27.未だ棺桶に入らず
日曜日の夕方。慰安旅行はつつがなく解散となった。
どうやって自宅まで戻ったか、よく覚えていない。気が付けば、リビングのソファに深く沈み込んでいた。
エアコンはガンガンに効いていて、寒いくらい冷えていた。冷たい風が肌を直撃してくるのも構わず、わたしはぼんやりとテレビを観ていた。夕方に差し掛かろうというタイミングで、視聴率が跳ね上がるゴールデンタイムはまだ先だ。テレビでは通販番組をやっていて、何がどう作用するのかピンとこないようなダイエット器具を紹介していた。滔々と歌うように湧き出すアピールポイントや、後入れじみたわざとらしい笑い声をどこか遠くに感じながら、わたしは昨日のことを思い出していた。
――君はもう十分働いた。これ以上、誰かの世話をする必要はないですよ。
うだるような暑さと、底抜けに明るい笑い声から切り離されていたラウンジエリア。相果主任の隣。
あの後、バーベキューがお開きになるまで彼の隣にいた。
大したことは話さなかった。相果主任は、想像よりもずっと物静かだった。
必要なときには堂々と発言する人だから、ここまで無口という印象はなかった。彼もまた、わたしと同じように意識して声を出す人なのだと知った。コストを払って、社会に馴染むための〈顔〉を作っているのだと。
そんな彼の隣で、わたしはただ存在するだけでよかった。そのように承認されたのはいつぶりだろう。幼少期を思い返してみてさえ、該当する記憶がない。
涼しくて、心地よくて……
「姉ちゃーん」
「冷たっ!!」
唐突に、鋭い冷たさが頬を刺す。グラスが押し当てられたのだとわかった。ぐっしょり濡れた頬に手を当てて後ろを振り返ると、妹の螢が、呆れたような視線でわたしを見下ろしていた。手には、氷と麦茶がたっぷり注がれたグラスを持っている。もう片方の手にはトレイがあり、グラスがもう一つと、個包装された真っ赤なアイスキャンディーが二つ載っている。
「顔ヤバ。そろそろ現実戻ってきなねー」
螢はわたしの返事も待たず、グラスをテーブルに置いていく。そして、アイスキャンディーの一本を無言でこちらに突き出した。わたしも無言で受け取る。
情緒も何もない。
(現実って言っても……)
ここは、現実じゃないのに。
螢はわたしの様子を一切気にすることなく、テレビの前の定位置に座ってアイスキャンディーの袋を開け始めた。
あっさりしたものだ。乙女ゲームで主人公の〈妹〉ポジションにいるなら、慰安旅行で何があったのか、好きな人でもできたのかと、根掘り葉掘り聞いてくるのが定石ではないんだろうか。
だが、螢はゴシップに一ミリの興味も示さない子だ。彼女にとって大事なのは、涼しい室内で自分がいかに快適に過ごすか、ただそれだけだ。
袋を開けて、真っ赤なアイスキャンディーを一口頬張る。人工的なイチゴの香り、がつんとくる甘み、あとからわずかな酸味が追ってくる。見た目こそアイスキャンディーだが、少しお高めの味がする。
これは、螢が自分のためにせっせと確保しているアイスではないのか。普段は、わたしがどれだけ頼んでも絶対に分けてくれないのに。
「……これ、おいしい」
「でしょ」
螢はそれだけ言う。テレビから目を離さず、黙々とアイスキャンディを食べながら、左手をこちらに突き出してきた。
「じゃ、百円いただきまーす」
瞬間、わたしは笑った。螢は転んでもただでは起きない、ふてぶてしい子だ。そこがわたしはとっても気に入っている。
「いいわよ」
あっけなく同意したわたしに、螢はぎょっとした顔でこちらを見た。
「は、え? 姉ちゃん、マジで大丈夫? 頭打った?」
「失礼ね。たまには妹にお小遣いでもあげたい気分になんのよ」
「しょうがないなー、なら協力してあげる。千円でいいよー」
わたしが笑いながら千円を差し出すと、螢はちょっと動揺していた(ちゃっかり受け取りはした)。
たまにはこうやって妹の鼻を明かしてやるのも楽しいものだ。
***
月曜日になった。朝の宣伝部フロアには、休み明けの気だるい余韻が漂っていた。「もうすっかり筋肉痛だよ」「日焼けで皮が剥けちゃってさあ」なんて声が、あちこちで飛び交っている。
わたしはパソコンの電源を入れながら、指の腹で頬を小さく叩いて気合を入れる。今日からまた、月末進行の仕事を片付けていかなければ。
モニタが点いたのを確認し、手帳を広げたところで、後ろから声が飛んできた。
「形桐さーん、おはようございます!」
現原くんだった。朝イチの社内便を抱えて、小走りでわたしのデスクへやってくる。
「おはよう、現原くん! 社内便ありがとね」
「はい! あ、そういえば昨日は入れ違いでしたねー。酔った新人の介抱、お疲れさまっす!」
(ああ。相果主任が吐いた嘘ね)
酔った新人を介抱したというその場しのぎの嘘は、事実として処理されているようだった。だが、現原くんが目を輝かせながら続きを話し始めたところで、わたしは思わず閉口した。
なんでもわたしは、緊張で酔いつぶれてしまった新人を介抱してあげたのだという。その子(女性)を介抱する間も、わたしは嫌な顔一つせず、今後の仕事に差し障りが出ないように心を配り、恩を笠に着ることなく立ち去ったのだとか。
(……マジで言ってる? 現原くんの脳内妄想じゃなくて?)
こんな話を広められるのは、相果主任を置いて他にはいない。わたしが姿を消していた時間が、美談としてすっかり隠蔽されていた。それにしては詳細過ぎるというか、設定を盛り過ぎではないだろうか。なんでボロが出ないの?
完璧な根回し。その有能さに感嘆する一方で、背筋にうすら寒さが這い上がってくる。
「ごめんね、ちょっとバタバタしてて。現原くんこそ、後片付けお疲れさま」
「いえ! 当然のことっす。じゃ!」
無邪気に笑って去っていく後輩の背中を見送った、直後だった。
ふわりと、上品なフローラルの香りが鼻をかすめた。
「おはよう、扇衣ちゃん」
振り向きながら顔を上げると、光胡さんがいた。人当たりのよさそうな笑顔でわたしを見下ろしていた。淡いベージュのアンサンブルに、時間をかけてセットされた巻き髪。デスクの縁に添えられた指先には、肌馴染みの良いピンクのネイルが艶やかに光っている。
「おはようございます、光胡さん」
「土曜日は、男の人に混じってお肉焼き、ご苦労さま」
ねぎらいの言葉で柔らかく隠された、小さな棘。
唇こそきれいに弧を描いているが、眼光には隙がない。一般職――庶務や経理など、部署の生命線を握る部門のトップとして女性たちの調和を守る目が、わたしを品定めしていた。
慰安旅行で、わたしが〈女の武器〉を使って男たちにちやほやされ、調和を乱すような振る舞いをしなかったかどうかを鋭く検分している。
光胡さんは、悪人ではない。この態度は、彼女がこの男社会で長年をかけて築き上げ、守ってきた秩序を維持するための、正しい防衛反応だ。
わたしもまた笑みを浮かべながら、脳内でめまぐるしく計算していた。
ここで「ええ、大変でした」と疲労をアピールするのは心象が良くない。
この言葉には、「男たちに囲まれ、頼りにされた」というニュアンスが含まれてしまうからだ。つまり光胡さんの耳には、「ええ、わたし皆のヒロインとして求められちゃって、疲れちゃいました」という最悪のマウントに聞こえかねない。
そうなれば、わたしは秩序を乱す生意気な総合職の女として〈敵〉とみなされるだろう。今後の仕事に差し障りが出すぎる。一時の気持ちよさを優先して反論するには、コストが高すぎる。
「とんでもないです!」
わたしは居住まいを正し、恐縮したように小さく頭を下げた。
「光胡さんたちが、事前に完璧な仕込みをしてくれたおかげです。お野菜のカットも、お肉の下準備も、すべて綺麗に整えてくださっていたから……。わたしなんて、ただ火の前に立って焼いていただけですから!」
秩序と、長年の感情労働に対する敬意。彼女が一番欲しいであろう言葉を差し出す。
数秒の沈黙ののち、光胡さんの目元から、ふっと警戒の糸が解けた。
声色が、甘く柔らかいものに変わる。
「……本当、男の人ってそういう裏の準備には気が利かないんだもの。扇衣ちゃんも、無理してあっちのペースに巻き込まれないようにね」
それは牽制ではなかった。わきまえている後輩を身内として庇護する、女の園の権力者の顔。
(よっしゃ! 正解を引いた!!)
心の中でガッツポーズを決めつつ、表情は澄まして微笑んだ。
「はい、ありがとうございます!!」
満面の笑みで頷き、去っていく光胡さんを見送りながら、わたしは内心で静かに息を吐いた。
(今後もやりやすくなりそうだ。油断はできないけど)
厄介なシステムを一つ、手駒として動かせる形に整えられたという手応え。
やはり、わたしにはこちらの方が性に合っている。自分の頭で考え、計算し、主導権を握るこのやり方が。
わたしは小さく口角を上げると、月末の数字が並ぶExcelを開いた。




