表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第2章:SUMMER

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/68

30.見逃されたフラグ

 秋のキャンペーンに向けた美容誌との大型タイアップ。その打ち合わせは、宣伝部と商品開発部の合同で、会議室で行われていた。


「商品開発部からの見解は以上です。検証データは昨日、所定の書式でお回ししています」


「確認した。では、この日程で進めよう。宣伝はラフの修正版を週明けまでに。開発は成分表記の最終確認を頼む」


 (さが)()主任の淀みない報告を(つな)()課長が引き取り、案件ごとの段取りを手際よく固めていく。


 わたしは議事録用のメモを取りつつ、机に広げた誌面ラフに目を落とし、商品説明の脇に入る成分表記を見直していた。事前にメールで届いていたデータを出力したもので、会議用のコピーにはすでに何本か赤が入っている。


「おい形桐(かたぎり)、そこ違うぞ」


 不意に、隣から手が伸びてきた。


「開発で統一してるやつがあるだろ。貸せ、俺が入れる」


 名嘉(なか)(じょう)くんはわたしの返事も待たず、手元の資料を自分のほうへ引き寄せた。さらに、わたしの指先から赤ペンをするりと抜き取る。


「ちょっと、名嘉(なか)(じょう)くん。自分で直すから」


「あんたがあとで開発(うち)に確認入れるより、今ここで直したほうが早いだろ」


 そう言って、彼はわたしの肩先にまで身を寄せ、遠慮のない筆圧で誌面ラフに修正を書き込んでいく。


 原料名の脇に入っていたルビが、開発側で使っている読みと違っていたらしい。たしかに、ここで揃えておいたほうが面倒がない。


 呆れつつも、名嘉(なか)(じょう)くんの指摘は正確で、なにより話が早い。わたしは小さく息を吐いて、赤い文字を追った。


 ふと顔を上げると、向かいの席で(さが)()主任が静かにこちらを見ていた。きちんと背筋を伸ばしたまま、窓口役としての距離を崩さない姿勢はいつも通りだ。それなのに、その感情の読めない静けさに、なぜか少し胸がざわつく。


 定刻になると、(つな)()課長は手帳を閉じて席を立った。


「じゃあ、各自よろしく」


 短く言い残し、会議室を出ていく。名嘉(なか)(じょう)くんも「じゃ、俺戻るんで」と資料を小脇に抱えて去っていった。


 あっという間に、会議室にはわたしと(さが)()主任の二人だけが残された。


「お疲れさまです。わたしも戻りますね」


 議事メモを書いていたノートを閉じ、立ち上がろうとしたときだった。


「形桐さん、少し待って」


 (さが)()主任の静かな声に呼び止められる。振り返ると、彼は上着の内ポケットから何かを取り出していた。


「申し訳ない。返しそびれていて」


 差し出されたのは、深紅の万年筆だった。


「あ、すみません」


 受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。

 万年筆を持つ、白く細い指先が、わずかに震えた。


「……っ」


 小さく、息を呑む音がした。


「主任? また、頭痛ですか」


 連日の激務のせいだろうか。以前、喫茶店で見たのと同じように、動きが止まる。わたしは慌てて鞄の中のポーチを探り、常備している鎮痛剤のシートを差し出した


「これ、前に渡したものと同じです。使ってください」


 (さが)()主任は数秒、目を閉じていたが、やがてゆっくりと息を吐き、いつもの穏やかな顔で目を開けた。


「……ありがとう」


 彼はわたしから鎮痛剤を受け取ると、柔らかく微笑んだ。


「ひどくなったら、使わせてもらうよ」


 そう言って、薬をワイシャツの胸ポケットへ差し込む。今すぐ飲むほどではないということだろう。わたしはそれ以上深く追及することなく、「無理しないでくださいね」と返した。


 ――さて、どうしようか。


 相手の出方ばかり窺うなんて、性に合わない。


 ふと、手元に視線を落とす。わたしの手に戻ってきた深紅の万年筆が、あの夜に見上げた赤い火星を連想させる。


 このまま席へ戻れば、(さが)()主任は何事もなかったように仕事へ戻るだろう。そしてわたしは、彼の底知れない引力に当てられ、ただ振り回されるちっぽけな衛星になる。

 ならば、与えられた軌道を外れて、先に一歩踏み込んでしまったほうがいい。そうすれば、この関係の主導権を、少しは自分の側へ引き戻せるはずだ。


 わたしはノートを抱え直し、まっすぐに(さが)()主任を見た。


「あの、主任」


「うん?」


 言葉が止まる。

 直属ではないとはいえ、相手は主任だ。社内で、しかも二人きりの食事に誘うなら、ふつうは仕事の相談という建前で口実をつけるものだが。


 それでは意味がない気がした。

 だから、腹をくくる。


「明日、お昼ご一緒しませんか」


 建前はない。特別な理由はない。ただ、わたし個人の意思で、彼を誘った。


 (さが)()主任は、ほんのわずかに目を見開いた。瞬きをひとつして、それから静かに微笑む。


「喜んで」


 そのやわらかな声色に、わたしは深く息を吐いた。


 よし。

 ちゃんと、自分で言った。

 流されるままではなく、自分の足で立って、自分の意思で一歩進んだのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ