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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第2章:SUMMER

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22/70

22.悪い結末の走馬灯

 静かな部屋に、くしで髪をく音が響いている。

 わたしは、部屋の中央にある上質なソファに座らされ、虚ろな瞳で微笑んでいた。


 マンションの一室のようだが、昼か夜かもわからない。窓という窓はすべて黒いガムテープと段ボールで二重に目張りされ、その上から分厚い遮光カーテンが引かれていた。

 部屋の隅には、不釣り合いなほど巨大な、大型犬でも楽々入れられそうな(おり)が鎮座している。


 逃げることは、できそうになかった。

 左手首には、肌を傷つけないよう革が巻かれた手錠が嵌められてる。そこから伸びた長い鎖は、ソファの脚に繋がれていた。もっとも、そんなものがなくても、今のわたしにここから逃げる気力など残ってはいなかった。


「髪、綺麗になったよ」


 背後から、穏やかな声が降ってくる。


 〈せんぱい〉は――(さが)() (とおる)は、わたしの髪を丁寧に梳かし終えると、愛おしそうに頬を撫でた。その指先は温かい。暴力など振るわれたことはない。食事も、睡眠も、排泄も、すべて彼が完璧に〈管理〉してくれる。


 思考能力を奪われ、判断を奪われ、ただ彼に生かされるだけの〈所有物〉に成り下がった扇衣(ヒロイン)の末路。


「大丈夫。君はもう、何も選ばなくていいんだよ」


 耳元で囁かれる声は蜂蜜のようだ。喉を焼くような、溺れるほど水を飲みたくなるような渇望を掻き立てる甘さ。

 その甘やかな泥沼に、頭の先まで沈んでいくような錯覚に――




 弾かれたように目を覚ました。

 心臓が早鐘を打っている。全身が嫌な汗でじっとりと濡れていた。

 カーテンの隙間から、容赦のない朝の陽射しが差し込んでいる。見慣れた自分の部屋だ。

 夢の中の〝彼〟の甘い声が、耳にこびりついて離れない。


(最悪の夢だ……)


 昨夜、カフェで〝彼〟に言われたあの言葉。


 ――俺の目の届くところにいてくれ。


 そのとき、不穏さの中に、ほんの少しだけ、頼もしさを感じてしまった。

 だが、その保護の行き着く先は()()だ。


 彼の〈好感度〉と〈依存度〉を上げ続けたら、わたしは監禁される。


「……ふざけないで」


 わたしは汗ばんだシーツを強く握りしめた。

 どれだけ甘い言葉で飾っても、結局はわたしの人生の操縦桿(コントローラー)を他人に明け渡すという点で、敗北だ。


 誰が渡すものか。

 この世界がどんなに理不尽でも、バグだらけでも、わたしの選択権だけは絶対に死守する。




 月曜の朝。オフィスは、拍子抜けするほどいつも通りだった。


 エレベーターから出ると、ちょうどエレベーターを待っていた(さが)()主任と鉢合わせた。

 思わず心臓が跳ねる。彼はわたしを見て、いつも通り穏やかに挨拶をした。


「おはようございます、形桐(かたぎり)さん」


「……おはようございます!」


「昨日はありがとう」


 その表情はあまりにさっぱりとしていて、昨日の「目の届くところにいてくれ」と言った執着も、脂汗を滲ませていた苦悶も、影も形もない。


「いえ。けっこう強い薬なので心配だったんです。大丈夫でしたか?」


 彼は一瞬、不思議そうに瞬きをした。

 その()は、なに?


「薬? ああ……」


 言われて思い出したかのような反応だ。カフェで頭痛に苛まれたときの苦痛や、わたしの手に触れて驚いたことが、彼の脳内からすっかり消えてしまったかのようだった。


「うん。ありがとう。大丈夫です」


 文脈を読んで合わせるだけの肯定。(さが)()主任は細かい気配りができる人なのに。こんな雑な感謝をするのは、不自然だ。


「……お役に立てて、よかったです」


 脳内の相槌フォルダから反射的に言葉を引きずり出して、そのまま載せる。

 だが、頭では別のことを考えていた。


 ――彼は、薬をもらったことを覚えていないの?


(わたしの幻覚? わたしの頭がおかしいの?)


 わたしは逃げるように宣伝部のフロアへ足を踏み入れた。




 オフィスはすでに喧騒に包まれていた。パソコンを立ち上げていると、さっそく現原(ありはら)くんが泣きそうな顔でやってくる。


形桐(かたぎり)さん、すみません! 金曜日の集計ミスってたみたいで……どうしよう、助けてください!」


 彼はわたしのデスクに、赤字だらけの集計表を突き出してきた。全国のドラッグストアから届いた、新製品キャンペーン用の什器・サンプル配布希望数の集計表だ。


(あー。自分で修正しようとして余計にわけわかんなくなったのね……)


 子犬のように潤んだ瞳。本当に焦っているのはわかるが、先輩ならなんとかしてくれるという甘えもうっすら透けて見える。


 確かに、わたしが代われば五分で終わるかもしれない。教えるために三十分かけるよりも効率的だろう。特に、彼に任せたのは新製品のローンチに関わる重要な数字だ。月曜日の発送が遅れるリスクは取りたくない。


 わたしは苦笑しながら集計表を受け取ろうとして――


 ――『共犯者』エンド。

 現原(ありはら) (えい)()のやらかしをすべて尻拭いするうちに依存され、自堕落なヒモに堕としてしまう未来(エンド)


(わたしが手を出したら、共倒れだわ!)


 伸ばしかけた手を、さっと引いた。

 新人である彼に必要な助けは、わたしが代わりにやってあげることではない。自分の足で立ち上がるリカバリーの経験だ。こうやって誰かに責任を押し付けることに慣れてしまったら、彼は一生、誰かに寄生しなければまともに立てない人間になってしまう。


現原(ありはら)くん。まず深呼吸して」


「は、はい……」


 現原(ありはら)くんは、言われたとおり胸に手を当てて深呼吸をする。

 わたしは手を膝の上に置いた。現原(ありはら)くんが差し出した資料には触れない。心を鬼にして、端的に指示だけを出す。


「いいわ。修正箇所を特定するところから始めましょう」


「はい!」




 昼前。バタバタと資料を整理していると、頭上から影が落ちた。コト、と机に缶コーヒーが置かれる。見上げると、名嘉(なか)(じょう)くんがニヤニヤとこちらを見下ろしていた。


「おー、朝からカリカリしてんなー。ほら、これでも飲んで落ち着けよ。それとも、俺がちゃちゃっとやってやろうか?」


 彼はそう言って、わたしが広げていた資料の束に無造作に手を伸ばした。

 デリカシーのない、しかし頼りがいのある手つきをそのまま見送ろうとして――


 ――『トロフィーワイフ』。

 仕事を取り上げられ、名嘉(なか)(じょう) 恒一(こういち)の所有物として人形のように着飾らされて、アイデンティティを失う未来(エンド)


(わたしの生命線(キャリア)に手を出さないで!)


 わたしは反射的に、彼の手よりも早く資料を押さえ込んだ。もう片方の手で、コーヒー缶を持ち上げてみせる。


「コーヒーありがと! 大丈夫。自分で終わらせるわ」




 午後。空気が淀み始めた宣伝部のフロアに、午前中の会議を捌ききった(つな)()課長が現れた。周囲の空気がすっと引き締まる。彼はわたしのデスクの前で足を止めると、冷徹な視線を投げかけてきた。


形桐(かたぎり)。例の件、今日中にいけるか」


 例の件。秋の新色キャンペーンの雑誌広告だ。今日が最終入稿日である。わたしは「はい!」と返事をしかけて――


 ――『完璧な歯車』。

 心を殺され、(つな)() 敦久(あつひさ)の便利な道具として消費され尽くす未来(エンド)


(ただのイエスマンになったら、わたしは人間じゃなくなる!)


 わたしは課長から視線を逸らさず、まっすぐに言い返した。


「……十五時までに提出します。その代わり、ドラッグストア専用新ブランドの構成案、わたしの意見も入れてください」


 課長がわずかに眉を動かす。

 午前中の販路調整会議で、営業部や製造部の感情論を散々論破してきた彼にとって、わたしの率直な依頼は、むしろ清々しく響いたことだろう。


「意見は聞くが、確約はできない。物を見せろ」


「承知しました」


 三つの地雷を回避し終え、わたしは大きく息を吐いた。

 どっと疲れが押し寄せてくる。

 恋愛フラグをへし折る作業は、通常の業務の三倍は神経を使う。この世界は、隙あらばわたしを誰かの〈ヒロイン〉に仕立て上げようと包囲網を敷いてくるのだ。


 とりあえず休憩しよう、と逃げ込んだのは給湯室だ。ここなら少しは息が抜ける――そう思った瞬間だった。

 音もなく、入口に人影が立った。


「あ。お疲れさまです。形桐(かたぎり)さん」


 (さが)()主任だった。

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