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イカロスの翼では届かない  作者: 網笠せい
第二章 さよなら、クイニー
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第五話

 エマが声をかけようと立ち上がったとき、すでにクイニーは教室からいなくなっていた。教室、ベランダ、廊下、外廊下、階段、エントランス……エマはあちこち駆け回って探したが、クイニーの姿はまるで見つからない。


 エントランスを出て校舎を見上げたとき、屋上にクイニーがいるのを見つけた。エマの背中を、凍えるほど冷たい汗が滑り落ちていった。


 基礎体力訓練のときのように全力で階段を駆け上がる。群青色の淡い光が、窓から差し込んでいる。少しずつ夜が染み込んでくるかのようで、じわじわと不安をかきたてられた。


 階段の踊り場で柱をつかんで方向転換をし、また階段を上がる。ときに何段か飛ばして、エマは足を滑らせそうになった。


 エマは屋上に繋がる扉の開閉センサーを、走ってきた勢いのまま叩く。ピピッと音がして、扉が開いた。


「クイニー!」

「あ、エマじゃん。よくここにいるってわかったね?」


 のんきに手を振るクイニーの肩に手を置いて、エマは呼吸を整えた。息は切れ切れで、なかなか声が出てこない。


「は、早まらないで」


 クイニーはきょとんとして、次の瞬間、盛大に吹き出した。


「違うって。そんな物騒なもんじゃないよ。でも、心配してくれてありがと。……明日卒業だからさ、今のうちに学校、見ておこうかなって」


 屋上のフェンスの奥に、運動場が見える。自主練習なのか、走っている生徒がちらほらいる。


 その横には発進訓練用のカタパルトがそびえたっており、日の沈んだ今は、黒く大きな影に見えた。非常灯などの最低限の灯りがおぼろげについている。カタパルトのてっぺんの赤い誘導灯が、不安を煽るようにゆっくりと明滅していた。


「部外者になったら、入れないからさ」


 狙撃訓練や拠点作成訓練で使うフィールドから、鳥の鳴き声がした。クイニーはおどけるように額に手を当てて庇を作り、ぐるりと回ってみせた。エマはぎゅっと自分の手を握りしめる。


 クイニーは少し寂しげに笑うと、群青色の空の下に広がる光景に目を凝らしている。座学で使う教室棟や学生寮、エントランスが、エマにも見えた。


 クイニーが本科に進学できないことは、納得できないままだ。しかし教官からの卒業祝いで、理屈は理解できた。


「ねぇ。……エマは、才能って信じる?」

「才能? そんなの、私は……クイニーの足元にも及ばないよ」

「なーに言ってんの。エマにだって、できるに決まってんじゃん。あたしにだって、できたんだからさ」


「あたしにだって、できるもん!」というクイニーのいつもの口癖が、少し変わっていた。


「……大丈夫。エマにあげるよ」


 何を? とエマの動きが止まる。狙撃訓練用のフィールドから、鳥の羽ばたく音がした。階段を駆け上がったときとは別の、息が詰まるほどの胸騒ぎがする。


 戸惑うエマの肩を、クイニーがぽんと叩く。その目は意味ありげに伏せられている。クイニーはエマの反応を待たずに、軽やかな足取りで階段へと歩を進めた。


「……行こ。お腹すいちゃった」


***


 卒業式典の日、うららかな日差しが学生寮の窓から差し込んできて、エマは目覚めた。起床アラームが鳴る、少し前のことだ。クイニーとの相部屋には荷造りを終えたケースがいくつも積み上げてあって、以前よりも広く見えた。


 感傷を飲み込んで、エマはシャワーを浴びる。浴室には、昨夜クイニーが使ったシャンプーの残り香が漂っていた。エマは浴室にあった私物を回収すると、荷造りのために水滴をきれいに拭いた。


 髪を乾かしながらふと見た鏡に、エマの身体の傷跡が映っている。エマは自分の身体をまじまじと見下ろした。近接戦闘訓練で斜面を滑り降りたときにできた脚の傷、近接戦闘訓練でできたアザ、撃ったばかりの狙撃銃の銃身を触ってできた火傷……数えはじめると、きりがない。うっすらと白く残る傷跡もあれば、皮膚が引き攣れているものもある。


 化粧水と乳液を顔に塗ったついでに、エマは両頬をぺちりと叩く。考えないようにしていても、感傷はどんどん胸の奥に浸食してくる。ドライヤーとブラシを回収すると、エマはいつもの制服に袖を通した。


「おはよー」

「おはよう」


 あくびをしながら、クイニーが髪にブラシをかけている。寝癖の大半があれで直るなんてエマには信じられないけれど、クイニーの亜麻色の髪はどこまでも頑固かつ、まっすぐだった。


 エマとクイニーは並んで卒業式典の行われる会場に向かう。途中で学食の前を通ったとき、クイニーは掃除していたおばさんに「すごく美味しかった! ありがとうございました」と屈託なく笑いかけた。


 クイニーは食堂のおばさんと話している。エマの胸の奥で、こんなに慕われているクイニーが……というやりきれなさが、ふつふつとわきあがった。


 卒業式典の行われるホールは重力変化耐久訓練で使ったことがある。まるで宇宙にいるときのようにふわふわと宙に浮き、バランスが取れずに困ったことを、エマは懐かしんだ。


 エマの感傷をよそに、卒業式典は滞りなく進む。卒業証書の授与が行われ、式典は終わった。同級生たちは歓声と共に制帽を空に投げて、卒業の喜びを表している。胴上げされている教官もいた。


「エマー! ちょっとだけ、待ってて」

「わかった」


 教官に伴われて、クイニーがホール脇の建物に入っていく。彼女が階段を上る足音が、せまい階段に反響していた。


 空は晴れ渡り、心地いい風が吹いている。同級生たちと話しながら、エマはクイニーを待つ。そのうち、一人二人と同級生たちが帰っていく。皆、本科の学生寮に荷物を運び込むのだろう。


 さわやかな風が吹き渡るホール前で、エマはぽつんと一人、たたずんだ。狙撃訓練をしていたときのことを思い出した。


「エマ」


 亜麻色の髪をなびかせてやってきたクイニーが、エマの名前を呼ぶ。ホール前の階段に座っていたエマは立ち上がって、スカートをはたいた。

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