36.昇進エンドの感触
会議室には、下期のプロモーションに関する分厚い紙の資料が積まれていた。上座に座る維木課長は、手元の資料から一切視線を上げないまま、淡々と人員の配置を告げていく。
「冬の主力スキンケアのキャンペーンだが、この枠はお前が回せ、形桐」
思いがけない抜擢に、小さく肩が跳ねた。
年末商戦を左右する、かなり大きい枠だ。異動して半年の社員に回るには重すぎる案件だが、この数か月、雑に投げられた仕事をわたしが最短で捌いてきたことを、維木課長はちゃんと見ていたのだ。
「予算とスケジュールは金曜までに上げろ。他部署との調整も巻き取れるか」
「……はい! 金曜の午前中にはお持ちします」
維木課長は「わかった」とだけ言い、すぐに次の議題へ移った。
わたしを戦力として評価した抜擢だ。全身の血が沸き立つような心地よさが駆け巡る。恋愛イベントなどに構っている暇はない。こうして戦力として扱われるほうが、よほど健全だ。許されるなら、こういうルートだけを選びたいところだが。
午後に入ると、デスクの横に影が落ちた。顔を上げると、商品開発部の名嘉城くんが、片手に校正紙を持って立っている。
「悪ぃ、ちょっといいか。例の成分の見せ方だけど、このままパッケージで前に出すの、かなり渋られてるぜ」
「法務?」
「制作もな。文字をでかくすると他の表示が窮屈になるってさ」
「でも、開発としてはいちばん押したい成分なんでしょ?」
「だから来たんだよ」
渡された校正紙を一瞥して、わたしはすぐに赤ペンを取った。
「だったら、販促文かキャッチコピーを削って。両方取るのは無理よ」
名嘉城くんが、わずかに眉を上げる。
「……やっぱり、切るならそこだよな」
「ここしかないでしょ。だから宣伝部に聞きに来たんじゃないの?」
「そうだけどさ。じゃ、この方向で制作と法務に当たるわ。宣伝部の意向として伝えさせてもらう」
「いいわ。よろしく」
名嘉城くんの背中を見送って、息を吐く。
これでいい。わたしの判断力は鈍っていない。
夕方。定時を過ぎて、フロアの電話の音が少しずつ減り始めた頃だった。
「お疲れさま。少し、いいかな」
デスクの横に、相果主任が立っていた。
名嘉城くんの上司である彼は、いつもと変わらないダークスーツ姿だ。
一瞬だけ、土曜に見た黒のテーラードジャケットが脳裏をかすめる。
――今は仕事中だ。
わたしはそのイメージを追い払って、手元の資料に目を落とした。
「はい。なんでしょう?」
「先ほどのパッケージの件、名嘉城から聞きました。迅速な判断をありがとう。
それで、今後の導入の見せ方なんですが……。制作側の懸念と、うちの意向、販促コストを踏まえて、ひとまず叩き台を作ってみました」
彼はそう言って、一枚の紙をわたしのデスクに置いた。ついでに誤字を直しておきましたよ、とでも言うような軽い口調だった。
手渡された資料に目を落とす。
それは、わたしが今日の午後ずっと頭の中だけで比較していた二つの販促案のうち、コストは重いが訴求力が高い『サンプル提供を入口側に寄せるA案』を仕上げたものだった。
開発側の条件を繋げれば、彼がその案に行き着くこと自体は不思議ではない。だが、早すぎる。叩き台の顔をした完成形だ。
「どうかな。宣伝部としても、これが一番動きやすいと思うんですが」
穏やかに問う彼を見上げる。
何かが奪われたような実感があったが、別の案は出てこなかった。
「……はい。完璧です。ありがとうございます」
わたしのその答えを聞いて、相果主任は小さく頷き、自部署へと戻っていった。
彼が去った後、わたしは引き出しからノートを取り出した。ペンを取り、新しい行に日付と時間を書き込む。
『十八時十分。商品開発部の相果主任から資料を受け取る。内容は非常に――』
何かが違う。でも、何が?
ペンを強く握りしめたまま、わたしはノートの白紙の行を見つめる。
この文字列で、わたしはいったい何を証明しようとしていたのだろう?
……いや。考えるのはあとだ。
今はとにかく、仕事を進めるしかなかった。




