表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/67

34.まだ仕事のつもり

 (さが)()主任は「じゃあ、上に行こうか」と言って、迷いなく上層階へと向かった。エスカレーターで上へあがるごとに、空気がわずかに変わる。化粧品売り場の甘い香りが、コーヒーやバターの香りに代わっていく。


 上層階はレストランフロアになっている。奥まった場所にある喫茶店は、お昼前の時間帯でも思いのほか静かだった。照明は落ち着いていて、子供連れが気軽に入る雰囲気ではない。


 窓際の席に腰を下ろして、ガラス越しに街並みを見下ろす。

 わたしは早々に注文を終え、さっそく手帳を開いた。


「特設の展示構成ですが、入り口付近のつかみが弱く感じました。うちのタイアップでは、第一印象でもう少しインパクトを出すべきかもしれませんね」


「同感だ。開発部としても、キーカラーはもっと前に出したい」


 わたしの実務的な分析に(さが)()主任は真剣に耳を傾け、的確な意見を返してくる。


(やっぱり、(みお)は考えすぎだ)


 わたしはヒロインとして扱われているわけではない。彼は本当に、意見を求めてわたしを呼んだのだ。形桐(かたぎり) (あお)()という宣伝部の同僚として。

 そう確信しながら、わたしは視察で得た知見を手帳に書き留めていく。


 そこで、サンドイッチのセットとアールグレイが運ばれてくる。その後の会話も、相変わらず仕事の話が続いた。


 やがて食事が終わり、店員が空いた皿を下げていく。テーブルの上には、注ぎ足された冷たい水と温かい紅茶、食後のサービスでついてきたプリンが残された。


 会話が途切れる。以前、甘いものが好きだと言っていた(さが)()主任は、ほんの少し嬉しそうだ。わたしよりも先に、プリンにスプーンを沈めはじめた。

 わたしは背もたれにゆったりと身体を預けて、窓の外の景色へと視線を向ける。


 ――あれ。仕事の話が終わっちゃった。

 じゃあ今、わたしは何のためにこの人と向かい合って座ってるんだろ……。


 (さが)()主任がゆっくりと視線を上げる。その理知的な瞳が、仕事中のものとは温度の違う、穏やかなものに変わっていた。


「改めて、今日はありがとう」


「あ……いえ。わたしにとっても、勉強になりましたから」


 その視線に熱を感じて、どきりとする。

 いや、違う。甘いものを前にして機嫌がいいだけだ。以前もパフェを迷いなく頼んでいたくらいなんだから。

 わたしもプリンを一口食べる。甘いはずだが、味はよくわからなかった。


「休日に君を連れ出してしまったからね。少しでも、息抜きになったなら嬉しいんですが」


 静かな労いだった。プライベートに踏み込みもしなければ、仕事の延長でさえない。彼がティーカップをそっと持ち上げたその指先の動きを、思わず目で追ってしまう。


 相手に気まずさを感じさせない気遣い。低く落ち着いた声。眠たくなるほど穏やかな昼下がり。そのすべてが、この時間をただの仕事の延長ではいられなくする。これは仕事だ、と自分を支えていた理屈が溶かされていく感覚があった。わたしたちの間から、同僚らしい距離が少しずつ剥がれていくような感覚。


 これ以上、彼を見てはいけない。そうわかっているのに。

 抗えない。


「そろそろ、行きましょうか」


 やがて彼が立ち上がったタイミングで、わたしはハッと我に返り、慌ててバッグから財布を取り出そうとした。

 しかし、(さが)()主任はわたしを制するように、小さく首を横に振った。店員が皿と一緒に置いていった伝票を、自然な手つきで取る。


形桐(かたぎり)さん」


 優しい声で名前を呼ばれ、動きが止まる。

 (さが)()主任は、いつものオフィスでは見せないような、ひどく優しい瞳でわたしを見下ろしていた。


「本当はね、君をここに連れてきたかったんです。僕のわがままだと思って、今日は素直に奢られてくれると嬉しいです」


 ――僕のわがまま。


 普段の(さが)()主任なら、こんなふうに自分の希望を前に出したりしない。何かを押しつけることもしない。そんな彼が、断る余地まで塞ぐように、自分の都合だと認めるなんて。


「あの……はい。では、お言葉に甘えて。ごちそうさまでした」


 財布をしまうしかないわたしは、今日の流れが最初から最後まで彼の段取りのうちだったのだと、ようやく思い知った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ