豹と孔雀 ㊤ ◇豹牙視点◇
〈豹牙視点〉
―――突然だが俺には苦手な人がいる。
唱鶏殿だ。
唱鶏殿とは出会いからして最悪だった。
俺が白藤宮から逃げ出そうとしていたところに突如として現れ、気付いたときには捕まっていて、顔を潰されそうになったのだ。
その後色々あって、同じ主君に仕える上司のような存在になったものの、あの日のトラウマもあり、……まぁ一言でいえば苦手だった。
唱鶏殿と言えば化け物じみた強さを持っていて、主である白藤以外の話はまるで聞かない。
なぜこんな妙な性格なんだろうかと色々分析もしてみたが、多分他人や自分に無関心なだけなんだろう。
そんな唱鶏殿について、以前白藤と少し話をしたことがある。
そしてその時は、これからはなるべく逃げないように唱鶏殿の訓練を受けるようにしようとは思ったものの、やはり本人を目の前にすると逃げ腰になってしまう。最早条件反射だった。
それに初日の訓練で俺が気絶をし、弱音を吐いて以来、俺と同様唱鶏殿も敢えて俺に近付こうとはしてこない。
作法などの最低限のことは叩き込まれたが、それ以上の武術の訓練については、自主訓練という名の放置状態であった。
今更訓練を逃げずに受けようと思っても、既に俺と唱鶏殿との距離感は確立されてしまっていたのだった。
―――変われない。
自分から切り出せばとも思うのだが、蒼狼を相手取って行われる容赦のない立ち合いを見ていると、到底自分も立ち合いの相手をして欲しいとは言い出せないのであった。
もし受け身を取りそこね重症を負ったら? まだやりかけの仕事はどうする? それに白藤は毎日俺に山のような仕事を押し付けてくるんだ。一日寝込むなんて論外なんだ。
俺は肩を落とし、小さな溜息を吐く。
……はぁ、朱ノ三で思いっきり棒を振った時は、楽しかったなぁ。
だが俺はそんな考えをすぐに頭から振り払い、自分に言い聞かせた。
どうせこの仕事がある限り、俺が武人として戦場に立つことは先ずないだろう。
それぞれの役目、領分というものがあるんだ。今俺は俺にしか出来ないことをやっているし、俺には蒼狼程の武術の才能も、鍛え込む時間もない。
仕方ない。
そうは分かっていても鬱々とした気分は晴れず、俺は目の前で朗読をする黒虎の子供にゆっくりと目を向けた。
檻の中で黒虎の子供は、俺が渡した児童向けに記された文書を、一文字ずつ指で押さえながら真剣な表情で読み上げている。
この檻に閉じ込められた黒虎の子供に、俺が荒療治を施したのは一週間前の事だ。
黒虎の子供は痛み止めすらない俺の素人の施術にもよく耐え、初めの2日こそ熱に浮かされていたが、熱が下がってからはまるで憑き物が落ちたように回復していった。
唱鶏殿は今、俺と蒼狼の教育以外に、この黒虎の子供の面倒を見るようにも白藤から任されている。
以前は黒虎の子供がいくら吠えようが眉一つ動かさず無視していた唱鶏殿だが、ここ数日は手の使えない黒虎の子供に対し、匙で粥を口に運んでやるような行動を取ったりしていた。
……だけどあれは多分優しさや人情ではなく“白藤に任された件だから”と義務的にやってるだけなんだろうな。
そんな事をぼんやり考えながら、俺は日課となった黒虎の子供に言葉や読み書きを教えているのだった。
「“……こうして、劉備は母を残し故郷を後にしたのでありました。”」
よく通るハキハキとした声。……ここ数日の内に、この黒虎の子供は、驚く程発音が良くなった。
というのも、この黒虎の子供は先日から、唱鶏殿より徹底的に滑舌の矯正をされているのだ。
どこで使うのか宮廷作法も叩き込まれてるようで、未だ言葉数は少ないものの、見違えるほど綺麗で丁寧な言葉を使うようになっていた。
ふと黒虎の子供が俺を見上げてきた。
真っ直ぐで理性的な眼差し。……ここに来た当初見せていた獣のような狂気など欠片もない。
体は俺や蒼狼と対して変わらない大きさだが、曇りない瞳はまるで生まれ落ちたばかりの子供のように純粋な光を宿していた。―――しかしその光の奥底では、俺ですら想像もできない闇を目の当たりにしてきたのだという。
そんな壮絶な過去を持つ子供を俺がぼーっと見つめ返していると、黒虎の子供が丁寧な口調で俺に言ってきた。
「読み終えました。如何でしたでしょうか、豹牙殿」
「あ? あっ、あぁ。随分上達したな。今の文書で分からない言葉はなかったか?」
呆けていた事を隠すように俺が慌てて捲し立てると、黒虎の子供はコクリと頷き質問をしてきた。
「はい。では畏れながら“故郷”とは何でしょうか?」
「故郷とは、その者が生まれ落ちた安寧の土地を指す言葉だ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
理解したとばかりに頷く黒虎の子供。俺は思わず黒虎の子供の頭に手を起き言葉を付け加えた。
この子供には言っておかなければならないと思ったのだ。
「大抵の者は故郷を持つ。―――だがお前にまだ故郷はない。お前の育った場所は、決してお前の故郷じゃないんだ。いいか?」
「はい」
「お前の生まれ落ちた土地に安寧はなかった。だからお前はこれから好きな土地を故郷に選ぶといい。……そうだな。例えば“この地で死んでゆきたい”と思える土地を見つけられたら、そこをお前の故郷にするといい」
「はい。そういたします」
黒虎の子供の答えに俺は深く頷いた。
するとそんな俺を見て、黒虎の子供はまた口を開く。
「豹牙殿。もう一つよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「“母”とは一体なんですか?」
「あぁ……」
生まれてまず知るべきことを知らない子供。
―――もしこの子がちゃんと故郷と呼べる地に生まれ、母と呼べる者達に育てられていたなら、こうはならなかっただろうに……。
そう思えば哀れで仕方がなかった。
それから俺は黒虎の子供になるべく丁寧に母と、ついでに父についての説明を話して聞かせた。
「―――そうですか。よく分かりました。ありがとうございます」
「うん。じゃあ今日はここまでにする。明日は次の三列の文を朗読してもらう。最後に一度だけ俺が読むから繰り返すんだ」
「はい」
不思議な子供だった。
俺がこれまで見てきたどんなガキよりも無知で、なのに誰も知らない闇を知っていて、誰より真剣に何かを知ろうとする。
素直そうに見えてその裏には、何一つ聞き漏らすまいという執念のようなものを感じるのだ。
だから俺も間違ったことは言えない。
内容は未だ幼稚でも、俺は熟年の大人を相手にするような態度で、黒虎の子供に誤魔化すことなく教えるのだった。
それから間もなく、その日の黒虎の子供との短い授業は終わった。
俺が荷物を纏めて帰りの支度をしていると、ふと背後にいつの間にかぴたりと張り付くように唱鶏殿が立っている事に気付き、背筋が凍った。
「ぅ、うわっ……!?」
思わず小さな悲鳴を上げ、俺は荷物をばら撒きながら飛び退いて距離を取ってしまう。
そんな俺を唱鶏殿は微動だにせずじっと見据えていた。
一体何だ? ……こ、こえぇ。




