豹と孔雀 ㊥
「あ、あの……何か?」
辛うじて声を絞り出してはみたものの、俺と唱鶏殿との間には、今しがた俺がばら撒いた筆や木簡が散乱していて物凄く気まずい。
だが唱鶏殿はそれらを綺麗に無視して、俺の無礼な失態に深く突っ込むことなく朴訥とした口調で言った。
「十分だけ打ち合いの相手をしろ。それを拾ったら得物を持ってかかってこい」
「……え」
耳を疑った。
俺が……唱鶏殿の相手? なんで? ってか無理だろ。
そうだ無理だ。俺にはこの後まとめておかなければいけない資料だってあるし……それに相手なら蒼狼が間もなく二人分の食事を持って戻ってくる筈だ。だからそれを俺に言う必要はないだろ……?
無意識の内に、俺の心がまた言い訳を探してこの場から逃げ出そうとする。
だが俺のひよった思考を遮るように唱鶏殿が言った。
「早くしろ。俺は打ち返さん」
「打たない……? 何故そんなことを?」
意味がわからない。
俺は首を傾げて尋ねたが、唱鶏殿は踵を返してさっさと自分の得物を選びに行ってしまった。
そして木で出来た短剣を選び取りながらポツリと呟く。
「別に。……ただの気晴らしだ」
「気晴らし、ですか」
「そうだ。何度言わせる? 早くしろ」
「は、はいっ」
よく分からなかったが他に道もなく、俺は言われた通り散らばった文具を拾うと急ぎ得物を選んだ。
俺が選んだのは木で出来た八龍刀。
それは以前、いつか武人として戦場に出たなら、必ず手にしようと思っていた、俺の気に入りの武器だった。
だが手にした八龍刀は俺の手に馴染まない。
かつては蒼狼を追い抜こうと豆が破れるまで棒を振った俺の手も、今では柔らかな手の平に筆ダコだけが大きく腫れ上がっているばかりだ。
そんな自分に何処か虚しさを感じながら、それでも俺は木刀を握り込み構えた。
「―――いきます」
そうは言ったが眼前に立つ唱鶏殿は構えすらしていない。
(構うものか……)
俺は小刀を手にしただけの、隙だらけにしか見えない唱鶏殿へ向かって踏み込んだ。
だが中心を捉えた筈の俺の剣戟は空を斬る。
飛んで避けられたわけではない。
唱鶏殿はその場を動くことなく、僅かな重心移動だけで俺の一撃を躱したのだった。
そして躱された俺は、無防備な状態で唱鶏殿の得物である小刀の射程圏に飛び込んでしまう。
(―――打たれるっ)
そう思い俺は一瞬身を強張らせたが、唱鶏殿はさっき言っていた通り打ち込んでくる事なく、ただ佇んでいた。
俺は再び距離を取り、困惑しながらも唱鶏殿に向かって当たらない打ち込みを繰り返した。
それから俺の5度目の打ち込みが躱された時、唱鶏殿がポツリと言った。
「動き以前の問題だな。視線で何をしたいのか全て分かる」
まるで独り言のようなその言葉に俺はハッとした。
そして次の打ち込みでは一点を見つめず、唱鶏殿の全体像を捉えながら打ち込んでみる。
―――直後、カッと乾いた音と共に、腕に痺れるような衝撃が走った。
俺の八龍刀が唱鶏殿の小刀に受け止められたのだ。
長刀が小刀に安々と受け止められるなど、自分の非力を見せつけられているようなもの。
だがそれでも、初めて俺の一撃が唱鶏殿に届いたのである。
俺はまた距離を取ったが、腕に残る痺れるような感覚が心地よく、胸が震えるほどに心臓が大きく脈打ち始めたのが分かった。
それから俺は視線を読ませないよう気を付けながら、唱鶏殿に打ち込みを続けた。
やはり隙だらけに見える唱鶏殿だが、どこに打ち込もうが打ち込む先には事前に準備されてたかのように、必ず小刀が置かれている。
俺の打ち込みが三度避けられ、八度小刀に受け止められた時、唱鶏殿がまた呟いた。
「誘った通りの所に違わず打ち込んでくるのだな」
誘った……?
俺は隙に打ち込んでいた。……いや、待て。そもそも唱鶏殿程の相手に隙きなどあるはずがない。
つまり俺が隙に見えている所こそが、唱鶏殿が俺に打ち込ませたい所……!
「くっ、おぉぉおっっ!」
俺は今まさに肩口を狙って突こうとしていた軌道を気合と共に変え、脛めがけて八龍刀を横に振り抜く。
しかし俺の剣先が届く前に唱鶏殿は床を蹴って宙へ跳び上がり、俺の一撃はまたもや躱されてしまった。
―――だがそれは、初めて唱鶏殿の両足を地面から離れさせた瞬間でもあったのだった。
それからも俺は打ち込み続けた。打ち込む点を目で追わず、あからさまな隙に打ち込みたい衝動を押さえ、相手の思考の裏を読む。
考えろ。怖がる必要はない。だから打て。止まるな……!
俺としては息をつく間もなく剣撃を繰り出しているつもりなのだが、唱鶏殿はそれをすべて避け、受け止める。
そして一度たりとも打ち返してくることはなかった。
俺は打ち続けながら、そんな唱鶏殿に見惚れていた。
届かない遥かな高みが目の前で舞っている。
小刀で受け止められた時は巨岩でも斬りつけた程に硬いのに、動きに轟々しさはなく、寧ろ水面に広がる波紋のように滑らかで優しい。
避ける動きにも無駄がなく、まるで風に守られているかのように俺の太刀は唱鶏殿を逸れていく。
一度剣先に跳び乗られた事もあったが、まるで羽が触れたかのように不思議と重さを感じる事はなく、音もなく地を蹴って宙を跳ぶ姿には、一種の神聖さすら感じた。
(……すげぇな。“天才”とか“戦神”とか、多分こういう人の事を言うんだろうなぁ)
俺が剣撃を繰り出しながらそんなことを思った時、突然唱鶏殿が大きく後ろに跳ねた。
そしてそのまま俺の剣戟の射程外に出てしまう。
「え……?」
まるで気に入りの玩具を奪われた時のような喪失感に、俺は思わず小さな声を上げた。
何故? と思った次の瞬間、突然俺の足が膝からカクンと崩れ落ちたのだった。




