豹と孔雀 ㊦
何が起こった? そんな疑問を浮かべたと同時に、俺は自分の異変に気付いた。
「かっ……はぁっ……」
全身から汗が吹き出してくる。
いくら息を吸っても空気が足りない。
脈がドクンドクンと激しく全身を打ち付け、凄まじい耳鳴りがする。
木の八龍刀を握る手は汗に混じって血が滲み、ふるふると震えて木刀を離そうにも俺の意思では手が開かなくなっていた。
崩れ落ちた俺に、涼しい顔をした唱鶏殿が言う。
「十分経った。終わりだ」
十分……あぁそうか。
そうだった。
俺は今、十分だけ唱鶏殿の気晴らしに付き合わされてたんだった。
噎せこまないよう肺を震わせながら呼吸を整えていると、唱鶏殿は用は終わりとばかりに、俺に背を向けさっさと去っていく。
……相変わらずだ。
人をここまでボロボロにしておいて何も言わない。
去っていく唱鶏殿の背に、俺は呆れ混じりに尋ねた。
「気晴らしになりましたか?」
「知らん」
唱鶏殿はそれだけ言うとまた檻の前の椅子に座り、木切れを小刀で削り始めた。……まぁ、こういう人なんだ。気にするな。
俺はもうそれ以上尋ねることはせず、震える指を一本ずつ木刀から剥がし取ると、纏めておいた荷物を持って震える足で訓練場を後にした。
……足が怠い。両手の平いっぱいにで出来た豆が潰れビリビリと痛む。服が汗で湿って気持ちが悪い……。
俺がそんなボヤキを頭の中でぐるぐる廻らせながら長屋の前までやってきた時、白藤宮に仕える女官の一人、宗麟殿と出くわした。
「まぁ豹牙殿。ぐっ、偶然ですねぇ、今お戻りですか?」
「ええ。宗麟殿も本日のお勤めを終えられたようで。……しかし本当によくお会いしますね?」
「そそ、そうですねっ。偶然にもっ!」
宗麟殿はどこか慌てた素振りで頷いた。……勝手に仕事終わりかと思ってしまったが、もしかしてまだだったのか?
しまったな……と思っていると、ふと宗麟殿はまた俺に視線を戻し、じっと顔を覗き込んできた。
そして弾む声で何故か嬉しそうに訊いてくる。
「もしやなにか良い事でもあったのですか?」
「いえ? 別になにも」
「そうですか? ではなぜ笑っておられるのです?」
「え……?」
俺は思わず口元に手をやった。
「わ、笑ってましたか?」
「はい。それにこちらに向かってこられていた際も、随分溌剌とした足取りで御座いましたよ」
「いえ。少し訓練に付き合ってきたので、自分では疲弊した重い足取りに感じていたのですが」
「まぁ、そうなのですか? ……成程。確かに汗はかかれているようです。では丁度湯屋の掃除を終えましたので先にお使い下さい。あがられた頃に、何かお腹に入れる物をお持ち致しますね」
「えっと……ど、どうも」
宗麟殿は世話焼きだ。
そこまでしなくともと常々思うのだが、その対応が実に気が利いていて、しかも真心が籠もっているので断りづらい。
俺は無意識に自分の耳を撫で付けながら、口籠るように頷いた。
だが俺のそんな無作法な態度に、宗麟殿は何故かまたクスクスと嬉しそうに笑う。
「よいと思います」
「何がよいのです?」
「あぁ、いえ。豹牙殿は器用ですから、大抵の事ができてしまうでしょう? ですから皆多くを期待し、任せてしまうのです」
「はぁ」
話の要領を得られず俺が首を傾げていると、宗麟殿は随分大人びた笑顔を浮かべながら俺に忠言をくれた。
「だからたまには気晴らしをして、時にはその様な“年相応の笑み”を浮かべられるのもよいと思うのです」
気晴らし……は、別にしてはいないんだがな。
そう思いつつ俺は苦笑を浮かべながら返した。
「はは……、そうもいきませんよ。白藤様の聖獣が“雛”と嗤われてしまいますから。私如きが白藤様の恥になる等あってはならない事……ですよね?」
真面目な宗麟殿なら、てっきり同意をくれる物だと思っていた。だが……
「それでも! 私は先程の笑顔はとても良かったと……好きですよ!」
人目がなかったせいか、宗麟殿は俺へのフォローを入れてくれた。
いい人だな。……だがここで甘えるわけにはいかない。
俺は人差し指を口にあて、小声で宗麟殿に口止めをした。
「それはどうも。ですがどうか、今見たものは宗麟殿の心の内だけに仕舞って置いていただけませんか?」
「―――そんなの……、……っ、っ勿論です!!」
宗麟殿は力強くそう頷いてくれると、余程忙しかったのかそのまま足早に去って行った。
そして俺もまた歩き出す。
足は怠くて震えてるし、破れた手の平の豆は空気に触れるだけでビリビリと痛む。汗で張り付く服だって気持ちが悪い。
だがふと気付いた。
宗麟殿に言われたように、何故か頬が緩んでいるのだ。引き締めようにも、どうしても口角が吊り上がってくる。
……満身創痍の筈なのに、気分だけはとても晴れやかだった。
俺は笑いを収めるのを諦め、鼻歌交じりに長屋の部屋を目指していると、ふと唱鶏殿が言っていた言葉が脳裏を過ぎった。
『別に。……気晴らしだ』
避け続けるだけで、一体何の気晴らしになるのかと不思議だった。
だから気晴らしになったのか、と尋ねてみたらこう言われた。
『知らん』
自分の事なのに“知らん”ってなんだよ。
自分で言い出しといて“知らん”って……適当にも程があるだろ。
だって“知らん”って……―――
……いや。まさかな。
自室の前に着いた俺は、あり得ない一つの可能性を振り払い扉を開けた。
部屋の壁際にはあいも変わらず、山と木簡が積み上げられている。
戻る度にウンザリしていたこの部屋だが、今日は何故か少し好ましく感じた。
だから何となく、……本当に何となく、俺を待つ木簡達に声を掛けた。
「さって! 汗流したら仕事すっか!」
たまには嫌な顔せず向き合ってみよう。
そんな気分だった。
おまけ。ー宗麟のご乱心ー
梅鈴「……あら、やっと来たようね」
花梨「あ、本当だ。ねぇ宗麟、豹牙が戻って来たわよ!」
宗麟「ちょ、ていうか花梨も梅鈴もそんなに毎日毎日知らせてくれなくていいってばっ」
花梨「えー、とか言いながら行くんでしょ?」
宗麟「……行く。行ってきます」
梅鈴・花梨「「いってらっしゃ~い♡」」
◇◇◇
〈宗麟の心の声〉
……っていうか何? 何なの? 今日は豹牙殿が物凄い“ご機嫌な猫ちゃん”状態になってるんだけど何があったというの!?
お尻尾がピーンしてらっしゃるわ。お耳もピーンして瞳孔がクリックリに拡いてらっしゃるわ。それに耳をすませば喉の奥の方からゴロゴロという音が聴こえて……―――くっ、尊!
え? 何? しかもこの状態無自覚? それって最早危険じゃない?
だってそんな無防備な少年の笑顔なんて……っ、ッつアー! 尊んっ!
……って、うそ……えぇ!!?
ちょあああぁぁぁあぁぁーっ、豹牙殿の“お耳くしくし”頂きましたァァァァ!! そっ、尊ンンンーっ!!!
―――ふぅ。まったく今日は、なんてけしからん日なのかしら……。




