39.誠実で苛烈な救済
相果主任が手配したタクシーで向かった先は、夜でも人がまばらにいる喫茶店だった。どの客にも気怠げな満足感が浮かんでおり、飲み歩いた終着点がここなのだという風の顔ぶれだった。
テーブルを挟んで、相果主任と向かい合って座る。彼は、わたしの前にコーヒーが置かれるのを待ってから、自分のコーヒーに口をつけた。
「……本当に、意味がわかりません」
コーヒーカップを両手で抱えながら、わたしは何度目かわからない怒りを口にした。
「今回のために、わたしたちがどれだけの工数をかけて根回ししたか、わかっているはずですよね。それを、あんな感情的な理由で全部ひっくり返すなんて……。主任らしくないです」
「そうですね。僕の判断ミスです」
相果主任は、あっさりと肯定した。
「君たちの努力を、僕が無駄にした。本当に申し訳ないと思っています」
「だったら!」
声を荒げそうになり、慌てて声量を落とす。彼が反論してくれないせいで、わたしの怒りは矛先を失い、空回りしてばかりだ。
「……なら、どうしてあんなことをしたんですか。わたしが相手をすれば済んだのに……」
そうつぶやいた瞬間、相果主任がコーヒーカップをソーサーに置いた。彼は、わたしの目をまっすぐ見ていた。
「それだけで済むと思ったのか。あいつらが君をどういう目で見ていたか、気づかなかったわけじゃないだろう」
瞳に冷たい怒りがあるのを見て取って、わたしは息を呑む。
わたしは答えなかった。答えられなかったのだ。彼の問いの答えはとっくにわかっていた。
それだけで済んだはずがない。だが、それがいったい何だというのだ。わたしの中にも小さな怒りが灯る。
「……ええ。だからあのまま、お酒に付き合えばよかったんです。違いますか」
「そうしたら、次は『もっと静かな場所で』と言われる。契約を盾にして、きっとホテルに誘われた」
低い声が、わたしの薄っぺらい鎧を引きはがしていく。わたしが何をしようとしたのか、さまざまと思い知らせる。仕事のために、自分の尊厳を差し出そうとしたのだと。
遅れて、じわりと恐怖がやってくる。冷たい汗が滲んでくる。違う、違う……! 彼が、相果主任が無理やり気づかせたからだ。
追い詰められても、ほんのちょっとの間だけ心を殺して、痛みに耐えれば済んだ。
……最悪、後からどうにかする手段が、ないわけではない。
「わたしなら、上手くやります。上手く――」
「こんなことを上手くやる必要なんかない。君は、自分自身をそんなに安い存在だと思っているのか」
相果主任は断じるように言ってから、深く息を吐き出す。
「俺は、君の価値を高く見積もっているんだ。……いや、」
彼はそこで、短く言葉を切った。
「そんなきれいな理由じゃないな。ただ、嫌だったんだ。君があんな風に消費されるのが。それを受け入れようとしている君が」
わたしは、無言でコーヒーを煽った。焼けるような苦さが喉を滑り落ちていった。
(……ずるい)
そうだ、ずるい。
こんなの、どうやって切り捨てろというのだ。
自分の安売りすら厭わなかったわたしに、これ以上ないほどの価値を見出して、怒ってくれる男を?
わたしだって、好きでへらへら笑っていたわけじゃない。汚泥を啜ってでも数字を作るのがわたしの覚悟であり、誇りだった。それなのに、彼はそれらを「無価値だ」と言い捨てたのだ。わたしの覚悟も、誇りも、わたしを汚すものでしかないと断じて、その価値観を押し付けてきた。
わたしを全否定しても救いたい、とでもいうつもりだろうか。
なんて傲慢な優しさだろう。
「……最低です。最低」
「そうだね。最低なことをした」
「めちゃくちゃじゃないですか……」
呟いた声に、もう怒りの色はない。ただ降伏の響きが混じる。
相果主任は何も言わず、静かに向かい合っている。
(……ほんとうに、ずるい)
酔いに任せて、彼が強引に踏み込んでくることを、心のどこかで想定していた。ここで相果主任が「ごめんね」と手を握ったり、「君のせいじゃない」と肩を抱いたりしてきたら、まだよかったのだ。そうすれば、男の身勝手さに押し切られたと言い訳ができた。
なにより、彼を軽蔑できたのに。
混乱している女を慰めて、口では謝りながら触れてくるのだとしたら。なんだ、結局あのセクハラ男たちと同じじゃないか、と。そうやって幻滅できたのに。
だが、彼は一切触れてこない。
その完璧な誠実さが、わたしから言い訳を剥ぎ取ってしまう。
ああ、ダメだ。酔いのせいにできない。
完全に、わたしの負けだ。
空が白みはじめた頃、彼はわたしの自宅マンションの前でタクシーを停めさせた。
「送っていただいて、すみません」
「いいえ。連れ回してしまってすみませんでした。今日はゆっくり休んでください」
連れ回したのは、わたしのほうなのに。
わたしの価値を誰よりも高く見積もり、それを守るためだけに非合理的で狂った行動に出た男は、最後までわたしに指一本触れなかった。
「……主任」
「なんですか」
「今日は、ありがとうございました。月曜日、また会社で」
相果主任は、意外そうにわずかに目を見開いた。驚きにも見えたし、張りつめていたものが緩んだようにも見えた。
次いで、小さく息を吐く。彼の表情が少し和らいだ。
「……はい。また月曜日に」
タクシーが走り去っていく。
残されたわたしは、まだ夜が明けきっていない冷たい空気を深く吸い込んだ。酔いはだいぶ引いているはずなのに、頭の芯が痺れているような感覚が残っていた。
(ああ、……ダメだ)
言い訳の余地はなかった。




