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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第2章:SUMMER

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26/66

26.日陰の中の補給係

 土曜の昼下がり。バブル期の余韻を色濃く残すリゾートホテルで、慰安旅行という名の強制イベントが絶賛進行中である。


 プールサイドに隣接した広大なバーベキューテラスには、無駄に立派な大理石調のテーブルとカラフルな巨大パラソルが並んでいる。スピーカーからは陽気なラテン音楽が流れ、目の前には視界の端まで広がる青い海。

 波打ち際では、若手社員たちが水しぶきを上げてはしゃぎ回り、プールサイドに隣接したテラスからは煙がもうもうと立ちのぼり、バーベキューで焦げた油の匂いをまき散らしていた。


 わたしはといえば、テラスでトング片手に指示を飛ばしていた。


現原(ありはら)くん! ドリンク用の氷が足りないみたい。ホテルのスタッフさんに氷追加してもらって!」


「了解です! あ、先輩、焼きそばの麺ってどこっすか!?」


「コンロの傍、そこのクーラーボックスの中!」


 額の汗を拭う暇もない。

 若手かつ、気の利く女性社員というラベルを貼られているわたしにとって、ここは真夏の楽園ではない。笑顔で肉を焼き、ドリンクを勧め、輪に入れない新人に話を振る。高度なマルチタスクが要求される、灼熱の戦場だ。


 巨大パラソルの一角で、一般職の女性社員たちがデジカメ片手にポーズを決めていた。この理不尽な現実(ゲーム)における、彼女たちなりの生存戦略なのだろう。

 総合職であるわたしが、彼女たちの輪に交ぜてもらうのはひどく気を遣う。見えない縄張りに触れず、角の立たない話題を探り合うくらいなら、ここで黙々と肉焼き係をやっているほうがよほど気楽だった。


 上司がつれてきた子供たちが水鉄砲を振り回し、規制を上げながらわたしの横を走り抜けていった。熱いコンロにぶつからないか、ガスボンベを倒さないかと気が気ではない。


 じりじりと肌を焼く太陽、大音量のラテン音楽、女性陣のアルコールで声量が壊れた同僚たちのはしゃぎ声、子供たちの甲高い絶叫。

 円滑な人間関係を維持するために必要な経費(コスト)だと、割り切ってはいるが。


 波打ち際で、ドッ歓声が沸く。


「おい! 名嘉(なか)(じょう)が海に飛び込んだぞ!」


「あいつ服のままじゃねえか! 馬鹿かよ!」


 昨日のブロック肉をドヤ顔で焼き上げた名嘉(なか)(じょう)くんが、後輩たちを巻き込んで海辺で暴れている。

 その圧倒的な生のエネルギーは、この場では正しい存在であるはずだったのに、今はこの強制的な明るさと熱気が、わたしの精神を削ってくる。


(……うるさい)


 ふと、思考がショートした。うまくものが考えられない。

 限界だ、と心の中で苦笑する。


「ちょっと、休憩しようかな~」 


 誰に言うでもなく呟いて、わたしは喧騒を離れ、テラスの端を目指した。照り返しのきついウッドデッキから逃げるように、屋根付きのラウンジエリアへと向かう。そこではビールをキンキンに冷やしてあるはずだ。とにかく、このやるせない気持ちをアルコールを流したかった。


 ラウンジエリアを潜ると、そこには先客がいた。


「……こんなところでサボりですか、主任?」


 (さが)()主任だった。

 黒いリネンの長袖シャツに、薄手のスラックス。はなから太陽のもとに出る気はありませんと宣言しているかのような格好だ。無地のキャップを膝の上に置き、革張りのソファに深く腰掛けて、涼しい顔でクーラーボックスの番をしている。

 彼は「サボり」という言葉を拾って、面白そうに笑った。


「ドリンクの監視役ですよ。大切な役目です。ぬるいビールなんて嫌ですからね」


「さっき、商品開発部の人が主任を探してましたよ。戻らなくていいんですか?」


「僕のように口下手な上司は、補給部隊に徹するのがいいんです」


 (さが)()主任はわたしの顔を見もせず、クーラーボックスを開けた。氷水に浸った缶の一つを、ゆっくりと取り出す。その整った横顔を見ていると、海辺のドンチャン騒ぎが遠い別世界のように思えてくる。

 

形桐(かたぎり)さんも、一本いかがですか。よく冷えてますよ」


 差し出されたのは、缶ビールだった。引き寄せられるように手が伸びて、缶ビールを受け取る。指先に痛いほどの冷たさを感じて、我に返った。

 お礼を言わなければ。

 わたしは口角を上げて「ありがとうございます」と言おうとした。だが、それよりも早く(さが)()主任が、機先を制するように口を開く。


「向こうは、眩しすぎるね」


 (さが)()主任は、依然としてわたしを見ない。彼の視線は、ビーチで戯れる同僚たちに向けられていた。太陽光に晒されたビーチは、白飛びして見えるほどに明るい。

 向こうでは、ずぶ濡れの名嘉(なか)(じょう)くんが同僚に羽交い絞めにされ、ビーチに転がるところだった。二人とも、砂まみれになって笑っている。

 眩しくて、騒がしくて、海風と汗のにおいがする青春の一ページ。


 そのとき、ぱたぱたと音がした。濡れたサンダルでウッドデッキを走る音だ。


形桐(かたぎり)さん、どこ行ったんすかー? そろそろスイカ割るらしいっすよー!!」


 びくりと肩が跳ねた。


(……休憩は終わりだ)


 わたしは反射的に振り返った。「ごめん、ちょっと涼んでたの」と言って、笑顔で復帰しなければ。あの喧騒の中へ。熱気と、脂と、大音量の音楽と、笑い声の中へ。


「…………」


 なぜだか想像しただけで、どっと胃が重くなった。

 戻りたくない。そう叫ぶ心を押し殺して――


 すっ、と目の前に腕が伸びて来た。

 (さが)()主任の手が、わたしの肩を軽く制する。

 ここにいなさい、という合図。


 わたしが目を見開くと、彼は人差し指を唇に当てた。はじめて目が合った。

 (さが)()主任はラウンジエリアの外へ身体を出し、よく通る声で言った。


現原(ありはら)くん!」


「わっ、(さが)()主任!」と、現原(ありはら)くんの元気な声が聞こえてくる。

 姿は見えない。ラウンジエリアに踏み入る前に、(さが)()主任から話しかけられたことで足を止めたようだった。


「ここにいたんすね! 主任、形桐(かたぎり)さん見ませんでした?」


「さっき、ロビーのほうへ行きましたよ。酔った新人の介抱をするとかで」


 彼は、息をするように嘘を吐いた。


「え、マジすか。入れ違いかー。あざっす!」


 現原(ありはら)くんは疑うこともなく、「せんぱ~い!」と叫びながら、足音を遠のかせていった。

 その背中を見つめていたであろう(さが)()主任は、表情ひとつ変えなかった。


 嵐は去り、再び、沈黙が戻ってくる。(さが)()主任は、何事もなかったかのように、再び定位置のソファへ身を沈めた。


「……嘘つきですね」


 わたしが小さな声で指摘すると、(さが)()主任は「人聞きが悪いですね」と笑って肩をすくめた。


現原(ありはら)くんは君を探していたわけじゃないでしょう? スイカ割りの頭数を揃えられるなら誰でもいいんだ。結果は同じ」


「屁理屈ですね」


「君はもう十分働いた。これ以上、誰かの世話をする必要はないですよ」


 反論はできなかった。


 (さが)()主任は、嘘を吐いてまで、わたしを世界から隠そうとしたのに。

 以前のわたしなら、コミュニケーションの遮断を図ろうとしていると恐怖しただろう。わたしの代打として(つな)()課長への報告を買って出たときのように、他者との接触を阻害する手段だと見做したはずだ。


 だが、たとえそうだったとしても。今の消耗しきったわたしには、その隠蔽工作が、何よりもありがたい守りに思えてしまった。


 ――向こうは、眩しすぎるね。


 (さが)()主任の言葉を反芻する。瞬間、張りつめていた糸がぷつりと切れてしまった。


「あの……隣、いいですか?」


「どうぞ」


 無言で、ソファの空いているスペースに――(さが)()主任の隣に腰を下ろす。

 しばらく、会話はなかった。一定のリズムで打ち寄せる波の音と、笑い声と、ラテン音楽の陽気なビートが、遠く感じた。居心地のいい沈黙だった。


 ふと、(さが)()主任がクーラーボックスの影から何かを取り出した。

 アルミホイルに包まれた皿だ。彼がそっとアルミをめくると、そこには名嘉(なか)(じょう)くんが焼いたであろう完璧なスモークのブロック肉と、瑞々しい焼き野菜が並んでいた。


「君、あんまり食べてないでしょう。よければ、どうぞ」


 図星だった。周りの皿ばかり気にして、自分の胃袋は後回しにしていた。なぜわかったのか、と問いたい気持ちはあったが、今のわたしにそこまでの気力はなかった。差し出された割り箸を、おずおずと受け取る。


「いいんですか? これ、主任の分じゃ……」


「僕は補給係ですから、食べる機会はいくらでもあります。……それに、君が食べてくれるほうが、僕は気分がいい」


 わたしは「ありがとうございます」と言って、肉を口に運んだ。

 冷めてはいたが、柔らかくて、驚くほど美味しかった。噛み占めるほどに、空っぽだった胃袋に、生気が染み渡っていくようだった。


「おいしい……」


「それはよかった。取っておいた甲斐があります」


 彼が確保してくれていた肉は、すっかり冷めている。向こうで奪い合うように食べる焼きたての肉よりも、日陰でこっそりと分け与えられた冷たい肉で、どうしてこんなに満たされるのだろう。


 (さが)()主任は、わたしが食べるのを見ることもなく、缶ビールを開けて飲んでいた。


 何も聞かない。ただ、ここにいることを許して、放っておいてくれる。


 前はあれほど避けたかった男の隣なのに、今はどうしてこんなに、心地いいシェルターのように思えるのだろう。


 皮肉なことに、わたしを棺桶に入れようとしている男の隣が、今のわたしにとって唯一の息継ぎができる場所になっていた。

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