34.まだ仕事のつもり
相果主任は「じゃあ、上に行こうか」と言って、迷いなく上層階へと向かった。エスカレーターで上へあがるごとに、空気がわずかに変わる。化粧品売り場の甘い香りが、コーヒーやバターの香りに代わっていく。
上層階はレストランフロアになっている。奥まった場所にある喫茶店は、お昼前の時間帯でも思いのほか静かだった。照明は落ち着いていて、子供連れが気軽に入る雰囲気ではない。
窓際の席に腰を下ろして、ガラス越しに街並みを見下ろす。
わたしは早々に注文を終え、さっそく手帳を開いた。
「特設の展示構成ですが、入り口付近のつかみが弱く感じました。うちのタイアップでは、第一印象でもう少しインパクトを出すべきかもしれませんね」
「同感だ。開発部としても、キーカラーはもっと前に出したい」
わたしの実務的な分析に相果主任は真剣に耳を傾け、的確な意見を返してくる。
(やっぱり、澪は考えすぎだ)
わたしはヒロインとして扱われているわけではない。彼は本当に、意見を求めてわたしを呼んだのだ。形桐 扇衣という宣伝部の同僚として。
そう確信しながら、わたしは視察で得た知見を手帳に書き留めていく。
そこで、サンドイッチのセットとアールグレイが運ばれてくる。その後の会話も、相変わらず仕事の話が続いた。
やがて食事が終わり、店員が空いた皿を下げていく。テーブルの上には、注ぎ足された冷たい水と温かい紅茶、食後のサービスでついてきたプリンが残された。
会話が途切れる。以前、甘いものが好きだと言っていた相果主任は、ほんの少し嬉しそうだ。わたしよりも先に、プリンにスプーンを沈めはじめた。
わたしは背もたれにゆったりと身体を預けて、窓の外の景色へと視線を向ける。
――あれ。仕事の話が終わっちゃった。
じゃあ今、わたしは何のためにこの人と向かい合って座ってるんだろ……。
相果主任がゆっくりと視線を上げる。その理知的な瞳が、仕事中のものとは温度の違う、穏やかなものに変わっていた。
「改めて、今日はありがとう」
「あ……いえ。わたしにとっても、勉強になりましたから」
その視線に熱を感じて、どきりとする。
いや、違う。甘いものを前にして機嫌がいいだけだ。以前もパフェを迷いなく頼んでいたくらいなんだから。
わたしもプリンを一口食べる。甘いはずだが、味はよくわからなかった。
「休日に君を連れ出してしまったからね。少しでも、息抜きになったなら嬉しいんですが」
静かな労いだった。プライベートに踏み込みもしなければ、仕事の延長でさえない。彼がティーカップをそっと持ち上げたその指先の動きを、思わず目で追ってしまう。
相手に気まずさを感じさせない気遣い。低く落ち着いた声。眠たくなるほど穏やかな昼下がり。そのすべてが、この時間をただの仕事の延長ではいられなくする。これは仕事だ、と自分を支えていた理屈が溶かされていく感覚があった。わたしたちの間から、同僚らしい距離が少しずつ剥がれていくような感覚。
これ以上、彼を見てはいけない。そうわかっているのに。
抗えない。
「そろそろ、行きましょうか」
やがて彼が立ち上がったタイミングで、わたしはハッと我に返り、慌ててバッグから財布を取り出そうとした。
しかし、相果主任はわたしを制するように、小さく首を横に振った。店員が皿と一緒に置いていった伝票を、自然な手つきで取る。
「形桐さん」
優しい声で名前を呼ばれ、動きが止まる。
相果主任は、いつものオフィスでは見せないような、ひどく優しい瞳でわたしを見下ろしていた。
「本当はね、君をここに連れてきたかったんです。僕のわがままだと思って、今日は素直に奢られてくれると嬉しいです」
――僕のわがまま。
普段の相果主任なら、こんなふうに自分の希望を前に出したりしない。何かを押しつけることもしない。そんな彼が、断る余地まで塞ぐように、自分の都合だと認めるなんて。
「あの……はい。では、お言葉に甘えて。ごちそうさまでした」
財布をしまうしかないわたしは、今日の流れが最初から最後まで彼の段取りのうちだったのだと、ようやく思い知った。




