第三話
授業のあとは、病室を訪ねる。いつものように病室にやってきたエマを出迎えたのは、もぬけの空になったベッドだった。
「ナイラは?」
「リハビリです。今日からはじまったんですよ」
忙しなく動いている医療班の生徒にリハビリ室の場所を聞いて、エマは医務室を出た。
夕刻の日差しが廊下に差し込む中、エマは早足でリハビリ室に向かう。
──やっと、やっとナイラがリハビリできるようになった!
エマの靴音が、自然と早くなっている。医務室から廊下を進んだ場所に、大きなガラス張りのリハビリ室があった。ナイラが手すりにつかまって歩いている様子が見える。力を入れすぎたのか、手すりを持つ手が震えている。まだ傷が痛むのだろう。ときどき表情を歪めながらゆっくりと歩いていくナイラを見つめて、エマは勢いよくリハビリ室の扉を開けた。
「ナイラ! リハビリがはじまったって聞いたから!」
喜びを隠さないエマに、ナイラがゆっくりと顔を上げる。褐色の肌に、玉のような汗が浮かんでいた。
「今日からね。でもまだ、本調子には程遠いみたい」
エマはナイラを支えて休憩用の長いソファに連れていく。ナイラはソファに座ると、額の汗を拭った。
「以前、イカロスの翼って言ったでしょう? ……私も、そうだったみたい。クイニーと同じ。飛びたくても、飛べないの」
窓の外をながめながら、ナイラが「こんな気持ちになるものなのね」と、小声で付け加えた。返答に窮したエマは、隣でナイラと同じように窓の外をながめる。夕焼け空を、鳥たちが羽ばたいて寝ぐらに帰っていく。
ナイラは自分のカバンに入れていたペットボトルのフタに指をかけてひねった。なかなかフタが開かない。リハビリで力を使い果たしてしまったのか、滑って力が入らないようだった。
「貸して?」
ペットボトルに伸ばしたエマの手を、ナイラが軽くはたく。エマは指先を丸めて、手をためらわせた。
──なんで?
エマが驚いていると、ナイラは一瞬目をはっと丸くして、視線を逸らした。
「……ダメ。自分でやらなきゃ、リハビリにならないから」
「そっか……そうだよね。じゃあ身体強化の魔法で……」
「それもダメ。リハビリの意味がない」
──本当に、それだけ?
うつむいて唇を引き結んでいるナイラを見て、エマは心に浮かんだ疑問を打ち消した。いつからこんなに意地悪なことを考えてしまうようになったのだろう。
ナイラの横顔にためらいがあるのを見てとって、エマは伸ばした手を膝の上に戻した。銀髪をまとめたナイラの首の後ろに、汗のにじんだ後れ毛が見える。
ナイラは何度めかの挑戦でようやくペットボトルのキャップを開けると、中に入っていた水を飲み干した。冷えたペットボトルについた結露が、つるりと滑り落ちていく。
窓の向こうから、鳥たちの鳴き声が聞こえる。羽ばたく音を拒むように、ナイラはそっと首を振った。
***
──どんな顔で話せばいいんだろう。
授業が終わったあと、病室に向かおうとしていたエマのつま先が珍しく戸惑った。医務室へと向かう階段を上がる。その足取りは、心なしか重い。ゆっくりと響く靴音を聞いているうち、今日はお見舞いなんてしなくていいんじゃないかという考えが、エマの頭をよぎった。
ナイラのリハビリの邪魔になるかもしれない。心の中で言い訳をして打ち消す。病室の扉を開けると、ナイラの姿はなかった。おそらくリハビリ室にいるのだろう。
心のどこかでほっとしている自分に気が付いて、エマは指先を握り込んだ。
消毒薬の匂いがする病室を出て、リハビリ室に向かう。廊下の向こうに大きな窓ガラスが見えたとき、大きな音が聞こえた。
あわてて駆け寄ったエマの目に、ナイラが倒れているのが見えた。ナイラの黒い瞳が、痛みに歪んでいる。乱れた長い銀髪が、汗ばんだ褐色の肌に張り付いている。
「なんで! 私はできなきゃいけないのに!」
いつも凛々しく立っていたナイラが、いらだったように床を叩く。医療班の生徒がナイラを助け起こした。
天才と言われていたナイラが、学年首席のナイラが、あんなふうにいらだつ様子を見たのは、初めてだった。
吸い寄せられたように動けないエマと、ようやく手すりにつかまったナイラの目が合う。ナイラの大きな黒目がちの瞳が険しく歪んだ。
エマは、見てはいけないものを見てしまったような気がして、あわてて踵を返した。傾きはじめた日の光が廊下の窓から差し込んでいる。走り出したエマのカバンの上で、ナイラがくれたおそろいのマスコット人形が小さく跳ねた。




