37.役割に押し込める
十月も下旬に入り、宣伝部のフロアはすっかり秋の装いになっていた。
一般職の女性陣は、紺色のベストにブラウス姿へと衣替えを済ませていた。会社支給の秋・冬用の制服だ。フロアを見渡せば同じ色の背中がいくつも並んでいて、そこだけ紺色の境界線が引かれているようにも見えた。
総合職であるわたしは、自前のグレーのパンツスーツを着ている。同じ空間にいながら、視覚的に自分だけがその輪から浮いている。普段は気にも留めないその事実が、今日に限って妙に落ち着かず、薄い息苦しさがある。
だが、余計なことを考える暇はない。事態は想像よりも早く動き出していた。
週明けの会議室。議題は冬の主力スキンケアの大型タイアップ案件だ。
「媒体側の一次窓口は、昨日の話どおり形桐で進める」
維木課長の確認に、誰も異を唱えなかった。
「妥当ですね。形桐なら商品理解も早いし、現場での説明もできる」
先輩社員が、ごく自然な口調で維木課長の言葉を引き継ぐ。
「先方とのやり取りを考えると、そのほうが早いでしょう」
「今回の窓口は、内容と場の両方が回せる人間がいいからな」
その場にいる全員が、最適解を見つけたように頷いていた。
わたしは手元の資料に視線を落としたまま、静かに口角を上げた。
引っかかりがないわけではない。純粋な能力だけで指名されたわけではないことはわかっている。だが、それも含めて戦力として使えるなら、わざわざ切り分ける必要はない。それ以上に、全体を回せる適任として数えられている手応えのほうが強かった。
昼過ぎ、代理店の担当者から電話が入った。
『形桐さんが窓口に入ってくださると、本当に助かりますよ』
受話器の向こうの声は、仕事上の明確な歓迎の色を帯びていた。
『場慣れした方だと話が早いですし、編集部との空気も作りやすいですから』
「ありがとうございます。お力になれるよう努めます」
『ええ。ですから今度の顔合わせ、ぜひ形桐さんも同席してください』
通話を終え、カレンダーに予定を書き込む。
媒体は人間関係で動く。ならば、それも窓口業務のうちだ。使える条件を使わない理由はない。わたしが前に出ることでスムーズに進むルートが、着々と敷かれていくのを感じていた。
夕方、自席で会食の段取りをまとめていると、不意に声が降ってきた。
「この会食、資料で詰める話と場で詰める話が分かれていないように見えますが」
相果主任だった。今回のタイアップで技術担当としてアサインされている彼が、わたしの手元にある進行表を見下ろしている。
「窓口の負荷が偏りすぎていませんか。技術説明を含むなら、昼の打ち合わせで足りるはずです」
顔に感情の色はない。淡々と指摘してくる。倫理ではなく、純粋なプロジェクト管理としての異議。だが、今はそれがひどく煩わしい。
「顔合わせも兼ねていますから」
「夜にする必要がありますか?」
「ないとしても、ここで角を立てるほうが非効率でしょう。わたしが出るのがいちばん早いんです」
わたしは進行表から目を逸らさずに言い切った。
相果主任は短く息を吐く。
「……そうですね」
彼はそれ以上何も言わなかったが、納得したようにも見えなかった。静かに視線を外し、そのまま自席へ戻っていった。
すっかり人の減った夜のオフィスで、当日の資料を揃える。
商品情報、先方のプロフィール、当日の段取り。頭の中でシミュレーションを重ねながら、着ていく服を考える。ガチガチのスーツよりは、少し柔らかい印象を与えるアンサンブルのほうが場に馴染むだろう。
女として装うわけではない。窓口として最適化するための、ただの印象管理。
これは数千万規模の大型案件だ。絶対に落とせない。失敗のコストがあまりにも大きい。
だからこそ、自分が前に出るのが最も早い。商品理解も、現場の受け答えも、わたしがいちばん回せるのだ。
感じよく振る舞うのも、場を円滑にするのも、すべて窓口業務のうちだ。印象管理は実務に他ならない。
揃えた資料の束をデスクでトントンと叩き、わたしはピタリと動きを止めた。
ほんの少しだけ浮き上がりそうになった不安を、理屈を並べて無理やり蓋をする。
……ただの、調整だ。
自分に言い聞かせるようにきつく唇を結び、わたしはパソコンの電源を落とした。




