35.誰を閉じ込めるのか?
自分の部屋の鍵を開け、暗い玄関に足を踏み入れる。相果 融は静かに息を吐き、リビングの明かりをつけた。
テーラードジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛ける。
――今日の形桐さんは、ひどく綺麗だった。
待ち合わせに現れた彼女は、いつもよりずっと柔らかい装いで、よく似合っていた。いかにも彼女らしい理屈で武装し、必死に隙を隠そうとしていたのがいじらしい。
対等であろうと足掻くあの強さ。すべてを自分でコントロールしようとする危うさ。その意思に満ちた表情が、こちらの与える心地よさに抗いきれず、不満げに揺らいでいくさま。
その顔を思い出した瞬間、融は無意識に息を詰めていた。
襟元に指をかける。ネクタイはしていないはずなのに、喉がひどく窮屈に思えた。
換気のためだ、と自分に言い聞かせながら、窓を開ける。空気を入れ替えたかったのか、何かを追い出したかったのか、自分でもよくわからない。ただ、夜風を入れただけでは足りなくて、そのままベランダへ出た。
ふと、視線を落とした。ベランダには鉢植えがひとつある。ここではバジルを育てていた。乾くとすぐ葉が丸まるので、帰ったら必ず様子を見ることにしている。
そろそろベランダの掃除もしたいし、鉢植えの下も掃いておこうか。そう思って鉢を持ち上げた拍子に、暗がりに光る物が見えた。
鉢を少しずらしてみる。
――鍵が、あった。
心当たりはすぐに浮かんだ。
そうだ。春にも一度気づいて、鍵を探しても見つからなかった、あの開かずの扉だ。
それにしても、変な隠し場所だ。こんなところに隠すなんて、まるで子供じゃないか。あるいは、すぐに開けられないよう意図的に遠ざけていたみたいだ。無意識下の自分は、あの部屋の存在を、ここまでして隠そうとしていたのだろうか。
……。誰から?
(なんで……。どうして一つも覚えていないんだ?)
首筋を這う不吉な感覚に気付かないふりをして、鍵を握ったまま室内に戻る。
件の扉を前にした。鍵穴に鍵を差し込むと、すんなりと入った。そのまま、あっけなく回ってしまう。カチリ、と音がした。
扉を開けると、中は薄暗い。
電気のスイッチが壁にある。押すと、天井の蛍光灯が点いた。
本能が鳴らす警鐘を無視して、無理やりその空室に身体をねじ込む。部屋は長く使われていないようで、わずかに埃っぽい空気だ。
床には、緑色の養生テープと、束のままの結束バンドが転がっている。毛布は古いが、きちんと畳まれている。そして、マットが二枚。組み立て工具の入った工具箱は、開けっぱなしのまま放置されていた。
そして、部屋の中央に大きな金属の檻が置いてある。大型犬用の広々としたケージだ。ペット用にしても、少し物々しい。 折りたたみ式のパーツを組み立てたばかりのようだ。
部屋の隅には、段ボール箱が一つ。ガムテープは貼りたてのように新しい。箱の上にはレシートが一枚、無造作に置いてあった。印字は鮮明で、まだ黄ばんでいない。
長く使われていない空気の中で、中央に置かれた檻と段ボールだけが、異様に新しい。
融はまず、部屋の隅へ移動した。段ボール箱の前でしゃがんで、ガムテープを剥がした。粘着がまだ強く、指に少し付く。
蓋を開けて、最初に見えたのは――手錠だった。
次に革製の拘束具、南京錠、太い縄、長い鎖、バケツ。
「…………は、」
ガシャン。
箱の中身が、音を立てた。
箱を突き飛ばすように退けてしまったからだ、と気づいたのは、しばらく経ってからだ。
布製品のほとんどない空部屋で声が反響するのが怖くて、口元を押さえ、一歩後ずさる。
(もしかして、俺は、誰かを監禁するつもりだったのか)
(それとも、すでに?)
床に生活の跡はない。檻の中もきれいなものだ。
もう一歩、身を引いた。かかとが廊下の床に当たる。
「未遂……なのか」
だが、おそらく、誰かを閉じ込めるつもりだったのだ。
でも、いったい誰を?
無意識に、胸ポケットに手をやると、カサリと音がした。そこにはまだ一つも減っていない鎮痛剤のシートが収まっていることを、融はぼんやり思い出していた。




