25.彼にとってのBBQ
夏商戦という地獄の繁忙期を乗り越えても、息つく暇はない。
七月。乙女ゲームの定石に則るなら、『夏のイベント』の波が怒涛のように押し寄せてくる季節である。
好感度を上げるためのイベントは目白押しだが、その中でも最大のビッグイベントといえば。
慰安旅行。
そう、慰安旅行である。花火大会ではなく。
〈攻略対象〉が学生の乙女ゲームであれば、花火大会が定番だ。だがわたしたちは社会人で、このゲームのタイトルは『社内恋愛』。となれば、社内での一大イベントは花火大会に赴くことではなく、社員総出で海辺のリゾートホテルに押し込められることだ。
それが、明日からの予定だ。
乙女ゲーム的には屋外での開放感あふれる特別なイベントの宝庫であり、ヒロインにとっては料理スキルをアピールする絶好のチャンスらしい。だが、現実の会社員にとっては、貴重な土曜日を返上した強制参加の親睦会でしかない。
しかも、わたしは幹事として、BBQ用の買い出し係という貧乏くじまで引かされている。
だが、やるからには完璧に回すのがわたしのモットーだ。
三十人分の肉と酒を当日の朝に買うなど、品切れやタイムロスといった不確定要素が多すぎる。常温のぬるいビールを出すわけにもいかない。
だからこそ、わざわざ金曜の仕事終わりに買い出しのスケジュールを組み、会社の冷蔵庫も根回しして空っぽにさせておいたのだ。わたしの手配に隙はない。
――完璧なはず、だったのだが。
「……暑い」
わたしは手で顔を扇ぎながら、会社のエントランスで空を睨んだ。アスファルトが昼間に溜め込んだ熱をねっとりと吐き出している。
ニュースでは記録的な冷夏だと騒いでいるが、そんな情報は今のわたしには何の役にも立たない。少なくともこのコンクリートジャングルにおいては、一切関係がないのだ。
わたしは腕時計に目を落とした。
一八時〇三分。待ち合わせ時刻を三分過ぎている。
「遅い……」
レディを待たせるなんて、〈攻略対象〉としては減点対象だ。もっとも、今日一緒に組む相手は、そういう細かい配慮とは無縁の男だが。
ブォン、と重たいエンジン音が近づいてくる。
滑り込んできたのは、車高の高い黒のSUVだ。助手席の窓が下がり、サングラスをずらした名嘉城くんが顔を出した。
「よっ。お待たせ」
「三分遅刻よ」
「細かいこと言うなって。エアコン冷やしといてやったぞ」
悪びれもせず笑う。わたしはため息をついて、高いステップに足をかけ、助手席に乗り込んだ。
車内は冷えていた。タバコの残り香と、強いマリン系の芳香剤の匂いが鼻に届く。異界の空気だった。いかにも男の車というふうだ。
「じゃ、飛ばすぞ」
「安全運転でお願いしたいんですけど?」
「へいへい」
名嘉城くんは軽く流しながら片手でハンドルを回し、器用に車を発進させた。運転は少し荒いが、迷いがない。こういうところは、いかにも開発のエースらしいというか、性格が出ている。
向かったのは、郊外にある巨大な業務スーパーだ。
倉庫のような店内は、冷房が効きすぎていて寒いくらいだった。わたしは入り口でカートを確保し、持参したクリップボードに挟んだリストを確認する。
「人数は三十人。肉にかけられるのは二万円くらいね。まずはバーベキュー用の牛肉と、焼きそば用のバラ肉と……」
わたしが計算し、パック包装された薄切り肉をカートに入れていると、名嘉城くんがふらりと離れていった。精肉コーナーの奥、巨大な冷蔵ケースの前で足を止める。
「あ。ちょっと名嘉城くん。どこ行くのよ」
「おい形桐。あれ見ろよ!」
追いつくと、名嘉城くんは子供みたいに目を輝かせて、ある一点を指差していた。
真空パックされた、赤黒い岩のような塊。
牛肩ロースのブロック肉だ。二キロはあるだろうか。
「……こんなのも置いてるんだ。すごいわね」
「だろ? 赤身とサシのバランスもいい。最高じゃねえか」
名嘉城くんは冷蔵ケースを開け、無造作にその塊を掴むと、カートにどんと載せた。あまりに自然な動作で、止めるという発想が出てこなかった。彼が肉から手を離したところで、わたしははっと我に返った。
「ちょっ、ちょっと待って! 何入れてんの!」
「何って、肉だろ」
「何言ってんの!? ダメよ!」
わたしは慌てて肉を戻そうとしたが、名嘉城くんがそれを制した。
「ダメってあんた、明日に何するかわかってんのか?」
「バーベキューでしょ?」
「だろ? そんな薄っぺらい肉を焼くのはバーベキューじゃねえ。グリルだよ。俺が本物のバーベキューを見せてやるぜ」
「はあ? そんな塊、中まで火が通る前に焦げるわよ」
困惑するわたしをよそに、名嘉城くんは、したり顔で語り出した。
「だからお前らは素人なんだよ。いいか? 本物のバーベキューってのは、薄い肉を強火で焦がすことじゃねえ。でけえ肉を低温でじっくりスモークして、歯がなくても食えるくらいホロホロにするもんなんだよ」
いかにも開発部の男めいたこだわりの開示に、わたしは心底呆れて反論する。
「あのねえ。これはお腹を空かせた三十人分のランチになるの。のんびり焼いてたら暴動が起きるわよ」
「安心しろ、薄い肉も買ってやる。だが、メインはこの塊だ。俺が完璧に温度管理して焼いてやるからな、見とけよ!」
「会社の冷蔵庫には入らなさそうだけど?」
「持って帰って仕込むさ。スパイスすり込んで一晩寝かせないといけないしな」
彼の並々ならぬこだわりに、わたしは珍しくもちょっと気圧されていた。
「えーと……。予算はどうすんのよ? 明らかに足が出るわよ」
「その分は俺が出す。それで文句ねえだろ」
名嘉城くんはためらうことなく自分の財布を叩いてみせた。
わたしは口を開きかけて、閉じた。自腹を切る、俺が責任もって保管して当日に焼くから、と言われてしまったら、もう止める理由はない。それに、この自信満々な顔を見ていると、不思議と「まあ、任せてみるか」という気にさせられる。
「……領収書、切れないからね」
「わーってるよ。ケチくさいこと言うな」
結局、わたしは薄切り肉と野菜をカゴに入れ、名嘉城くんはスパイスと大量の酒をカートに積み込んだ。
レジを通すと案の定、金額はものすごいことになったが、名嘉城くんは涼しい顔で万札を出し、重たいカゴを軽々と持ち上げた。
「はい、お釣りね。旦那さん、豪快でいいねえ! 若いのに偉いよ」
レジのおばちゃんが、わたしと名嘉城くんを見てニコニコしながら言った。完全に若夫婦だと勘違いしている。わたしは瞬時に否定しようとした。
「あー、いえ、違いま――」
「こいつ財布の紐が固くて。たまには贅沢させてやらないとね!」
名嘉城くんが、わたしの言葉を遮ってニヤリと笑った。
「あら〜。愛妻家だこと!」
おばちゃんはさらに嬉しそうに笑う。わたしは引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。彼は、場のノリに応じた嘘を平気で吐く。それが妙に説得力を持ってしまうから始末が悪い。
店を出て、駐車場へ向かう道すがら、わたしは名嘉城くんを睨んだ。
「なんで否定しなかったのよ?」
「そんなの聞いてもらえるわけねえだろ。それとも、あのおばちゃんの長話に付き合う気だったのか? 悠長なこった」
正論だ。腹が立つ。
車のトランクを開け、荷物を積み込む。
名嘉城くんは手際がいい。重いビールケースを奥に、肉を入れたクーラーボックスを手前に、パズルのように隙間なく埋めていく。Tシャツの袖から覗く腕には、重い荷物を支える筋肉の筋が浮き上がっていた。
わたしが手伝おうとすると、「お前は軽いもん持て。腰やるぞ」と制される。
ふと見ると、彼の首筋に玉のような汗が浮いていた。
わたしはバッグからハンカチを取り出そうとしたが、その前に名嘉城くんが、自分のTシャツの裾で顔の汗をガシガシと拭ってしまった。
わたしの視線に気づいた彼が、怪訝そうな顔をする。
「ん? なんだよ」
「いや。野蛮だなーと思って」
名嘉城くんは鼻で笑う。
「ハッ。上品ぶってろよ、お嬢さま!」
そう言うと同時に、トランクが閉められる。
帰りの車内。夕暮れの西日が、フロントガラスから差し込んでくる。
名嘉城くんは窓を開けてから、タバコに火をつけた。風と共に、紫煙が外へ流れていく。
名嘉城くんが、煙を吐きながら言った。
「明日は俺の肉で全員黙らせてやるからな。お前にも食わせてやるよ」
「なるほど、毒見役ってわけ」
「なわけねーだろ。ったく、可愛げのない」
そう言いつつも、名嘉城くんはケラケラと笑った。その笑顔は、夏の太陽みたいに屈託がなくて、強引だ。
この男は、相変わらず距離が近いし、付き合い方が雑だ。だが、不思議と嫌ではない。彼がいると、物事が停滞せずに動く感じがするから。
明日のバーベキューも、きっと彼が中心になって騒がしくなるんだろうな、と思った。




