第六話
今日の授業が終わってエマが学生寮の自室に帰ると、すでにナイラが部屋に戻ってきていた。ナイラは部屋の片付けをしていたようだ。ナイラが相部屋に持ってきた私物も多いわけではないから、机の上もすっきりしている。
「ねぇ、エマ。ナッティーズバーガーって、美味しいの?」
ナイラが黒目がちの瞳でじっとエマを見ている。エマはクイニーとナッティーズバーガーに出かけたことを思い出して、タブレット端末の入っているカバンのベルトをそっとなでた。
「……それ、クイニーの記憶?」
「そう。私は食べたことがないから」
おそらくナイラは、ナッティーズバーガーに行ってみたいのだろう。けれどもエマにとっては、クイニーとの思い出にズカズカと踏み込まれているようで、あまりいい気はしない。
「……クイニーはよく行ってたみたい」
遠回しな言い方をしたエマに、ナイラは首をかしげた。ナイラの銀色の髪がさらりと頬にかかる。二人の間に、しばらく沈黙が流れた。エマの耳に、低くうなるような空調の音が聞こえてくる。
「あのね、私にとっては、ナイラはナイラだし、クイニーはクイニーだよ。ナイラが本当に食べてみたいなら付き合うけど、クイニーの真似をしてるなら、やめてほしい」
ナイラを傷つけるのは本意ではない。言葉を選びながら伝えたエマに、ナイラはさらに首をかしげた。
「……あなたたちだって、美味しいと聞いたら、行ってみたくなるでしょう? それと何が違うの?」
ナイラの質問は、決しておかしなものではない。けれどもエマの胸は、ざわざわとして落ち着かない。
──なんだか思い出を塗り替えようとされてるみたいで、嫌だな。
エマは自分にとって、クイニーが特別な友人であったことを理解した。そうして、本来無関係であるナイラがその思い出に踏み込んでくることに、引っかかりを覚えた。
「クイニーとナッティーズバーガーに行ったのは、私の中で、特別な思い出になってるみたい。……だから、ごめんね」
「じゃあ、エマはこれから先、ナッティーズバーガーには誰とも出かけないの?」
「そんなことはないだろうけど……」
エマは机の上にカバンを置いて、自分のベッドに腰掛けた。どう伝えればいいのか、しばらく思案する。ナイラは黙って、エマの言葉を待っていた。
「クイニーと私の思い出に無理やり入ってこられてるみたいで、抵抗があるのかも」
「……そう。思い出って、そういうものなのね」
エマがゆっくりと自分の言葉を反芻する中、ナイラはほんの少し残念そうに眉を下げた。ナイラが携帯型端末を操作して、おもむろに椅子から立ち上がるまで、エマは何度もこの言い方でよかったのだろうかと考えた。
「じゃあ、一人で行ってくる」
「うん……ごめん」
「いいの。……きっと私、自分の中に他人の記憶があることに、慣れてしまったんだわ」
遠くを見渡すような目をしたナイラが部屋から出かけるのを待って、エマは自分のベッドに飛び込んだ。今日の授業のおさらいをする気には、まだなれなかった。
エマの携帯型端末のランプが光っている。届いたメッセージには、クイニーが他の学校で楽しそうに過ごしている画像が添付されていた。
***
学生寮の食堂から戻ってきたとき、エマの机の上に小さなマスコット人形が置かれているのに気がついた。頭の上にゴムの輪っかがついている、手のひらサイズのぬいぐるみだ。エマは何の動物かよくわからないぬいぐるみを手に取って、じっとながめた。
きっとナイラが置いたのだろうけれど、本人はシャワーを浴びているのだろう。姿が見当たらない。
ほんの少し歪で、分厚いフェルトの手脚がついたぬいぐるみは、愛嬌のある顔をしている。どうしてこれをくれたんだろうと、エマはぬいぐるみの頭を指先でなでた。
キュッとシャワーの栓を閉める音がして、ナイラが髪の毛をタオルでぬぐいながら戻ってきた。
「それ、街で見つけたの。エマにあげる」
「……これ、ゲームセンターの? ナイラってゲームセンターとか行くんだ?」
「初めて行ったわ。知識としてはあったけど、あんなに活気があるのね」
ナイラは自分のポッド型ベッドに座ると、くすぐったそうに笑った。ナイラの褐色の肌を水滴が滑り落ちていく。エマは見てはいけないものを見てしまったような気がして、そっと目を逸らした。まだ夕食前に話したナッティーズバーガーのことが、頭に残っていた。
「意外と難しかったの。アームがブラブラとして、狙ったところに降りて行かなくて。……自分が経験してみないと、わからないこともあるものね」
エマが驚いて目を丸くするのをよそに、ナイラはごそごそと自分のカバンから色違いのぬいぐるみを取り出して、エマに見せた。もじゃもじゃとしたマスコットは、やはり愛嬌のある顔をしていた。
「おそろい。嫌じゃなかったら」
「……嫌じゃないよ。ありがとう」
エマの気持ちを、ナイラが理解してくれたかどうかはわからない。けれどもエマの考えに、ナイラが少し歩み寄ってくれたような気がする。
──たった数時間前のことなのに。
エマの胸の奥に、まだ残っていたわだかまりが少しずつ溶けていく。けれどもティーカップの底に残った砂糖のように、完全には溶けきらない。
「……エマが大切にしている思い出って、こうやってできていくのね、きっと」
ぽつりと言ったナイラに、エマは首を横に振った。
「それだけじゃないよ。予科でも本科でも、ナイラ、私にいろいろ教えてくれたでしょ? それも思い出だよ。ナイラと私の」
「そういうものなのね」
「クイニーとの思い出をなぞらなくてもいいんだよ。だってナイラはクイニーじゃないんだから」
キャミソールの上にパーカーを羽織ったナイラが、ドライヤーのスイッチを入れた。大きな音がして、これ以上話しかけてもナイラには聞こえなさそうだ。エマは自分のカバンにナイラからもらったマスコットをつけると、タブレット端末を開いた。




