな風に消費されるのが。それを受け入れようとしている君が」


 わたしは、無言でコーヒーを煽った。焼けるような苦さが喉を滑り落ちていった。


(……ずるい)


 そうだ、ずるい。

 こんなの、どうやって切り捨てろというのだ。

 自分の安売りすら厭わなかったわたしに、これ以上ないほどの価値を見出して、怒ってくれる男を?


 わたしだって、好きでへらへら笑っていたわけじゃない。汚泥を啜ってでも数字を作るのがわたしの覚悟であり、誇りだった。それなのに、彼はそれらを「無価値だ」と言い捨てたのだ。わたしの覚悟も、誇りも、わたしを汚すものでしかないと断じて、その価値観を押し付けてきた。


 わたしを全否定しても救いたい、とでもいうつもりだろうか。

 なんて傲慢な優しさだろう。


「……最低です。最低」


「そうだね。最低なことをした」


「めちゃくちゃじゃないですか……」


 呟いた声に、もう怒りの色はない。ただ降伏の響きが混じる。

 (さが)()主任は何も言わず、静かに向かい合っている。


(……ほんとうに、ずるい)


 酔いに任せて、彼が強引に踏み込んでくることを、心のどこかで想定していた。ここで(さが)()主任が「ごめんね」と手を握ったり、「君のせいじゃない」と肩を抱いたりしてきたら、まだよかったのだ。そうすれば、男の身勝手さに押し切られたと言い訳ができた。


 なにより、彼を軽蔑できたのに。


 混乱している女を慰めて、口では謝りながら触れてくるのだとしたら。なんだ、結局あのセクハラ男たちと同じじゃないか、と。そうやって幻滅できたのに。


 だが、彼は一切触れてこない。

 その完璧な誠実さが、わたしから言い訳を剥ぎ取ってしまう。


 ああ、ダメだ。酔いのせいにできない。

 完全に、わたしの負けだ。




 空が白みはじめた頃、彼はわたしの自宅マンションの前でタクシーを停めさせた。


「送っていただいて、すみません」


「いいえ。連れ回してしまってすみませんでした。今日はゆっくり休んでください」


 連れ回したのは、わたしのほうなのに。

 わたしの価値を誰よりも高く見積もり、それを守るためだけに非合理的で狂った行動に出た男は、最後までわたしに指一本触れなかった。


「……主任」


「なんですか」


「今日は、ありがとうございました。月曜日、また会社で」


 (さが)()主任は、意外そうにわずかに目を見開いた。驚きにも見えたし、張りつめていたものが緩んだようにも見えた。

 次いで、小さく息を吐く。彼の表情が少し和らいだ。


「……はい。また月曜日に」


 タクシーが走り去っていく。

 残されたわたしは、まだ夜が明けきっていない冷たい空気を深く吸い込んだ。酔いはだいぶ引いているはずなのに、頭の芯が痺れているような感覚が残っていた。


(ああ、……ダメだ)


 言い訳の余地はなかった。

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