29.そら、みたことか
二〇〇三年 八月二十七日 水曜日
八月は、多くの社員がお盆休みや夏休みを挟む。だからだろうか、オフィスはぽつぽつと人が残るだけで、厄介な〈攻略対象〉の面々と顔を合わせる機会が少なかった。
維木課長とは毎日のように顔を合わせていた。彼もわたしも、夏休みをずらして取ると言いつつ、結局は有給をドブに捨てて(そういうことがまかり通っていた)仕事に打ち込むほうを選んだからだ。
もっとも、わたしは後で有給を買い戻すつもりだ(そういうこともまかり通っていた)。
維木課長については、正直あまり警戒していない。彼はオフィスの機能の一部みたいなものだからだ。彼を落とそうと思ったらヒロイン側から積極的なアプローチをかけなければならない。恋愛に関しては、彼自身にそういう欲が薄いせいもあるのだろうが、受け身一〇〇パーセントの男なのである。女性優位であの鉄面皮を引っぺがしたいという肉食系ユーザーのために用意されたようなルートだった。
したがって、わたしたちはそれっぽい雰囲気になることもなく、サーバ同士が送受信するように書類とハンコの高速ラリーを行っていた。雑談なし、愛想笑いなし、感情労働なし。令和風にいえばタイムパフォーマンス一〇〇パーセント。仕事に集中したいわたしにとっては、最高の環境だ。
だが、この環境に甘んじるわけにもいかない。
(……。そろそろ腹を決めて、誰かを攻略しないとだめかなあ)
定時を少し過ぎた頃、わたしは会社を出た。
エントランスを抜け、駅へと続く中庭の公開空地に差し掛かったときだ。
見慣れた後ろ姿を見つけて、心臓が跳ねあがった。
相果主任だった。
夏の湿った夜風の中、中庭の暗がりにある立ち木に寄りかかって、夜空を見上げている。仕事帰りなのだろう、ジャケットをきちんと羽織り、手にはビジネスバッグを持ったままだ。
こちらには、まだ気づいていないらしい。声をかけるべきかどうか、少し迷う。
このまま素通りしてしまえば、気づかれずに済むだろうけど。
――どうしてこの人は、いつも日陰にばかりいるのだろう。
人気のない給湯室、非常階段、ラウンジエリア。まるで、誰からも見つけてほしくないみたいに。
気づけば、声をかけていた。
「相果主任?」
彼がゆっくりとこちらを向いた。彼はわたしを認めると、一瞬だけ驚いたように目を見開く。そして、いつもの涼やかな、しかしどこか捨て鉢な微笑みを浮かべた。
「……あれ、形桐さん。お疲れさまです。奇遇ですね」
「こんなところで何を?」
「空を見ていました。今夜がピークだそうですよ」
「ピーク?」
「あれです」
彼はすっと片手を上げて、南東の空を指差した。つられてそちらを見上げて、思わず息を呑む。
そこには、街灯をものともせずひときわ輝く星があった。月のようにも見えたが、月にしてはずいぶん赤みがかっている。
「火星です。六万年ぶりの大接近だとか」
彼は淡々と、ニュースのように語る。
「六万年……」
「ええ。ネアンデルタール人が見て以来だそうですよ。次にこれが見られるのは二二八七年。その頃にはもう、人類なんて跡形もないかもしれませんね」
その彫像のように美しい横顔に、火星の赤が落ちているように見えた。
――そんなはず、ないのに。たかが惑星の光が、地球の人間を照らし出すほど光るなんてあり得ない。街灯に照らされているだけだ。
そう言い聞かせるのに、彼の存在がひどく遠い。
六万年ぶりの大接近。そう謳われるほど圧倒的な質量で迫ってくるのに、ここからでは絶対に触れられないあの火星のようだ。今、この瞬間も隣にいるのに、彼の心だけが六万年の彼方へ飛んでいってしまいそうだ。
それが、無性に怖かった。システム的なエラーへの恐怖ではない。もっと原始的なものだ。
知り合いを失ってしまうのではないか、という胸騒ぎにも似た焦燥感。
「……相果主任」
無意識に、彼の上着の袖を掴みかけ――寸前で止めた。
「二二八七年なんてどうでもいいです。わたしは、明日の会議のことで精一杯ですよ!」
努めて明るい、現世の声を張り上げた。
わたしの声に、彼はゆっくりと視線を向ける。遠くを見ていた瞳が、わたしの顔を映した。
「そうですね。君といると、時間が経つのが早いから」
「え?」
「僕は、意外とすぐだと思いますよ。終わりなんて」
不吉な言葉だ。だがその響きは、優しく、毒のようにわたしの胸に沈んでいった。
「……変なこと、言わないでくださいよ」
「ふふ。……引き止めてすみません。お疲れさま」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、彼の暗い瞳の奥に、その赤い星が、炎のようにねっとりと映り込んでいる。その赤色が、網膜に焼き付いて離れない。
帰り道、コンビニの棚で線香花火が目に入ったのだって、きっとあの赤い星のせいだ。
あの不吉で美しい赤を、手元でもう一度見る手段はないかと思ってしまって。
ムダだ。非効率だ。
そうわかっているのに、わたしはレジへと向かっていた。
「ただいまー」
アパートのドアを開けると、冷房の効いた涼しい空気が頬を撫でた。中庭の湿った熱気と、彼が纏っていたあの息苦しい重力が、ようやく剥がれ落ちてくれたようだった。
「おかえりー。遅かったね」
リビングでは、妹の螢が寝転がって雑誌を読んでいた。わたしは靴を脱ぎながら、コンビニのレジ袋から買ってきたばかりの薄っぺらいパッケージを取り出した。
「ねえ、螢」
「んー?」
「これやらない?」
ひらひらと振って見せると、螢は体を起こし、わたしの手元を見て少し目を丸くした。
「花火? 急にどしたの」
「コンビニのレジ横にあって。なんとなく、夏のノルマをこなしておこうかと」
「……まあ、いいけど。火ぃ持ってくる」
螢は不思議そうに首を傾げながらも、素直に立ち上がってくれた。
窓を開けると、外はまだ生暖かい。狭いベランダにしゃがみ込み、ちろちろと燃える小さな火種を二人で囲む。
螢は線香花火の火玉をじっと見つめたまま、独り言のように言った。
「姉ちゃんさあ、最近、すごく人間らしくなったよね」
「失礼ね。わたしはもとから人間よ」
そうだけどさ、と螢は苦笑した。
「前はもっとさ、他人なんて面倒くさいって言ってたじゃん。なのに、今はそうじゃなさそうだし」
螢が顔を上げた。その瞳がわたしを向いているのはわかっていたが、わたしは妹の目を見返せなかった。
「……そうねえ。必要なコストを払うことを覚えたというか」
「ふーん。まあ、いいけど。変な問題つっついて火傷しないようにね」
螢はそう言って、燃え尽きた花火の柄を水バケツに放り込んだ。ジュ、と小さな音を立てて、火の玉が落ちる。
あとに残ったのは、硝煙の匂いだけだった。
(……わかってる)
火傷をすることくらい、わかっている。
わたしは、今日、あの人の上着の袖を掴みかけた。
あの人はおそらくバグで、虚無で、絶対に深入りしてはいけない、終わりそのものだ。
明日の会議よりも、六万年後の約束よりも、ただ彼を繋ぎ止めたくて、こんな非合理な火遊びに興じている。
あんなに赤く燃える星なんて、見上げるんじゃなかった。
見上げてしまえば、魅入られるに決まっているのに。
わたしは暗い空を見上げて、心の中で自分を嘲笑った。
そらみたことか。
その言葉は、星への感嘆のようでもあり、自分への判決のようでもあった。




