22.悪い結末の走馬灯
静かな部屋に、櫛で髪を梳く音が響いている。
わたしは、部屋の中央にある上質なソファに座らされ、虚ろな瞳で微笑んでいた。
マンションの一室のようだが、昼か夜かもわからない。窓という窓はすべて黒いガムテープと段ボールで二重に目張りされ、その上から分厚い遮光カーテンが引かれていた。
部屋の隅には、不釣り合いなほど巨大な、大型犬でも楽々入れられそうな檻が鎮座している。
逃げることは、できそうになかった。
左手首には、肌を傷つけないよう革が巻かれた手錠が嵌められてる。そこから伸びた長い鎖は、ソファの脚に繋がれていた。もっとも、そんなものがなくても、今のわたしにここから逃げる気力など残ってはいなかった。
「髪、綺麗になったよ」
背後から、穏やかな声が降ってくる。
〈せんぱい〉は――相果 融は、わたしの髪を丁寧に梳かし終えると、愛おしそうに頬を撫でた。その指先は温かい。暴力など振るわれたことはない。食事も、睡眠も、排泄も、すべて彼が完璧に〈管理〉してくれる。
思考能力を奪われ、判断を奪われ、ただ彼に生かされるだけの〈所有物〉に成り下がった扇衣の末路。
「大丈夫。君はもう、何も選ばなくていいんだよ」
耳元で囁かれる声は蜂蜜のようだ。喉を焼くような、溺れるほど水を飲みたくなるような渇望を掻き立てる甘さ。
その甘やかな泥沼に、頭の先まで沈んでいくような錯覚に――
弾かれたように目を覚ました。
心臓が早鐘を打っている。全身が嫌な汗でじっとりと濡れていた。
カーテンの隙間から、容赦のない朝の陽射しが差し込んでいる。見慣れた自分の部屋だ。
夢の中の〝彼〟の甘い声が、耳にこびりついて離れない。
(最悪の夢だ……)
昨夜、カフェで〝彼〟に言われたあの言葉。
――俺の目の届くところにいてくれ。
そのとき、不穏さの中に、ほんの少しだけ、頼もしさを感じてしまった。
だが、その保護の行き着く先はこれだ。
彼の〈好感度〉と〈依存度〉を上げ続けたら、わたしは監禁される。
「……ふざけないで」
わたしは汗ばんだシーツを強く握りしめた。
どれだけ甘い言葉で飾っても、結局はわたしの人生の操縦桿を他人に明け渡すという点で、敗北だ。
誰が渡すものか。
この世界がどんなに理不尽でも、バグだらけでも、わたしの選択権だけは絶対に死守する。
月曜の朝。オフィスは、拍子抜けするほどいつも通りだった。
エレベーターから出ると、ちょうどエレベーターを待っていた相果主任と鉢合わせた。
思わず心臓が跳ねる。彼はわたしを見て、いつも通り穏やかに挨拶をした。
「おはようございます、形桐さん」
「……おはようございます!」
「昨日はありがとう」
その表情はあまりにさっぱりとしていて、昨日の「目の届くところにいてくれ」と言った執着も、脂汗を滲ませていた苦悶も、影も形もない。
「いえ。けっこう強い薬なので心配だったんです。大丈夫でしたか?」
彼は一瞬、不思議そうに瞬きをした。
その間は、なに?
「薬? ああ……」
言われて思い出したかのような反応だ。カフェで頭痛に苛まれたときの苦痛や、わたしの手に触れて驚いたことが、彼の脳内からすっかり消えてしまったかのようだった。
「うん。ありがとう。大丈夫です」
文脈を読んで合わせるだけの肯定。相果主任は細かい気配りができる人なのに。こんな雑な感謝をするのは、不自然だ。
「……お役に立てて、よかったです」
脳内の相槌フォルダから反射的に言葉を引きずり出して、そのまま載せる。
だが、頭では別のことを考えていた。
――彼は、薬をもらったことを覚えていないの?
(わたしの幻覚? わたしの頭がおかしいの?)
わたしは逃げるように宣伝部のフロアへ足を踏み入れた。
オフィスはすでに喧騒に包まれていた。パソコンを立ち上げていると、さっそく現原くんが泣きそうな顔でやってくる。
「形桐さん、すみません! 金曜日の集計ミスってたみたいで……どうしよう、助けてください!」
彼はわたしのデスクに、赤字だらけの集計表を突き出してきた。全国のドラッグストアから届いた、新製品キャンペーン用の什器・サンプル配布希望数の集計表だ。
(あー。自分で修正しようとして余計にわけわかんなくなったのね……)
子犬のように潤んだ瞳。本当に焦っているのはわかるが、先輩ならなんとかしてくれるという甘えもうっすら透けて見える。
確かに、わたしが代われば五分で終わるかもしれない。教えるために三十分かけるよりも効率的だろう。特に、彼に任せたのは新製品のローンチに関わる重要な数字だ。月曜日の発送が遅れるリスクは取りたくない。
わたしは苦笑しながら集計表を受け取ろうとして――
――『共犯者』エンド。
現原 詠斗のやらかしをすべて尻拭いするうちに依存され、自堕落なヒモに堕としてしまう未来。
(わたしが手を出したら、共倒れだわ!)
伸ばしかけた手を、さっと引いた。
新人である彼に必要な助けは、わたしが代わりにやってあげることではない。自分の足で立ち上がるリカバリーの経験だ。こうやって誰かに責任を押し付けることに慣れてしまったら、彼は一生、誰かに寄生しなければまともに立てない人間になってしまう。
「現原くん。まず深呼吸して」
「は、はい……」
現原くんは、言われたとおり胸に手を当てて深呼吸をする。
わたしは手を膝の上に置いた。現原くんが差し出した資料には触れない。心を鬼にして、端的に指示だけを出す。
「いいわ。修正箇所を特定するところから始めましょう」
「はい!」
昼前。バタバタと資料を整理していると、頭上から影が落ちた。コト、と机に缶コーヒーが置かれる。見上げると、名嘉城くんがニヤニヤとこちらを見下ろしていた。
「おー、朝からカリカリしてんなー。ほら、これでも飲んで落ち着けよ。それとも、俺がちゃちゃっとやってやろうか?」
彼はそう言って、わたしが広げていた資料の束に無造作に手を伸ばした。
デリカシーのない、しかし頼りがいのある手つきをそのまま見送ろうとして――
――『トロフィーワイフ』。
仕事を取り上げられ、名嘉城 恒一の所有物として人形のように着飾らされて、アイデンティティを失う未来。
(わたしの生命線に手を出さないで!)
わたしは反射的に、彼の手よりも早く資料を押さえ込んだ。もう片方の手で、コーヒー缶を持ち上げてみせる。
「コーヒーありがと! 大丈夫。自分で終わらせるわ」
午後。空気が淀み始めた宣伝部のフロアに、午前中の会議を捌ききった維木課長が現れた。周囲の空気がすっと引き締まる。彼はわたしのデスクの前で足を止めると、冷徹な視線を投げかけてきた。
「形桐。例の件、今日中にいけるか」
例の件。秋の新色キャンペーンの雑誌広告だ。今日が最終入稿日である。わたしは「はい!」と返事をしかけて――
――『完璧な歯車』。
心を殺され、維木 敦久の便利な道具として消費され尽くす未来。
(ただのイエスマンになったら、わたしは人間じゃなくなる!)
わたしは課長から視線を逸らさず、まっすぐに言い返した。
「……十五時までに提出します。その代わり、ドラッグストア専用新ブランドの構成案、わたしの意見も入れてください」
課長がわずかに眉を動かす。
午前中の販路調整会議で、営業部や製造部の感情論を散々論破してきた彼にとって、わたしの率直な依頼は、むしろ清々しく響いたことだろう。
「意見は聞くが、確約はできない。物を見せろ」
「承知しました」
三つの地雷を回避し終え、わたしは大きく息を吐いた。
どっと疲れが押し寄せてくる。
恋愛フラグをへし折る作業は、通常の業務の三倍は神経を使う。この世界は、隙あらばわたしを誰かの〈ヒロイン〉に仕立て上げようと包囲網を敷いてくるのだ。
とりあえず休憩しよう、と逃げ込んだのは給湯室だ。ここなら少しは息が抜ける――そう思った瞬間だった。
音もなく、入口に人影が立った。
「あ。お疲れさまです。形桐さん」
相果主任だった。




