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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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31.見落としたフラグ

 (さが)()主任とのランチのためにわたしが選んだのは、会社から少し歩いた裏通りにある、こぢんまりとしたイタリアンレストランだ。パスタが美味しいと評判で、かといって肩肘を張る店でもない。


 要するに、異性とのランチを仕事の延長に見せるのに都合のいい店だった。


 建前なしで誘っておきながら、いざ向かい合うと、わたしは「デートではなく、仕事だ」と自分に言い聞かせていた。相手は上司なのだから、下っ端のわたしが店を手配して段取りを組むくらい、別に不自然なことではない、と。


 店員に促されて席に着く。レモン水の入ったグラスが置かれ、わたしたちがメニューを開いたタイミングで、わたしから切り出した。


「ここは魚介のパスタがおすすめですよ。お嫌いでなければ、ですが」


「ああ、ではそれでお願いします」


 運ばれてきたパスタを味わいながら、わたしたちはタイアップの進行について言葉を交わした。


「――それで、開発部としては、例の成分の推し出し方は宣伝部に一任したいと考えていまして」


「わかりました。想定している読者層に合わせて、いくつか案を出しておきますね」


 話題は、あくまで仕事が中心だ。わたしは心の中で、密かに安堵の息を吐いていた。

 先日、火星を見上げる彼に感じたあの重苦しい引力も、万年筆を返されたときの不穏な胸騒ぎも、ここにはない。わたしが自主的にランチを提案し、明確な意思をもってこの場を作ったからこそ、彼との関係性を()()()仕事仲間という枠組みの中に収められているのだ。


 わたしの判断は、間違っていなかった。


 食後のコーヒーが運ばれてきたタイミングで、タイアップに関するすり合わせがひとまず一段落した。


 完璧なペース配分だ。


 己の段取りの巧さにすっかり満足したわたしは、嬉々としてコーヒーへ手を伸ばした。

 (さが)()主任は手元のコーヒーを見つめたまま、穏やかなトーンで切り出した。


「そういえば、今度の土曜日なんですが、市内のデパートで競合他社の特設ブースが出るんです」


「え! そうなんですね」


 知らなかった。今度からそういう情報もしっかり収集しなくちゃ……と決意を新たにしているわたしをよそに、(さが)()主任は続けた。


「一人で視察に行くつもりだったんですが……もし、君の予定が空いているなら、一緒にどうですか」


 彼はそこで一度言葉を切り、静かで穏やかな瞳をこちらに向けた。


「宣伝部としての君の視点は、今回のタイアップの参考になると思って」


 一切の熱を感じさせない、極めてフラットな提案。

 わたしの思考が、鋭い警鐘を鳴らす。


 休日に? 他部署の上司と? 二人で?

 わざわざ私的な時間を割いてまで行くべきだろうか。


 これがもし、「休日に出かけよう」という曖昧な誘いであれば、わたしは即座に警戒しただろう。たとえ誰かを〈攻略〉しなければならないとしても、強制的なデートイベントに身を任せるなどごめんだ。

 しかし、(さが)()主任の提案には一理ある。彼の提案は、宣伝部の視点が欲しいという名目で、他社の動向調査という大義名分がある。


 ……いや、むしろ、願ってもない提案だ。

 異動して間もないわたしにとって、他社の販促を直に見る経験は純粋にプラスだ。これを「個人的なお誘いかも?」と自意識過剰に捉えて警戒し、有益な機会をふいにするほうが、よほど非合理で恥ずかしいことではないか。


「なるほど……。そういうことなら、ぜひご一緒させてください!」


 葛藤をねじ伏せて応じると、(さが)()主任は「ありがとう」と短く頷いた。


「助かります。君が来てくれるなら心強い。じゃあ、戻ったら時間と場所をメールしますね」


 彼は嬉しそうに微笑んだが、そこには過剰な喜びも、甘ったるい雰囲気もない。あくまでも、優秀な同僚から協力を得られた役職者としての顔を崩さない。


 店を出て、秋口の済んだ空気の中を歩きながら、わたしは確かな充足感に包まれていた。


 自ら動くことで、あの得体の知れない引力を制し、有意義な視察の予定まで取り付けた。システムに流される哀れなヒロインとしてではなく、〈形桐(かたぎり) (あお)()〉という個人の判断で、この状況を動かせている。


 完全に、わたしのペースだ。


 隣を歩く(さが)()主任の美しい横顔を見上げながら、わたしは己の勝利を微塵も疑っていなかった。

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