30.見逃されたフラグ
秋のキャンペーンに向けた美容誌との大型タイアップ。その打ち合わせは、宣伝部と商品開発部の合同で、会議室で行われていた。
「商品開発部からの見解は以上です。検証データは昨日、所定の書式でお回ししています」
「確認した。では、この日程で進めよう。宣伝はラフの修正版を週明けまでに。開発は成分表記の最終確認を頼む」
相果主任の淀みない報告を維木課長が引き取り、案件ごとの段取りを手際よく固めていく。
わたしは議事録用のメモを取りつつ、机に広げた誌面ラフに目を落とし、商品説明の脇に入る成分表記を見直していた。事前にメールで届いていたデータを出力したもので、会議用のコピーにはすでに何本か赤が入っている。
「おい形桐、そこ違うぞ」
不意に、隣から手が伸びてきた。
「開発で統一してるやつがあるだろ。貸せ、俺が入れる」
名嘉城くんはわたしの返事も待たず、手元の資料を自分のほうへ引き寄せた。さらに、わたしの指先から赤ペンをするりと抜き取る。
「ちょっと、名嘉城くん。自分で直すから」
「あんたがあとで開発に確認入れるより、今ここで直したほうが早いだろ」
そう言って、彼はわたしの肩先にまで身を寄せ、遠慮のない筆圧で誌面ラフに修正を書き込んでいく。
原料名の脇に入っていたルビが、開発側で使っている読みと違っていたらしい。たしかに、ここで揃えておいたほうが面倒がない。
呆れつつも、名嘉城くんの指摘は正確で、なにより話が早い。わたしは小さく息を吐いて、赤い文字を追った。
ふと顔を上げると、向かいの席で相果主任が静かにこちらを見ていた。きちんと背筋を伸ばしたまま、窓口役としての距離を崩さない姿勢はいつも通りだ。それなのに、その感情の読めない静けさに、なぜか少し胸がざわつく。
定刻になると、維木課長は手帳を閉じて席を立った。
「じゃあ、各自よろしく」
短く言い残し、会議室を出ていく。名嘉城くんも「じゃ、俺戻るんで」と資料を小脇に抱えて去っていった。
あっという間に、会議室にはわたしと相果主任の二人だけが残された。
「お疲れさまです。わたしも戻りますね」
議事メモを書いていたノートを閉じ、立ち上がろうとしたときだった。
「形桐さん、少し待って」
相果主任の静かな声に呼び止められる。振り返ると、彼は上着の内ポケットから何かを取り出していた。
「申し訳ない。返しそびれていて」
差し出されたのは、深紅の万年筆だった。
「あ、すみません」
受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
万年筆を持つ、白く細い指先が、わずかに震えた。
「……っ」
小さく、息を呑む音がした。
「主任? また、頭痛ですか」
連日の激務のせいだろうか。以前、喫茶店で見たのと同じように、動きが止まる。わたしは慌てて鞄の中のポーチを探り、常備している鎮痛剤のシートを差し出した
「これ、前に渡したものと同じです。使ってください」
相果主任は数秒、目を閉じていたが、やがてゆっくりと息を吐き、いつもの穏やかな顔で目を開けた。
「……ありがとう」
彼はわたしから鎮痛剤を受け取ると、柔らかく微笑んだ。
「ひどくなったら、使わせてもらうよ」
そう言って、薬をワイシャツの胸ポケットへ差し込む。今すぐ飲むほどではないということだろう。わたしはそれ以上深く追及することなく、「無理しないでくださいね」と返した。
――さて、どうしようか。
相手の出方ばかり窺うなんて、性に合わない。
ふと、手元に視線を落とす。わたしの手に戻ってきた深紅の万年筆が、あの夜に見上げた赤い火星を連想させる。
このまま席へ戻れば、相果主任は何事もなかったように仕事へ戻るだろう。そしてわたしは、彼の底知れない引力に当てられ、ただ振り回されるちっぽけな衛星になる。
ならば、与えられた軌道を外れて、先に一歩踏み込んでしまったほうがいい。そうすれば、この関係の主導権を、少しは自分の側へ引き戻せるはずだ。
わたしはノートを抱え直し、まっすぐに相果主任を見た。
「あの、主任」
「うん?」
言葉が止まる。
直属ではないとはいえ、相手は主任だ。社内で、しかも二人きりの食事に誘うなら、ふつうは仕事の相談という建前で口実をつけるものだが。
それでは意味がない気がした。
だから、腹をくくる。
「明日、お昼ご一緒しませんか」
建前はない。特別な理由はない。ただ、わたし個人の意思で、彼を誘った。
相果主任は、ほんのわずかに目を見開いた。瞬きをひとつして、それから静かに微笑む。
「喜んで」
そのやわらかな声色に、わたしは深く息を吐いた。
よし。
ちゃんと、自分で言った。
流されるままではなく、自分の足で立って、自分の意思で一歩進んだのだ。




