38.壊れるべきは何か
あれから数週間が経った。代理店を交えて何度か顔合わせをしたのち、いよいよ最終的なすり合わせの日になった。事前の資料確認も、紙面構成のすり合わせも、大きな揉め事はなかった。今日は、美容誌の編集部で最終打ち合わせの後、そのまま会食に流れる段取りになっていた。
編集部を出たのは、すっかり日が落ちてからだった。
紙面タイアップだけでなく、サンプル配布や販促物まで連動する数千万規模の大型施策だ。わたしは必要な書類を揃え、相果主任が技術の要点を通した。
ここまでは、予定通りだった。
編集部のあるビルのエレベーターで一階まで降りる。扉が開くなり、先頭に立っていた編集長が振り返った。四十代半ば、よく日に焼けた顔に人好きのする笑みを貼りつけた男だ。打ち合わせ中は馴れ馴れしいくらいだったが、フットワークの軽さは一級で、話も早かった。
「いやー、形桐さんみたいな美人さんが担当だとテンション上がるね。うちも前向きに進めるからさ。飲みながら今後の展開を詰めようよ。ね? ほら、相果さんも」
「ありがとうございます。ええ、ぜひ」
相果主任が口を開く前に、わたしは笑っていた。
代理店の男たちが、手慣れた様子で場を整える。店は編集部のあるビルからほど近い、業界人が使い慣れていそうな和食店だった。
個室に通され、ごく自然な流れでわたしは奥の席に座った。最初の一杯が運ばれ、乾杯を済ませる。
グラスを空けすぎないように気をつけながら、相手の話を遮らずに聞く。編集長が機嫌よく喋り出したところで相槌を打ち、論点が逸れそうになれば、誌面の展開やサンプル配布の話へやわらかく戻した。相果主任の技術説明が必要な場面があれば、短く視線で合図を送った。
問題ない。ここまでは実務の延長だ。わたしが前に出ているぶん、話は滑らかに進んでさえいる。
「相果さんは技術のお話がメインですから、このへんで。形桐さんは、編集長の隣でしっかりプロモーションのご相談を……」
これは数千万の案件を通すための、最も効率的な手法だ。最適解のはずだった。
「宣伝ってさ、結局は人と人との付き合いだから。形桐さんみたいな愛嬌のある子と仕事したいんだよね」
編集長は声のトーンを落とした。仕事の顔をしたまま、その手はわたしの肩から、ゆっくりと腰のあたりへ滑り降りる。
「この契約、ハンコ捺すからさ。この後、もう一軒、静かな店で二人で詰められるよね?」
(大丈夫だ)
捌き方はわかっている。ここで揉めたらタイアップが飛んでしまう。数千万の損だ。数時間、笑っていればいい。それで終わる。
「相果さんはここまでで」
グラスが置かれる音がした。硬い音だった。
相果主任の手が伸び、わたしの手元からグラスを取り上げる。
「えっ……」
思わず声が漏れた。
「必要なすり合わせは、すべて済みました」
相果主任の声は相変わらず静かだったが、その静かさがむしろ異様だった。怒鳴りもしないのに、これ以上一歩も踏み込ませないという頑なさがはっきり伝わってくる。
編集長はまだ状況を飲み込めていないのか、へらへらと笑ったまま口を開く。
「え? まだこれから……」
「本日の打ち合わせはここまでにしてください。掲載企画は持ち帰ります」
そこで初めて、個室の空気が止まった。
編集長の笑いが途切れ、代理店の男たちの顔色が目に見えて変わる。これは場の不機嫌ではなく、案件そのものを切る宣言なのだと、全員が同時に理解したのだ。
「相果さん、ちょっと待って――」
「形桐さん」
相果主任はわたしを見た。視線が刺さる。
「帰りますよ」
わたしは立てなかった。だって、立つ必要がない。まだ、仕事の途中なのに。
相果主任は伝票を取り上げ、無言で会計に向かった。
わたしの中で、何かが切れた。
すぐに立ち上がって彼を追いかける。背中に編集長の声が飛んでくるが、もうそれどころではなかった。
店の外は、秋の夜気が冷たかった。喧騒はあるのに、わたしの耳には遠い。
相果主任は、乗り場の端で止まっていた。わたしは相果主任の前に回り込んで叫んだ。
「何をしてるんですか!」
声が震えた。怒りからだ。――怒りのはずだ。
そんなわたしを見下ろして、相果主任は静かに言った。
「あんな連中とタイアップするべきじゃない」
「ふざけないでください」
わたしは一歩踏みこんで、さらに怒りをぶつける。
「数千万の仕事を飛ばしかけた理由がそれですか? 主任の行動は越権です!」
相果主任はこちらが言い終わるのを待っていた。それが余計に、わたしの怒りを煽る。
「……そうだね。向こうに君を置いて行けばうまくいったが」
そこで言葉を区切り、彼が一歩、わたしに近づく。夜の暗がりの中で、彼の瞳に真っ直ぐ射抜かれ、わたしはたじろいだ。
「だけど、形桐さん。君は怒りの矛先を間違えている」
「な……何が、言いたいんですか」
「君が怒るべきなのは、あの人たちに対してだ」
「なぜです」
「人の尊厳を交渉材料にできる正当性などない。君を安売りして得る利益に、いったい何の価値がある?」
「なん……」
なんだ、この男は?
あまりの混乱に、わたしの怒りは一瞬、引っ込んでしまった。
彼は〈攻略対象〉だ。わたしに好意を抱いていることくらい、とうに気づいている。だが、そんな性欲じみた好意では、とうてい思いつかない言葉だ。
――わたしを安売りして得る利益にいったい何の価値がある、だって?
そんなの、二〇〇三年の独身男が口にするような言葉じゃない。女にだって、そこまで期待していなかったのに。
(確かに、彼は扇衣に対してとことん甘い男だったわ。でも……)
だが、相果 融は、こんなことを言うキャラクターだっただろうか。
――この男は、いったい何なの?
沈黙が落ちる。
繁華街の喧騒が、今のわたしには酷く遠く感じられた。
だが、ここで大人しく引き下がるのは、わたしのプライドが許さなかった。
わたしは奥歯を噛み締め、無言で手を伸ばす。相果主任の端正なスーツの胸元に吊るされたネクタイを掴み、ぐいっと下に引き寄せた。
「……っ」
大人の男だ。女にネクタイを引っ張られたくらいでよろめくはずがないのに、彼はあえて力を抜き、わたしの理不尽な暴力に身を委ね、顔を近づけてきた。
至近距離で、煙草の匂いが混ざり合う。
「わたしの案件を潰したんです。このまま帰れると思わないでくださいね」
「……ああ」
見つめ合う。彼の瞳には、怒りも、先ほどの冷酷さもない。相果主任は、わたしの怒りも混乱も、すべてを丸ごと受け入れるように微笑んだ。今夜になって初めて見る、やわらかな表情だった。
「どこか、人のいる場所へ行こう。君が納得するまで付き合うよ」
「当たり前です。とことん説明してもらいますからね」
強がりだった。自分の心臓の音が異常に早いことを、彼に見透かされるのが怖くて。




