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ところが一週間後、俺はまた彼女、スズに連絡をしていた。木内鈴子、彼女の名だ。
出張先に持ってゆく土産を駅まで届けて欲しいという依頼だ。部類の酒好きの取引先社長のために俺が苦労して手に入れた銘酒をつい部屋に忘れた。もし自宅まで取りに帰っていれば俺は新幹線に乗り遅れることが必至だった。
スズは相変わらず笑顔で俺の自宅から酒を取り、原付に乗って品川の駅まで飛ばしてきてくれた。このケースは俺が新幹線を遅らせれば十分可能であったため、運賃に相当する金額を請求された。結果として幻の銘酒という賄賂が効いたのか、商談は成立し、年度末の俺の営業成績に華を添えた。
何度目かで気付いたのだが、スズの請求額の算出方法は意外にアバウトだ。それだけに交渉の余地もある。それに抜けている部分もあり、その都度俺が指摘して金額を加算することさえある。
もう何度となく俺はスズの世話になっている。契約更新もこれで三度目だ。そのため料金の請求と支払いは月末に一括で行われるようにしてもらった。
言うまでもないだろう。俺は彼女に対価を払って助力を得て、仕事は順風満帆だった。時間が有効に使えることで全てが上手くいっていた。なんと今年はゴールデンウィークに休みがとれたのだ。お礼の意味を込めて食事にも誘った。無論仕事は抜きで、と断ったうえで。
スズには俺のマンションの使っていない一室を彼女の事務所として使わせて、出入りも自由にできるよう鍵を渡していた。いつでも俺の秘書のように動いてくれるのだからその方が都合がいい。
スズは気が向いたときには、朝食や夜食を作ってくれることもあった。これは私が勝手にやることだから仕事ではありませんよ、と彼女はほほ笑む。
ただ晩飯を作るのは仕事としてカウントする。朝食や夜食と何が違うのかって思うだろうか? だが、納得せざるを得ない。彼女の作るディナーは、接待などで肥えきった俺の舌を十二分に唸らせるものばかりなのだ。
食材もそれなりに良いものを使うため、彼女に支払う対価を勘案すればホテルのディナーに匹敵する金額になるのだが、あえて俺はスズの手料理を選ぶ。
俺だけのために作られる料理。
俺だけのために居る彼女。
この数年、これほど穏やかな気持ちで時間をかけて食事をすることなどなかった。一口一口が味わい深い質のいい食材、料理に合わせたワインのチョイスも完璧だ。
俺は心からスズに感謝した。
そして彼女は女性として、俺の臥所の共もしてくれた。
さすがにそれは無理だろうと思ったのだが、部屋から風俗店までのタクシー代往復分と平均的なプレイ料金程度の金額提示だった。俺は迷わずスズを抱いた。
スズがいることで俺の生活は一変した。もう以前のように時間に追われることはなくなった。そして仕事に追われることもなくなった。充実している。俺は出来た余剰の時間を使って会社帰りにボルタリングジムに通い始めた。気がむいたらバスには乗らずにジョギングをして帰ったりもしている。なんとすがすがしい健康的な日々だろう。
何よりも家に帰れば彼女がいる。いつしか俺はそれが何より嬉しいと思いだしていた。
彼女のために俺は会社で仕事をして稼ぐ。そしてまた契約更新をして、稼いだ金で彼女に仕事をしてもらう。
スズと離れたくなかったからだ。ずっとここに居てほしいと思ったからだ。他の誰かに契約されたくなかった。俺だけの彼女、俺だけのスズで居てほしかった。
一年後、俺は十二度目の契約更新を申し出た。
「承知いたしました、では新しい契約書を用意してきますね」
スズが契約書を用意している間、俺は一枚の紙をテーブルの上に広げた。彼女が自室から戻って来ると同時に俺は彼女の瞳を見つめて言う。
「これで最後の契約更新にしたいと思うんだ」
おもむろに彼女に向けて“婚姻届”という契約書を差し出した。
スズはそれを見て言葉を失っていた。どうすればいいのかわからないといった風にも見えたが、潤んだような瞳は感動して言葉にならないと語っているようにも思えた。
やがて彼女は口を開く。
「こちらに署名をすればよろしいのでしょうか?」
「ええ、お願いします。俺はあなたと一生を共にしたい。結婚して欲しい」
暫し逡巡したかのように思えたが、スズはペンを取り言った「わかりました」と。
そんな訳で俺とスズは結婚して一年になる。俺が今どういう生活をしているかって聴きたいか?
毎月末にスズが管理する口座に俺の給料の全てが振り込まれ、俺の手元には彼女の請求額を差し引いた雀の涙ほどの現金が手渡される。彼女はこの方が合理的でしょうと言ってのけた。俺もそうだと思う。
以前と違い、健康的な朝食にボリュームのある昼の弁当、そしてシンプルでヘルシーな夕食とささやかな晩酌を用意してくれるのはいい、感謝している。だが以前のようにレストラン並のディナーを作ってくれと要求しても、収入に見合わないことを理由に拒絶される。
車はずいぶん前に売却した。彼女が居ることで急な動きをしなくても、事前に回避できる余裕ができたからだ。彼女への支払いが増えた、というのも理由の一つだが、結果としては満足している。彼女のおかげで出勤の車中で髭を剃ったり、コーヒーを飲んだりハンバーガーを貪ったりしなくても良くなった。
掃除も洗濯もつつがなくこなしてはくれるが、もう以前のように俺の仕事を手伝ってくれるようなことはない。これも彼女なりに算出をすると、月の利用料を大幅に超過するためだという。
スズの理屈では、彼女が俺の妻である限り継続的に利用料がかかっているのだから、以前ほどのサービスは受けられないのだという。
あまりにそれは理不尽だと、詐欺ではないかと一度激昂し契約解除を求めたのだが、逆に俺は一喝された。
「契約の中途解除には違約金が発生します。すなわち私が本契約中に受けた依頼途中の内容により私自身が被る不利益分を請求させていただきます。これは契約時の規約説明で毎度お伝えしていることですが、よろしければ解除請求書をお持ちします」
俺の依頼は「一生を添い遂げてくれ」だ。その対価は俺の生涯の年収と年金により支払われる計り知れない額だ。そして彼女が主張する“自身が被る不利益分”の算出方法が恐ろしくなって提示された解除請求書を退けた。
俺はスズから時間を買った。彼女の一生という時間を買った。
そして俺は、俺の一生という時間が俺一人のものではなくなったことを知る。
俺とスズは契約という書面で結ばれている。そして信用と信頼という揺るぎない絆が俺たちの間にはある。
普通に結婚した奴らはどうなんだろうな。もっと充実した人生を送れているのだろうか。今となってはそれを確かめる術もない。
「じゃあ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」
俺はスズから手渡された三万円を財布に補充し、会社へと向かう。
自転車をこぐ俺の肩に桜の花びらがふと舞い降りてきて、しばし佇んで俺を見つめていたが、やがて気づいたように春の風とともに飛んでいった。
いい天気だ。週末はスズを連れて近くの公園に花見にでも行こうか。