こだぬきと領主さまの物語
湖と豊かな緑に恵まれた国に、女神が住むと言われる古い森がありました。
深く、深く、広大な森です。
実り豊かなその森は、人々に多くの恩恵を与えてくれるものでした。
しかし、人々は森の浅い部分にしか入ることがありません。
何故ならば。
背の高い草々。
しっとりと苔生した大木の樹皮や地面。
枝や幹に絡みつき頭上に花を咲かせる蔦の先。
それらを木々の隙間から零れ落ちる陽光がきらきらと輝かせる様は大層神秘的だったからです。
畏敬の念すら感じさせるその美しさ。
そこに、人々は女神の存在を肌で感じて息を呑み、深く頭を垂れたのでした。
ですから、奥まで入ることはありません。
人にとって、古き森は禁忌の場。
そして、人々の踏み込まないその地は、動物たちにとって、とても居心地の良い住み処であり、避難所でした。
****
がさがさと音を立て、右へ左へ草木を揺らしながら何か走るものがあります。
はっ、はっ、はっと聞こえてくる荒い息遣いは獣のもの。
追走するものから逃げるのは小さな茶色い毛玉、狐に追われた子狸でした。
全力で追いかける狐との距離はどんどんと縮まるばかり。
止めとばかりに、懸命に逃げる狸の正面にはどっしりとした大木が立ちふさがります。
絶体絶命の危機に、子狸はとんでもない行動にでました。
なんとその木を避けずに、そのまま垂直に走って登っていったのです。まさに、火事場のなんとやら。
そして一番下の枝に乗ると、その枝にしがみつきました。一番下の枝といっても相当な高さがあり、容易には届きません。唖然として足を止めた狐は、暫くして我に返ると子狸を見上げて牙を剝きました。流石に同じように登るというわけにもいかず、落ちてくることを期待するように、うろうろと木の周りを廻ります。しかし、なかなか降りてこない獲物に、狐は業を煮やして、腹いせとばかりに前脚を振り上げて幹に爪痕を残すと、鼻を鳴らして帰っていきました。
高い位置からその行動の一部始終を固唾を呑んで見守っていた子狸は、狐の姿がなくなると安堵の息を吐きました。ほっとした途端、地面の遠さに気づいて愕然としました。無我夢中で上がったものだから、その高さに気が付いていなかったのです。
加えて、自分の乗った枝ぶりの心許なさと言ったら……言葉もありません。ひしっと小枝にしがみ付くと、その動きにかえって枝は大きく揺れ、子狸は毛を逆立てて固まりました。
もう、動けません。
がくがく、ぶるぶる。
子狸は二進も三進もいかなくなって震えるしかありませんでした。目を回しそうだけれど、落ちるのが怖くて、気も失うこともできません。
狸は臆病なのです。
どれほどの間、そうして震えていたでしょうか。
狸の下を馬に乗った一人の青年が通りかかりました。
立派な身形の人物で後ろには従者を連れています。しばらくして、彼が何やら指示すると従者は頷き、踵を返して離れていきました。
その場に残ったのは青年一人です。彼はくるりと周囲を見回していましたが、ふと落ちてきた葉擦れの音に顔を上げました。
浅葱色の瞳が鋭く光ります。
その瞳の色は王家に所以するもの、彼はこの土地の領主様でした。
王家の近縁にあたり貴族の中でもとても高貴な血を受け継ぐ家系ですが、彼の両親は子狸と同じようにすでになく、子供の頃からの魑魅魍魎のような親族から家を守らなければならなかった彼は、いつしかとても偏屈で人間不信になってしまいました。ですから今も、その顔はとても険しい仏頂面です。
救いと言えば、両親の良いところを取って生まれた様な整った顔貌がその棘を緩衝している事でしょうか。仏頂面であっても、女性には「クールで素敵」と大変人気があります。
警戒を滲ませた彼でしたが、音の原因を見つけると何とも呆れた顔をしました。
それもそのはず。
毛を逆立て、ぴるぴると震える子狸が間抜けにも枝にしがみ付いているのです。
その姿は憐れと言うよりは滑稽で、青年は何とも言えずに溜息を吐くと、手を伸ばしました。いくら高いといっても、馬上からであれば手に届く位置です。
片手で茶色い塊をむんずっと掴み強引に枝から引き剥がすと、馬から降りて地面に置いてやりました。とてもではありませんが丁寧とは言えない乱暴な扱いでしたが、それどころでなかった子狸は気付きません。地に足が付いた感覚に身体を丸めたまま、恐る恐る眼を開けました。
まず、地面が目に入りました。ぽてぽてとその場で足踏みをすると、正しく地面の感覚です。
地面です、地面。
堪能するかのように腹這いになります。
……なんという安心感なのでしょう。
じーんと感動する狸の頭の上の方から、はあ、と溜息が上聞こえてきました。
ゆっくりと顔を上げると靴先が見えました。
黒いブーツは匂いからして革でしょう。鼻を鳴らしながら、長い脚、背の方に流された外套の裾、高そうな上衣、そうして漸く顔が見えてきます。
「降りられないのであれば、上るな。……と、言ってわかるわけもないか」
狸に向かって真面目に説教をしかけた彼は、我に返るなり苦々しい顔をして首を振りました。人間には動物の言葉がわからないのです。ですから、彼は動物も同じようにわからないと思っていました。しかし、そんなことはありません。話すことは出来ませんが、何を言っているかくらいはわかるのです。
子狸はきゅうきゅうと一生懸命返事をしました。
あんなに怖い思いはもうたくさんです。二度と木登りなんてしないでしょう。……今回とて、登ろうとして登ったのではないことは、すっかりと忘れてしまっている子狸です。
怪我のないことを確認した青年は鐙に足を掛けると軽やかに馬上の人となり、あっという間に森から出て行ってしまいました。
お礼を言う余裕も、名残を惜しむ暇もありません。
「きゅう」
その背を見送りながら、子狸は心に決めました。
絶体絶命の危機を救ってくれた命の恩人です。
彼にお礼をしよう、と。
母狸が居なくなってから、子狸に触れてくれるものはいなくなりました。
だからでしょうか。大きな手がとても温かく感じたのです。
さてさて、かくして狸の恩返しの始まりです。
とはいえ、小さな子狸にできることといえば食べ物を見つけて運ぶことくらいです。
森の実りを携えて、狸は決死の覚悟で森を出ました。
馬では大した距離ではありませんが、森から出たことの無い小さな狸には大冒険です。
昼間では人に捕まって狸鍋にされてしまうかもしれません。
こっそりと夜のうちに狸は屋敷に向かいます。
道を避けて、草原を進んでゆきます。なだらかな丘を登り、遠目にもわかる大きな屋敷へと何とかたどり着きました。
森の中で摘んだ果実を、子狸はそっと入り口に置きます。
ちんまりと、一つ。
……なんとも、お礼には寂しい数です。
まんじりともせずに、それを眺めていた狸でしたが、きゅいと一鳴きすると、森へと取って返しました。もう一度森から果実を運ぶためです。
しかしこの狸、四足で掛けてくるため、1度に運ぶことが出来るのは口に咥えられる小さなものを1個か2個。
小さなその身体では2回も往復をすれば日は昇ってしまいました。
玄関ポーチに果実を並べ、へとへとになりながらも喜んでもらえるだろうかと、子狸は茂みに隠れて扉が開くのを待ちます。
……狸は気が付かなかったのです。人間の目線がとても高いのだと言うことを。
玄関の扉が開き、領主様が出てきました。
胸を躍らす狸ですが、領主様は小さな果実に気が付くことなく、玄関の外へと踏み出しました。
くちゃり。
何かを踏みつぶした嫌な感触に足を止め、領主様はゆっくりと視線を落とします。
暫くの沈黙。
踏みつけたものを見て、靴の汚れを見、……不快そうに眉を顰めて、彼は後ろに控えていた執事を振り返りました。
「……スチュワート、玄関を片付けろ」
失敗です。
子狸は学習しました。踏んでしまって潰れる物では食べてもらえないのだと。
問題はそこではないのだけれど、そこには気が付きません。
ならばと、今度は硬い殻のある木の実を持ってくることにしました。
踏んでしまっても、殻が割れ中身を簡単に食べることが出来るではありませんか。
一石二鳥です。
今度こそと、期待に胸を膨らませ様子を窺っていた狸が見たものは。
……木の実に足を滑らせて見事に転ぶ使用人の姿でした。
大・失・敗です。
何かよく似た状況を見たことがあると思い、狸は森に仕掛けられている罠を思い出しました。
子狸がしたかったのはお礼です。しかし、これではただの嫌がらせです。
子狸は消沈しました。
こうして食べ物を届ける以外、子狸に出来るお礼はありません。
耳を垂れ、尻尾を引き摺りながら、子狸はとぼとぼと帰路に就きました。森の入口、人の手が加えられた一画は日当たりがよく、色とりどりの花が咲いています。そのうちの一本を摘んで咥えると深い森の奥へと進んでいきます。
狸はあまり縄張り意識がなく、群れで行動することはありません。
ですから、母狸が亡くなってから、子狸はたったひとりで森の奥の湖の端でそっと過ごしていました。そこが母狸の眠る場所だからです。
子狸は摘んできた花を女神の住む湖に捧げると、いつものように定位置で丸くなりました。甘い匂いの花を付ける低い木の根元です。葉が多く、他の動物に見つかりにくい安全地帯なのです。
2日間、夜通し駆け回っていた子狸は、とってもくたくたでしたから、あっという間に眠りの中に引きこまれました。
目を覚ましたのは、もう夕暮れ時の事でした。
夢の中で母狸に毛づくろいをしてもらい、夢とは言え十分甘えることの出来た子狸は眠る前とは打って変わって、とても嬉しい気持ちで足取りも軽く湖に向かいます。
覗き込んだ湖の水面は鏡のように子狸の姿を映しました。丸い耳、灰褐色の毛並みにずんぐりとした体つき、そして愛嬌のある円らな目。目の周りや足は黒っぽくなっているけれど、肩から前足にかけて焦茶の毛がふわふわと覆っているのは保護色です。
湖面に顔を近づけると、鼻先を突っ込んで舐めるように水を飲みました。
咽の渇きが癒されると、今度はお腹が自己主張を始めます。そう言えばここ2日間何も食べていません。非常に単純な子狸は、お礼の事ばかりに一生懸命になって、自分が食べることはすっかり忘れていたのです。
どうりでお腹が空くはずです。
きゅるきゅると鳴き始めた空きっ腹に目をやり、今度は自分のために木の実を取りに歩き出しました。
さて、失敗のまま終了、と言う訳にはいきません。
置いていった果実は不審物扱いされてしまいました。
どうすればいいのでしょう?
狸は考えます。
うんうん唸って考えます。
地べたにべったり伸びたり、ごろごろと転がってみたりして(……これでも真面目に考えているのです)考え込んでいた狸は妙案を閃いて勢いよく起き上がりました。
置いておいたのがいけないのです。
ならば、直接持っていけばいいではないですか!
差し出した果実を領主様に受け取ってもらえることを想像をして、狸の気持ちは高揚しました。
そうと決まればさっそくおやすみなさいです。
明日は朝からこの森で一等おいしい果実を探して持っていきましょう!
****
翌朝。
意気揚々と領主の館に向かう狸が咥えているものは朝露に濡れた色鮮やかな瑞々しい果実です
実っている中でも最も色づいて、宝石のようにきらきらで、甘い甘い匂いを放っていたもの。
自信を持っておいしいとおすすめできる逸品です。
領主様の屋敷はとても大きなものです。人間であってもそう思うのですから、小さな狸にからすればさらにそう思えます。
屋敷に辿り着いた狸は、階段を上がりポーチの前で扉が開くのを座って待つことにしました。余りにも大きく立派な扉に怖気づいて、扉から離れた階段の縁に居ることはご愛嬌です。
じっと待つことどれくらい経ったでしょう。
扉が開くと、領主様が姿を現しました。その後ろには彼の従者が付き従います。
彼らは外へと出ようとして、足を止めました。
足元とは言え流石に果物程小さくはありませんから、狸は踏まれる前に無事気が付いてもらえたようでした。
きゅうきゅう鳴くと、狸は領主様を見上げます。
そして咥えてきた果物を下に置いて、どうぞと鼻で押しました。
「…………」
「くれるってことか?いや、下に置かれてもなぁ」
寡黙な領主様の代わりに従者が困惑したようにそう言います。
狸は首を傾げました。よくわかりません。けれど、人はそういうものなのかと素直に納得して、それから。
ぷるぷるしながら後ろ足で立つと、尻尾でバランスを取り、短い両手に果実を挟んで、領主様に差し出しました。
しかし。
「動物が持ってきたものをもらってもなぁ……捨てるしかないけど、もらっておきますか?」
主人に意向を確かめる従者の言葉に、円らな目を輝かせ果物を差し出していた狸は……ショックのあまり固まりました。
しおしおとしおれるように前脚を下ろすと、ころりと果実が床に転がります。
きらきらと輝く果実は一番おいしそうなものを採ってきたつもりです。
でも、受け取ってもらえませんでした。
狸ではだめなのです。
喜んでもらいたかったのに、逆に嫌がられてしまいました。
……涙が出そうです。
転がった果実は艶やかな光沢を放ち、とてもよい香りをしているのに。
狸は果実を咥えると、ぺこりと頭を下げてから、のろのろと踵を返しました。ふさふさの尻尾が箒のように引き摺られていきます。しょんぼりと頭を垂れて、その姿はあまりにも哀れでした。
「何だろう、この罪悪感。俺悪いことした感じ?」
領主様はそれに応えず、ただ去っていく狸の後ろ姿を見えなくなるまで見送っていました。
****
果実はとても美味しいものでした。
一つは自分で食べて、もう一つはいつも花を捧げる泉に捧げます。
誰かに「美味しい」と言ってほしかったのかもしれません。
「珍しいの、花以外が降ってきおった」
そんな声が聞こえて、狸は驚いて顔を上げました。
泉の上に浮かぶ白く美しい毛並みの獣の背に座る美しき女性。
青き髪に緑の美しい瞳。
この森の主、女神。
「きゅう」
狸が鳴くと、嫋やかな手がその頭を撫でました。いつの間にか狸は女神の膝の上へと移動していたようです。首をかしげるように女神を見上げると、艶やかな笑みがその美しい顔を飾りました。
「よく頑張ったの。いとし子よ、わらわがその願いを叶えようではないか」
女神さまは気まぐれのようにそう言うと、子狸を人間の娘にしてあげました。
来る日も来る日も欠かさず、泉に花を捧げていた狸を女神は気に入っていたのです。
あまりにも早く母を失い、孤独で寂しいのに、寂しさがわからない子狸を見守っていたのです。ですから、ここのところの奮闘もしっかりお見通しです。
さあ、行っておいでと、狸を送り出しました。
さてさて、慣れない二足歩行にふらふらと屋敷にたどり着いた子狸でしたが、ここから先どうしてよいかわかりません。
こういう時は、作戦会議です。
そして、狸の安全地帯といえば、垣根の下。
いつものように定位置に潜ろうと四つん這いになったその背中に、
「何をしている?」
とっても冷たい声がかかりました。
領主様でした。
狸……元い、娘の眼が輝きます。
きらきらした目を向けてくる娘に面識はありません。しかし、不審者にしては、なんとも無邪気な様子に領主様は戸惑いを覚えました。
「お前は誰だ。名は?」
「?」
「名前だ」
子狸は考えますが、そもそも名前などありません。
首を傾げて領主様を見ます。
「貴女を呼ぶ呼称の事だ。……本気で分からないのか?」
名前の意味を知らない人間がいるのか?
領主様は不審に思いましたが、しかし、目の前に居る真ん丸な目をした娘が人を騙そうとしているようには何故か思えません。
判断に困っていると、領主様を見つめていた娘が、へにゃっと幸せそうな笑みを見せました。
それは、美しく見せる表情ではありません。まるで年端もいかない子供が本当に嬉しいときに見せるような笑顔でした。
余りにも暢気なその笑みに毒気を抜かれ、くりくりとした大きな目に既視感を感じて。
「あの時の狸か?」
領主様は思わずそう聞いてしまいました。
お伽噺でもあるまいし狸が人に化けるなど、ありえない。そう思いながらも、もしかしてと思ってしまうのは、彼もこの国の人間だからです。
女神の住む国。
そう、この国には女神さまがいらっしゃるのです。
領主様は人間不信気味で、とてもぶっきらぼうな人ですが、性根は優しい人物です。そして、それなりに想像力のある人でしたから、ぶんぶんと首を縦に振る娘にあの短い両手で一生懸命木の実を差し出していた狸の姿を重ねることが出来てしまいました。
人の姿になっても、どうやら人の言葉は話せないようです。
「何故ここに?」
彼がそう言うと、狸娘はエプロンの前ポケットからごそごそ一枚の紙を取り出しました。
そこには非常に達筆な文字で簡潔に、
『狸が恩返ししたいそうだ。返品禁止。女神より』
と、書いてあります。
領主様は頭を抱えたくなりました。「もう少し説明を……」と、求めてしまった彼は決して悪くないでしょう。
返品禁止とはありますが、別に狸に恩返ししてもらう様なことはありません。
帰るよう促そうとして、またあのしょんぼりとした後姿を見ることを想像した彼は、思わず言葉を詰まらせました。
視線を彷徨わせ、迷うこと暫し。
「…………仕方ない。では、ここで働くか?」
狸はきらんきらんとした目で頷きました。
どうやら話せなくとも、人語は理解出来るようだと認識してもらえたようです。
狸は『ネリ』という名をもらい、屋敷で働くことになりました。
不器用な狸は一生懸命働きます。ですが、結果は失敗ばかり。
屋敷の至る所でせっせと失敗を重ねる狸でしたが、落ち込んでも諦めることはしませんでした。
そんな前向きさと領主様への献身を認めた使用人たちの涙ぐましい努力と忍耐の結果、たった一つですが、とても上手に出来るお仕事を見つけました。
それは、何を隠そう『洗濯』です。
重労働なはずですが、狸は初めて失敗せずに行える仕事に目を輝かせて、とても楽しそうに働きます。
「洗い物が得意なのってアライグマじゃなかったか……?」
そんな従者の問いかけは、皆さり気なく無視です。
良いのです。狸がしゅんと落ち込むことなく、あのへにゃっとした笑顔を見せてくれるのであれば。
汚れが落ちて真っ白になった領主様のシャツを嬉しそうに広げてみせるその姿に、屋敷の一同はほっこりと胸が温まるのですから。
そうして。
子狸は人となり、少しずつ時間を掛けて、色々なことを学んでいきます。
言葉や人間としての生活、習慣、マナーやルール。それから、人との関わり。
一人ではなくなった彼女の中で最も豊かに育まれ、花開いたものは感情でした。
喜怒哀楽という非常に単純なものから、信頼、友愛、安心、希望、罪悪感、孤独……。
母狸が居なくなってから、胸の奥に吹く冷たい風が、寂しさであり、孤独であると知った子狸は、流したことのなかった涙を零し、この温かさを知ってしまったことを少しだけ後悔しました。けれど、その反面、些細な行動に隠された相手の優しさに気が付けるようになったことに感謝もしました。
特に領主様の語られない優しさは、いつだって細やかな行動だったからです。
例えば、お日様の匂いがしそうな洗濯物を畳んで持っていくと、領主様は無言で受け取ってくれます。その語らない口からは何の言葉もありません。けれど、ほかの使用人が、
「洗濯物を直接受け取ることなんて、今までしたことなかったのよ?」
なんて、可笑しそうに教えてくれました。
もちろん、主人である彼に直接洗濯物を届けるような者がいなかったのも確かです。本来であれば直接クローゼットに仕舞うのが道理ですから。それを聞いて狸が皆と同じようにクローゼットに仕舞いに行こうとすれば、さりげなくその前に手を出してくれるのです。
雨の日で洗濯ができずに曇天の空を見上げていれば、すれ違いざまぽんと頭を撫でてくれます。浅葱色の瞳に見下ろされ、胸が温かくなったり、不規則に音を立てる心臓に狸は戸惑います。
そう、穏やかで優しい屋敷の中で、いつの間にか。
狸は、領主様が好きになってしまっていたのでした。
****
領主様は王家の血を汲む、高位の貴族です。
そして、女神の住む森を有する彼の領地は非常に豊かですから、見目麗しく、地位も名誉もある裕福な彼と縁を繋ぎたい人間はたくさんいました。
何しろ彼は独身です。どのような手段に出るかといえば単純なところで婚姻でしょう。
彼の仕事部屋には今日もたくさんの釣書が姿絵とともに届いています。それを見ることもなく、代筆者を立て断りの手紙を用意するよう託けていると、来客の報が届きました。
先触れもなく訪れるのは、親しい間柄の人間か、ただ失礼な人だけです。
今回は後者のようでした。しかも当の本人は前者であると勘違いしている相当面倒くさい人です。
同じく高位の貴族の女性なのですが、高慢で虚栄心に溢れた人物で、加虐的な性格であることは、趣味が狩猟であることでもわかります。別に狩猟が悪いと言っているのではありません。彼女のやり方が余りにも残虐で無慈悲なのです。生き物の命を奪うことを趣味としている、といったほうが実際のところ正確なのかもしれません。
ただ、中身はともかくとして彼女は非常に美しい女性でしたから、男性に迫られることはあれども、袖にされたことなどありませんでした。ですから、彼女の思うがままに従うのが男性だと勘違いしている節があり、彼からの断り状はいつだって彼女には届きません。
話の通じない人を相手にするのはとても労力がいります。という訳で、領主様ははっきり言って会いたくありませんでした。しかし、無視するわけにもいきません。
仕方なしに重い腰を上げた彼の耳に、前庭の方から犬の鳴き声が聞こえてきました。猟犬のものです。領主様はなんだか嫌な予感がして、先ほどまでの動きが嘘のような機敏さで玄関へと向かいました。
わんわんと吠え掛かる声。そこに交じり唸り声まで聞こえてきて、領主様はとうとう走り出しました。
嫌な予感は的中してしまいました。
前庭を通り、洗濯場へと向かっていたネリが捕まっていたのです。
人には人にしか見えませんが、犬には狸がわかります。吠え掛かる犬の向かう先にいる娘に対し、飼い主である女性は眉を寄せ扇で口元を隠すと辛辣な言葉を投げつけました。
「この子たちがこんな反応するなんて獣臭いのかしら?嫌ね。そんな使用人、この屋敷には不相応ですわ」
そんなのは自分を正当化する言い訳です。待たされたことが不満だったのでしょう。ただ、己の憂さを晴らすためだけに、彼女は連れてきた猟犬の手綱を離しました。
仮令人の姿をしていようとも、猟犬たちにとって相手は紛う事なき狸。躊躇うこともなく、標的である娘に飛び掛かります。
娘の方はと言えば、突然の出来事に頭が真っ白で悲鳴も出ません。
子狸は恐怖の余り、気を失ってしまいました。
狸が死んだふりをすると聞くことがありますが、振りなどではなく、驚くと失神してしまうと言うのが本当のところで、そのくらい臆病な動物なのです。
「ネリッ」
その場に飛び込んできた領主様は、膝から崩れ落ちた子狸を慌てて受け止めると、名を呼びます。
それを面白く思わなかったのは来客の女性でした。
「あらあら、ラーシュ様。私というものがありながら、そんなちんけな娘に興味を持つなんて悪趣味ですわね」
「クライエルハウゼン嬢。私は貴女と何の関係も結んではいない。私が誰を大切に思おうとも関係のないだろう」
「あらあら、私たちは遠くない未来夫婦に」
「ならない。断り状であれば何度もお送りしているはずだ。そろそろ諦めてくれないか」
領主様は聞くに堪えない彼女の言葉を途中で遮りました。人の話を遮ることが如何に失礼かわかっていてもです。
「何を言っていらっしゃるの?私たちの婚姻は義務ですわ」
「領地を継ぐための系譜として子をなすことは義務かもしれない。けれど、貴女を選ぶことは決して義務ではない。領地を守るこの地の主人として、女主人と認められないものをわが家に招き入れることはない」
きっぱりと言い切り彼女を拒否する領主様に、女性はルージュの似合うその口元を歪めました。
美しい容貌ゆえにその表情はあまりにも恐ろしいものです。
「私を選ばないとおっしゃるのは、きっと、その娘にたぶらかされたからですのね」
そう呟くと、彼女の口の端がゆっくりと吊り上がりました。それから両手を広げて歌うように言い放ちます。
「私の犬たちはとってもお利巧なのですのよ?その娘が人でないことを見抜いてくれましたもの。ほら、お行き。化け物をかみ殺してしまいなさい」
ぱんと両手を打つ音を合図に、猟犬たちは領主様の腕の中にいる子狸に襲い掛かりました。
片腕で支えながら、領主様は自分の持っていた杖で撥ね退けます。しかし、忠実な猟犬たちは、主人の命に従い、再び飛び掛かります。その攻防は、数的にも、片手の塞がっている領主様のほうが断然不利でした。
隙を見た一匹が彼女の足に噛み付くと、捌ききれなかったもう一匹がネリの細い首筋に噛み付きました。血走った眼で領主様が打ち据えると犬は痛々しい悲鳴を上げて離れましたが、しかし、噛み痕からは夥しい量の血が跳び散り流れだします。
「ネリ!」
あっという間に足元には血だまりが出来あがり、その生暖かい感触と濃厚な血液の匂いに、領主様は真っ青になりました。
「ネリ、ネリ!」
傷口を押さえながら、何度も何度も、領主様が付けた彼女の名前を懸命に呼びます。
すると、睫毛が震え、ネリが目を開きました。
ネリは領主様を見上げると、出会った時と同じ笑顔を浮かべました。
無邪気で無垢な、温かな笑顔。
その唇が言葉を紡ぎだそうと僅かに震え……けれど、結局は、何も伝える事ことなく。
瞼と共に閉じられてしまいました。
ゆっくりと鼓動が止まり、ネリは静かに息を引き取りました。
領主様の腕の中で、ネリの身体を温かな光が包み込み、娘は小さな子狸に戻ってゆきます。
それを見て女は喝采を叫びました。この惨状を目の当たりにしても嘲笑を浮かべていた彼女に罪悪感など欠片もありません。
「ほら、見てごらんなさいな!貴方は狸に化かされていたの!私が貴方を救って差し上げたのですよ」
そう言う己の顔がどれほどに醜悪であるのか、彼女はきっと気が付くことはないでしょう。
そして、領主様も。彼の頭の中からは女の存在など、すっかり抜け落ちていました。
今彼の心を占めるのは、子狸のことだけ。
「ただ、恩返しをしに来ただけだったのに……」
木の枝の上で震えていた、小さな子狸。
目についたから、下ろしてやっただけだ。
それなのに、たったそれだけのことで。
「すまない。ネリ。守ってやれずに、本当にすまない……っ」
騙されてなどいない。
この屋敷の誰もが、ネリの本性を知っていたのだから。
この狸は愚かな程一途に、ただ感謝を伝えに来ただけ。
動物だからこそ、単純に、誠実に。真摯に。
思惑なんてない純粋な感情は、とても温かく優しいものであったのに。
知らないうちに、自分の一部のようになっていた存在を失い、領主様は深い慟哭に打ちひしがれました。
そうなのです。
彼も知らないうちに、ネリを愛おしく思っていたのです。
彼女との頓珍漢なやり取りに悩まされ、呆れながらも。
彼女との日々をとても楽しく、温かく感じていたのです。
少しずつ失われていく体温が悲しくて、失いたくない思いに彼は涙を流し、その小さな身体をぎゅうと抱きしめました。
そんな彼らのもとに、一陣の風が吹きました。
子狸を優しく撫でる風に導かれるように、領主様は顔を上げます。
そこには、神々しいばかりに美しき女性が白い獣に乗って微笑んでいました。
湖のように蒼き髪、深き緑の瞳。
それは、多くの壁画や古文書に残されし姿、そのままでした。
「女神」
領主様は涙に汚れた顔もそのままに、両手に抱いた子狸を掲げるように女神に近づけました。
「女神よ。どうか、この子を助けてはくれないか。代わりに私の命を捧げてもいい。どうか……っ」
女神は満足そうに目を細めて口元の笑みを深めると、小さく首を振りました。
「人の子が狸を想うか。……お前が命を落としたら、そこの子狸は悲しく思うだろう。何も知らなかった頃であればともかく、な」
「だが…っ」
「安心せい。まだ死んではおらぬ。が、一つ聞く。お前は、その娘が子狸に戻ったとしても愛せるか?」
「狸だと知っていて魅かれたんだ。傍に居られるならば、どちらの姿でも構わない。今さら何を悩むことがある?」
小気味よいほど迷いのない返事に、女神は口元を袖口で隠し、ほほっと声を出して笑いました。
「思ったより剛毅な男だの。ならば、その子狸助けてやろう。だが、わらわは細かいことが苦手だからの。少々の手違いは許せよ」
「ネリが助かるのならば構わない」
その揺るぎない言葉に女神は鷹揚に頷くと、次いで、立ち竦む女へと視線を流しました。
「ひ……っ」
突き刺さるような冷たい双眸に、女は小さく悲鳴を上げて後ずさります。
「さて。今までようもわらわのいとし子達に好き勝手してくれたな。それに飽きたらず、今回の所業……さすがに我慢ならぬ」
弱肉強食、自然界にも食物連鎖と言うものがあります。ですから、食べるために必要な動物を狩って日々の糧にする、ということについて女神が咎めることはありません。女神の言う我慢のならない行為とは、猟と言う名の下行われていた殺戮ショーのことでした。
彼女は猟犬に獲物を追い掛けさせて殺していたのです。腹を満たされた犬達にとって、追い詰めた獲物は餌ではなく正に玩具です。……結果、多くの無残な死骸が残されることになりました。
「私は咎められることなど何もしていないわっ」
じりじりと後ずさりながらも、彼女は己の非を認めようとしません。
女神は失望の溜息を零しました。
「そうか、何も悪くないか。……ならば、追い立てられる側になってみるがいい」
冷たく言い放ち、女神は中空に指を滑らせました。
瞬く間に、女の姿が鹿へと変わり、彼女は狼狽えたようにその場でくるりと回りました。その様子は己の姿を自分で確認しているようでもあります。しかし、落ち着いて状況を理解させるような時間を女神は与えませんでした。 猟犬たちの視線は、新たに表れた標的に釘付けです。ぱんと手を打って、きっかけを与えれば猟犬たちは自分の主人であった鹿に向かって走り出し、身の危険を感じた彼女は庭を飛び出して逃げ出しました。
自らが獲物となっても、彼女は己が正しいと言い張れるでしょうか?
「せいぜい追いかけっこをするがいい」
せせら笑うと、女神は領主様に向き直りました。
それから輝かしい笑みを浮かべて、ただ一言。
「耐えろよ」
領主様が、その意味を知るのは、もう少しあとの事でした。
****
仮死状態と言う名の爆睡を経て、子狸が目覚めたのは3日後のことでした。
ぼんやりした頭で寝返りを打つと、領主様がベッドに頭をもたせ掛け寝ているではありませんか。
寝るときはベッドで寝なさいって言うくせに、自分だって眠っていないのだから。これは所謂、教育的指導というやつが必要な場合なのではないだろうか。
きらきらと目を輝かせた子狸はそう思い、さっそく領主様を起こそうと肩に手を掛けました。しかし、静かに寝ているのを起こすのは忍びなく思えて、良い案だと思うのに、なかなか行動に出られません。
「むー」
その小さな唸り声は本当に細やかなものでした。
けれど、そんな小さな声に反応して領主様はかっと目を見開くと、勢い良く顔を上げました。
「びっくり」
「開口一番それか……心配掛けやがって」
目を丸くして飛び出した言葉は何とも緊張感のない彼女らしいもので、領主様は脱力しながら狸の頭をぐしゃぐしゃと撫でました。
子狸は小さな違和感を覚えます。
領主さまが今までより大きく見えたのです。
「……?領主様が大きくなった」
「お前が縮んだんだよ。鏡を見てみろ。立派な子供だ」
そう言って用意された鏡の中をのぞいてみれば、そこには漸く馴染んできた自分の姿ではなく10歳くらいの子供がいます。
「誰でしょう?」
「お前だ、ネリ」
どうやら子狸の正確な年齢はそのくらいの様です。今までは子狸が領主様にお礼がしやすい様にと、女神が年齢を上方修正していたようでした。しかし、仮死状態となり、身体に負担を掛けずにまた人間にするには、そのままの年齢の方がよいと判断されたのでしょう。
少しばかり領主様の反応を楽しむためのような気もしますが、子狸が助かったのであれば領主様に文句などあるはずもありません。
仮令人でなくても、子供であっても。
領主様はネリを愛おしいと思うのですから。
子狸の頬を撫でながら、領主さまが柔らかく微笑みます。
余りにも優しい笑顔に釘付けになっていると、触れるだけの口づけを落とされました。
零れんばかりに目を真ん丸にして固まる子狸に、彼は苦笑しつつ言いました。
「あと5年くらい、待ってやる。だから、これくらいは大目に見ろ」
子狸には何が何だかわかりません。こんな風に領主様に触れられたことなんてなかったからです。ですが嫌な感じはなく、その手も唇も温かく、くすぐったくて。
むず痒いような感覚が、とても愛おしく感じました。
さて、子狸の恩返しはこれにておしまいです。
恩返しをしに行った子狸は、いつの間にか領主様のお嫁さんになることになりました。
領主様は着々と、用意周到に準備をすることでしょう。
どれほど、事前準備をしていても、それをひっくり返すびっくり箱のような狸を逃がさないために。
領主様のお屋敷では、時々庭で狸の親子が転がっているところを見ることが出来るそうです。
そんな噂が聞こえ始めるのは、それほど遠くない未来。
少しでもほっこりしてもらえればうれしいです。