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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第2章:SUMMER

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25/67

25.彼にとってのBBQ

 夏商戦という地獄の繁忙期を乗り越えても、息つく暇はない。

 七月。乙女ゲームの定石に則るなら、『夏のイベント』の波が怒涛のように押し寄せてくる季節である。

 好感度を上げるためのイベントは目白押しだが、その中でも最大のビッグイベントといえば。


 慰安旅行。


 そう、慰安旅行である。花火大会ではなく。

 〈攻略対象〉が学生の乙女ゲームであれば、花火大会が定番だ。だがわたしたちは社会人で、このゲームのタイトルは『社内恋愛』。となれば、社内での一大イベントは花火大会に赴くことではなく、社員総出で海辺のリゾートホテルに押し込められることだ。


 それが、明日からの予定だ。

 乙女ゲーム的には屋外での開放感あふれる特別なイベントの宝庫であり、ヒロインにとっては料理スキルをアピールする絶好のチャンスらしい。だが、現実の会社員にとっては、貴重な土曜日を返上した強制参加の親睦会でしかない。


 しかも、わたしは幹事として、BBQ(バーベキュー)用の買い出し係という貧乏くじまで引かされている。


 だが、やるからには完璧に回すのがわたしのモットーだ。

 三十人分の肉と酒を当日の朝に買うなど、品切れやタイムロスといった不確定要素が多すぎる。常温のぬるいビールを出すわけにもいかない。

 だからこそ、わざわざ金曜の仕事終わりに買い出しのスケジュールを組み、会社の冷蔵庫も根回しして空っぽにさせておいたのだ。わたしの手配に隙はない。


 ――完璧なはず、だったのだが。


「……暑い」


 わたしは手で顔を扇ぎながら、会社のエントランスで空を睨んだ。アスファルトが昼間に溜め込んだ熱をねっとりと吐き出している。

 ニュースでは記録的な冷夏だと騒いでいるが、そんな情報は今のわたしには何の役にも立たない。少なくともこのコンクリートジャングルにおいては、一切関係がないのだ。

 わたしは腕時計に目を落とした。

 一八時〇三分。待ち合わせ時刻を三分過ぎている。


「遅い……」


 レディを待たせるなんて、〈攻略対象〉としては減点対象だ。もっとも、今日一緒に組む相手は、そういう細かい配慮とは無縁の男だが。


 ブォン、と重たいエンジン音が近づいてくる。

 滑り込んできたのは、車高の高い黒のSUVだ。助手席の窓が下がり、サングラスをずらした名嘉(なか)(じょう)くんが顔を出した。


「よっ。お待たせ」


「三分遅刻よ」


「細かいこと言うなって。エアコン冷やしといてやったぞ」


 悪びれもせず笑う。わたしはため息をついて、高いステップに足をかけ、助手席に乗り込んだ。

 車内は冷えていた。タバコの残り香と、強いマリン系の芳香剤の匂いが鼻に届く。異界の空気だった。いかにも男の車というふうだ。


「じゃ、飛ばすぞ」


「安全運転でお願いしたいんですけど?」


「へいへい」


 名嘉(なか)(じょう)くんは軽く流しながら片手でハンドルを回し、器用に車を発進させた。運転は少し荒いが、迷いがない。こういうところは、いかにも開発のエースらしいというか、性格が出ている。


 向かったのは、郊外にある巨大な業務スーパーだ。

 倉庫のような店内は、冷房が効きすぎていて寒いくらいだった。わたしは入り口でカートを確保し、持参したクリップボードに挟んだリストを確認する。


「人数は三十人。肉にかけられるのは二万円くらいね。まずはバーベキュー用の牛肉と、焼きそば用のバラ肉と……」


 わたしが計算し、パック包装された薄切り肉をカートに入れていると、名嘉(なか)(じょう)くんがふらりと離れていった。精肉コーナーの奥、巨大な冷蔵ケースの前で足を止める。


「あ。ちょっと名嘉(なか)(じょう)くん。どこ行くのよ」


「おい形桐(かたぎり)。あれ見ろよ!」


 追いつくと、名嘉(なか)(じょう)くんは子供みたいに目を輝かせて、ある一点を指差していた。

 真空パックされた、赤黒い岩のような塊。

 牛肩ロースのブロック肉だ。二キロはあるだろうか。


「……こんなのも置いてるんだ。すごいわね」


「だろ? 赤身とサシのバランスもいい。最高じゃねえか」


 名嘉(なか)(じょう)くんは冷蔵ケースを開け、無造作にその塊を掴むと、カートにどんと載せた。あまりに自然な動作で、止めるという発想が出てこなかった。彼が肉から手を離したところで、わたしははっと我に返った。


「ちょっ、ちょっと待って! 何入れてんの!」


「何って、肉だろ」


「何言ってんの!? ダメよ!」


 わたしは慌てて肉を戻そうとしたが、名嘉(なか)(じょう)くんがそれを制した。


「ダメってあんた、明日に何するかわかってんのか?」


「バーベキューでしょ?」


「だろ? そんな薄っぺらい肉を焼くのはバーベキューじゃねえ。グリルだよ。俺が本物のバーベキューを見せてやるぜ」


「はあ? そんな塊、中まで火が通る前に焦げるわよ」


 困惑するわたしをよそに、名嘉(なか)(じょう)くんは、したり顔で語り出した。


「だからお前らは素人なんだよ。いいか? 本物のバーベキューってのは、薄い肉を強火で焦がすことじゃねえ。でけえ肉を低温でじっくりスモークして、歯がなくても食えるくらいホロホロにするもんなんだよ」


 いかにも開発部の男めいたこだわりの開示に、わたしは心底呆れて反論する。


「あのねえ。これはお腹を空かせた三十人分のランチになるの。のんびり焼いてたら暴動が起きるわよ」


「安心しろ、薄い肉も買ってやる。だが、メインはこの塊だ。俺が完璧に温度管理して焼いてやるからな、見とけよ!」


「会社の冷蔵庫には入らなさそうだけど?」


「持って帰って仕込むさ。スパイスすり込んで一晩寝かせないといけないしな」


 彼の並々ならぬこだわりに、わたしは珍しくもちょっと気圧されていた。


「えーと……。予算はどうすんのよ? 明らかに足が出るわよ」


「その分は俺が出す。それで文句ねえだろ」


 名嘉(なか)(じょう)くんはためらうことなく自分の財布を叩いてみせた。

 わたしは口を開きかけて、閉じた。自腹を切る、俺が責任もって保管して当日に焼くから、と言われてしまったら、もう止める理由はない。それに、この自信満々な顔を見ていると、不思議と「まあ、任せてみるか」という気にさせられる。


「……領収書、切れないからね」


「わーってるよ。ケチくさいこと言うな」


 結局、わたしは薄切り肉と野菜をカゴに入れ、名嘉(なか)(じょう)くんはスパイスと大量の酒をカートに積み込んだ。


 レジを通すと案の定、金額はものすごいことになったが、名嘉(なか)(じょう)くんは涼しい顔で万札を出し、重たいカゴを軽々と持ち上げた。


「はい、お釣りね。旦那さん、豪快でいいねえ! 若いのに偉いよ」


 レジのおばちゃんが、わたしと名嘉(なか)(じょう)くんを見てニコニコしながら言った。完全に若夫婦だと勘違いしている。わたしは瞬時に否定しようとした。


「あー、いえ、違いま――」


「こいつ財布の紐が固くて。たまには贅沢させてやらないとね!」


 名嘉(なか)(じょう)くんが、わたしの言葉を遮ってニヤリと笑った。


「あら〜。愛妻家だこと!」


 おばちゃんはさらに嬉しそうに笑う。わたしは引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。彼は、場のノリに応じた嘘を平気で吐く。それが妙に説得力を持ってしまうから始末が悪い。


 店を出て、駐車場へ向かう道すがら、わたしは名嘉(なか)(じょう)くんを睨んだ。


「なんで否定しなかったのよ?」


「そんなの聞いてもらえるわけねえだろ。それとも、あのおばちゃんの長話に付き合う気だったのか? 悠長なこった」


 正論だ。腹が立つ。


 車のトランクを開け、荷物を積み込む。

 名嘉(なか)(じょう)くんは手際がいい。重いビールケースを奥に、肉を入れたクーラーボックスを手前に、パズルのように隙間なく埋めていく。Tシャツの袖から覗く腕には、重い荷物を支える筋肉の筋が浮き上がっていた。

 わたしが手伝おうとすると、「お前は軽いもん持て。腰やるぞ」と制される。


 ふと見ると、彼の首筋に玉のような汗が浮いていた。

 わたしはバッグからハンカチを取り出そうとしたが、その前に名嘉(なか)(じょう)くんが、自分のTシャツの裾で顔の汗をガシガシと拭ってしまった。

 わたしの視線に気づいた彼が、怪訝そうな顔をする。


「ん? なんだよ」


「いや。野蛮だなーと思って」


 名嘉(なか)(じょう)くんは鼻で笑う。


「ハッ。上品ぶってろよ、お嬢さま!」


 そう言うと同時に、トランクが閉められる。


 帰りの車内。夕暮れの西日が、フロントガラスから差し込んでくる。

 名嘉(なか)(じょう)くんは窓を開けてから、タバコに火をつけた。風と共に、紫煙が外へ流れていく。

 名嘉(なか)(じょう)くんが、煙を吐きながら言った。


「明日は俺の肉で全員黙らせてやるからな。お前にも食わせてやるよ」


「なるほど、毒見役ってわけ」


「なわけねーだろ。ったく、可愛げのない」


 そう言いつつも、名嘉(なか)(じょう)くんはケラケラと笑った。その笑顔は、夏の太陽みたいに屈託がなくて、強引だ。


 この男は、相変わらず距離が近いし、付き合い方が雑だ。だが、不思議と嫌ではない。彼がいると、物事が停滞せずに動く感じがするから。


 明日のバーベキューも、きっと彼が中心になって騒がしくなるんだろうな、と思った。

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