31.見落としたフラグ
相果主任とのランチのためにわたしが選んだのは、会社から少し歩いた裏通りにある、こぢんまりとしたイタリアンレストランだ。パスタが美味しいと評判で、かといって肩肘を張る店でもない。
要するに、異性とのランチを仕事の延長に見せるのに都合のいい店だった。
建前なしで誘っておきながら、いざ向かい合うと、わたしは「デートではなく、仕事だ」と自分に言い聞かせていた。相手は上司なのだから、下っ端のわたしが店を手配して段取りを組むくらい、別に不自然なことではない、と。
店員に促されて席に着く。レモン水の入ったグラスが置かれ、わたしたちがメニューを開いたタイミングで、わたしから切り出した。
「ここは魚介のパスタがおすすめですよ。お嫌いでなければ、ですが」
「ああ、ではそれでお願いします」
運ばれてきたパスタを味わいながら、わたしたちはタイアップの進行について言葉を交わした。
「――それで、開発部としては、例の成分の推し出し方は宣伝部に一任したいと考えていまして」
「わかりました。想定している読者層に合わせて、いくつか案を出しておきますね」
話題は、あくまで仕事が中心だ。わたしは心の中で、密かに安堵の息を吐いていた。
先日、火星を見上げる彼に感じたあの重苦しい引力も、万年筆を返されたときの不穏な胸騒ぎも、ここにはない。わたしが自主的にランチを提案し、明確な意思をもってこの場を作ったからこそ、彼との関係性を健全な仕事仲間という枠組みの中に収められているのだ。
わたしの判断は、間違っていなかった。
食後のコーヒーが運ばれてきたタイミングで、タイアップに関するすり合わせがひとまず一段落した。
完璧なペース配分だ。
己の段取りの巧さにすっかり満足したわたしは、嬉々としてコーヒーへ手を伸ばした。
相果主任は手元のコーヒーを見つめたまま、穏やかなトーンで切り出した。
「そういえば、今度の土曜日なんですが、市内のデパートで競合他社の特設ブースが出るんです」
「え! そうなんですね」
知らなかった。今度からそういう情報もしっかり収集しなくちゃ……と決意を新たにしているわたしをよそに、相果主任は続けた。
「一人で視察に行くつもりだったんですが……もし、君の予定が空いているなら、一緒にどうですか」
彼はそこで一度言葉を切り、静かで穏やかな瞳をこちらに向けた。
「宣伝部としての君の視点は、今回のタイアップの参考になると思って」
一切の熱を感じさせない、極めてフラットな提案。
わたしの思考が、鋭い警鐘を鳴らす。
休日に? 他部署の上司と? 二人で?
わざわざ私的な時間を割いてまで行くべきだろうか。
これがもし、「休日に出かけよう」という曖昧な誘いであれば、わたしは即座に警戒しただろう。たとえ誰かを〈攻略〉しなければならないとしても、強制的なデートイベントに身を任せるなどごめんだ。
しかし、相果主任の提案には一理ある。彼の提案は、宣伝部の視点が欲しいという名目で、他社の動向調査という大義名分がある。
……いや、むしろ、願ってもない提案だ。
異動して間もないわたしにとって、他社の販促を直に見る経験は純粋にプラスだ。これを「個人的なお誘いかも?」と自意識過剰に捉えて警戒し、有益な機会をふいにするほうが、よほど非合理で恥ずかしいことではないか。
「なるほど……。そういうことなら、ぜひご一緒させてください!」
葛藤をねじ伏せて応じると、相果主任は「ありがとう」と短く頷いた。
「助かります。君が来てくれるなら心強い。じゃあ、戻ったら時間と場所をメールしますね」
彼は嬉しそうに微笑んだが、そこには過剰な喜びも、甘ったるい雰囲気もない。あくまでも、優秀な同僚から協力を得られた役職者としての顔を崩さない。
店を出て、秋口の済んだ空気の中を歩きながら、わたしは確かな充足感に包まれていた。
自ら動くことで、あの得体の知れない引力を制し、有意義な視察の予定まで取り付けた。システムに流される哀れなヒロインとしてではなく、〈形桐 扇衣〉という個人の判断で、この状況を動かせている。
完全に、わたしのペースだ。
隣を歩く相果主任の美しい横顔を見上げながら、わたしは己の勝利を微塵も疑っていなかった。




