23.システムの先回り
相果主任は給湯室に入ってくると、わたしの疲れた顔を見て、優しく目を細めた。
「顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
ぎくりとする。いや、あなたがその要因のひとりなんですよ、とも言えない。
狭い給湯室で、彼との距離が妙に近く感じる。
「よければ、僕から維木課長に説明しておきましょうか? 調整作業が長引いたことにして」
優しい提案に、わたしは背筋が凍る思いだった。
彼は今、善意という皮を被って、わたしと直属の上司とのコミュニケーションを遮断しようとしている。
彼にそのつもりがなくても、結果としてそうなるのだ。「自分を通さないと上司と話もできない」という状況に追い込めば、わたしは彼に依存せざるを得なくなる。外堀を埋めて、逃げ場をなくして、優しく檻へと誘導しようとしている。
(甘い言葉で、わたしの社会的な手足を奪おうとしている)
昨日のわたしは、本当にどうかしていた。
彼の「目の届くところにいてくれ」という言葉に、ほんの少しでも頼もしさを覚えてしまっただなんて。
寝言を言うな。
この男――相果 融のバッドエンドを忘れたのか?
これまでの三人とは、レベルが違うのだ。
――『相果てる』。
相果 融に愛された末に、攫われて監禁される未来。
それだけでも最悪だ。だが監禁生活の果てに扇衣が限界を迎え、死を渇望するようになると、なんと心中を試みてしまう。彼だけが死ぬ(檻から出られないヒロインは当然、餓死する)Aパターンと、両方死ぬBパターンがあるが、そんな細かいことはどうでもいい。どちらに転んでも地獄なのだから。
良くも悪くも、女性であるわたしには、競争から降りるという社会的な逃げ道が残されている。一方で、この時代の男性にとって、この社会的な勝負から降りることはアイデンティティの喪失だ。競争から降りることは〈死〉と同義だろう。
だが、わたしにとっては、そうではない。皮肉なことに、毎夜わたしを苛立たせるこの〈女性〉というラベルは、この社会で生き延びる難易度を下げる因子でもあるのだ。
令和の価値観を持つわたしは、たとえ不本意でも、泥を啜って次の勝ち筋を探せるだろう。
そう、生き延びることさえできれば。
他の三人のバッドエンドに嵌っても、社会的な破滅や腐敗した関係に陥る程度で済む。
だが、相果主任のバッドエンドは、その「生存」すら許さないのだ。
(相果主任ルートは、誇張なしに「人生の終わり」なのよ!)
他の三人も大概だが、相果主任だけ恐ろしさのジャンルがサイコスリラーである。
優しい言葉でわたしを棺桶に詰め、蓋を閉めようとしている。その棺桶は相果主任の部屋に納められ、二度と光を見ることができなくなるわけだ。
「どうしましたか、形桐さん?」
そんな自分の未来は露知らず、きょとんと問いかける相果主任。
その無垢な瞳が、今はなによりも恐ろしい。
「あ……いえ!! お気遣いありがとうございます!! 全然平気ですから!!!」
わたしはひきつった笑顔でそう叫ぶと、給湯室から飛び出した。
奇しくも、地雷回避スタンプラリーを埋めてしまった一日だった。
気づけば定時を回っていた。
仕事を頑張り過ぎて、脳が痺れているように感じる。アルコール漬けになるにはちょうどいい疲れだ。
(はあ……疲れた。今日はもう帰って、ビール飲んで、眠ろう)
駅へ向かう雑踏の中、思考停止状態で足を動かす。
その時だった。
「扇衣ー! お疲れ!」
いきなり背後から腕を引かれた。振り返ると、灰色の雑踏の中でそこだけ彩度が高いような、明るい笑顔がある。
「返事ないから来ちゃった! 駅前で張ってて正解~」
澪だ。わたしは呆然と彼女を見つめた。
返事?
「え……。ごめん、連絡くれたの?」
「えーっ。メール送ったよー? ほら!」
澪は笑顔で携帯画面を突きつけてくる。液晶画面には、確かに彼女のメッセージが表示されていた。
『今からご飯どう? 駅前いるよー』
送信完了マークもついている。アドレスも間違っていない。
「うそ……」
わたしは慌てて自分のバッグから携帯を取り出した。センター問い合わせを押す。
『新着メールはありません』
電波障害? そんな都合のいい偶然があるか?
わたしがこのメールに気づいていたら、今日は必ず断ったはずだ。駅前で待ち伏せされて澪に捕獲されるルートへ強制誘導するために、通信そのものを握り潰したようじゃないか。
――考えすぎだ。そんなこと、できるわけがない。
「あー、電波悪かったんじゃない? たまにあるよねー」
「……ごめんね」
「ぜんぜん! 会えたからよくない? 以心伝心ってことで!」
澪は気にした風もなく、わたしの腕をぐいぐいと引っ張った。
「でさ、ちょうどいい店見つけたんだ。行こ行こ!」
その善意の強引さに、わたしは抵抗できなかった。
わたしの意思など関係ない。世界は、どうしてもわたしをこのイベントに進ませたいらしかった。




