【悲劇と書いてひげきと読まない】
【悲劇と書いてひげきと読まない】
傷ついた犬。
血塗れの狼。
無表情な兎。
艶やかな猫。
何もない人。
飛べない梟。
怯えてる虎。
ピエロな猿。
汚れてる熊。
潰れてる鼠。
ワタシの部屋の押入れの下段にある十体のぬいぐるみ。
ワタシは迷うことなく犬のぬいぐるみを手に取って部屋を飛び出すように後にする。縫い目をわざと目立たせている、他のぬいぐるみよりもつぎはぎが目立つ犬のぬいぐるみ。
向かうのは、もちろん大家さんの部屋。
「大家さん、いる?」
大きな声で叫びながらインターホンを鳴らして、ノックもする。数秒まって反応がなかったからまた、大きな声で大家さんを呼んでインターホンを鳴らす。そうすれば今度は気付いてくれて、中からだあれ、と声が掛かってきた。
それを確認してワタシはドアを開ける。相変わらずさいはて荘はどこも鍵が掛かっていなくて不用心だ。けれど表ボスである元軍人がいる以上、泥棒とは無縁である。元軍人がさいはて荘を空ける時はみんなちゃんと鍵をかけていくし、元軍人への信頼が半端ない。
「大家さん」
「まじょちゃん。どうしたの? こんやのごはんはすぱげてぃのつもりだからとくにじゅんびすることはないよ」
「あのね、大家さんに聞きたいことがあって来たの」
そう言って犬のぬいぐるみをぎゅっと胸に抱く。ワタシの真面目な顔に気付いて大家さんはほんの少しだけ目を見開いたもののわかった、と頷いてくれた。
それから大家さんが用意してくれたアップルティーを片手に、机を挟んで向かい合う。ワタシは緊張した面持ちで、大家さんはいつもと変わりない笑顔で。
「──単刀直入に聞いていい? どうして元軍人をフったの?」
「──…………」
ワタシからそれを聞かれることは分かっていたのか、大家さんの顔に動揺はない。けれどほんの少しだけ哀しそうな色が瞳に浮かぶ。
「関係のない第三者で、しかも子どものワタシが聞いていいことじゃないのは知ってる。でも、大家さんは元軍人のことを好きだってことも知ってる」
「…………」
「大人には大人の事情があるんだろうし、ワタシの知らない色々があるのもわかってる。でも、それでも」
それでも──ワタシは納得いかないの。
大家さんと元軍人はあんなに想い合っていて、あんなにお互いのことを尊重し合っているのに──どうして大家さんは元軍人を受け入れないの?
それは、まるででもなくまるきり子どもの駄々だ。幼い子どもが大人の事情に首を突っ込んで我儘を垂れ流しているだけの情けない醜態だ。けれど、それでいい。
だって、ワタシは子どもだから。
子どもには子どもの、特権がある。
ワタシは──それを利用する。利用して、突っ込んで突っ込んで、駄々をこねて駄々をこねて、大家さんの本音をこじ開けたい。
「大家さんは、元軍人のことが本当は嫌いなの?」
「っ……そんなことはないっ。もとぐんじんさんは……とてもすてきなひとよ。とてもやさしくて、ときどきいじわるだけれどいつもわたしのことをささえてたすけてくれる……ほんとうにすてきなひと」
けれど、と大家さんはそこで言葉を切って目を伏せる。
「だからこそ……わたしがあのひとをしばっちゃだめなのよ」
みらいのないわたしがあのひとをしばっては、いけないの。
──そう言った大家さんにワタシは眉を顰める。未来が、ない。
「未来がないって……病気のこと?」
「……ええ。しゃちょうさんがしゅじゅつをうけさせてくれたからしぬことこそなくなったけれど……かんぜんになおったわけじゃないのよ。じわじわとね、すすんでいくの」
今でこそ視覚も聴覚も、身体もある程度は機能しているけれどこれから先どんどん衰えていくのだそうだ。完全に見えなくなったり聞こえなくなったりするかどうかは神のみぞ知るところらしいが、今よりも悪化する可能性は十二分にあるらしい。
「それって、元軍人のこと信じてないってこと?」
「え……」
大家さんには申し訳ないけれど、ワタシにカウンセリングなんかできないから大家さんの話を聞いてワタシの思ったことを率直に言わせてもらう。
「そういうことじゃないの? いずれ今よりもひどい体になったら元軍人が大家さんのことを鬱陶しく思うかもしれないとか、そういう葛藤があるってことなんじゃないの?」
「っ……」
進行する病気を持っているから元軍人をフった。
それは傍から見れば不健康な自分のために相手を不幸にしたくないという想いからの決断という、美しい話に見えるかもしれない。けれどワタシには、単に相手を信じられなくて将来捨てられると思ってしまうから逃げているだけにしか思えない。
ひねくれてる? それがワタシだばーか!
「……もとぐんじんさんはほんとうにやさしいひとだから、わたしがそばにいてっていえばずっとそばにいてくれるとおもう。けれど、わたしにそれをいうしかくはないの」
「ふぅん? なんで」
「わたしは、まちがえたそんざいだから」
間違えた存在。
──間違えた?
──何を?
「いろんなものをまちがえてきたの」
初めに間違えたのは生まれてくる場所。
政治家の父親の隠し子として生まれた。
それも金がかかる病気持ちの子として。
次に間違えたのは共にいる家族の選択。
愛人の子を連れ帰った父に家庭は崩れ。
病弱でろくに動けぬ子を家族は厭うた。
その後も間違いに間違いを重ね続けて。
間違いであると重ね重ね言われ続けて。
死ぬことこそが唯一の正しいことだと──教えられて。
十六の時に、家を追い出されたのだそうだ。
家族にもう迷惑をかけるなとお金を持たされて家を追い出された大家さんは死にかけの体を押し殺して死に場所を探して彷徨い──さいはて荘に辿り着いたらしい。
「ここはほんとうにすてきなばしょよ。すてきなひとしかいないし、だからこそ──」
もう、まちがえないようにしたいの。
そう言って優しい──本当に優しい、慈母のような微笑みを浮かべた大家さんにワタシは思わず乱暴に立ち上がる。
驚いて目を見開く大家さんに、ワタシは思いっきり叫んだ。
「ばっかじゃないの!?」
ばかでしょ! ばかすぎる!
間違えてる? ばかじゃないの!
大家さん、それがもしもワタシだったら大家さん──絶対“まじょちゃんはまちがったそんざいなんかじゃない”って言うでしょう!?
それを何で、自分に言わないの!?
ばっかじゃないの!!
「まじょちゃん……」
「ワタシがそうだったから分かる!! 大家さん──虐待されていたって認めたくないんでしょ!?」
「っ……」
「それが悲劇だって認めたくないだけでしょっ!!」
そうなのだ。
ワタシも、そうだったことがあるからよくわかる。
両親に虐待されているという事実を──認めたら、悲劇の主人公だって認めたら、自分が一気にかわいそうな存在になってしまう。両親に愛されなかった──哀れな存在に、なってしまう。悲劇のヒロイン気取りだと嘲笑われる対象に、なってしまう。
両親に虐待されていると思うよりも、自分が悪い子だから両親は怒っているだけなのだと思う方が──ずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっと──楽だったから。
ワタシが両親に虐待されていたと自分で認めたのは、あの日──大家さんに縋った時だったから。
それまでは事実に薄々──いや、はっきり気付いていても、見て見ぬふりをしていたから。両親に虐待されるようなかわいそうな子になりたくなんかなかったから。両親に愛されていないって認めたくなかったから。悲劇のヒロインになんかなりたくなかったから。
「認めなさいっ!! 悲劇のヒロイン気取りだっていいのよっ!! 受け入れなさいっ!!」
悲劇と書いてひげきと読まない。
そう自分に言い聞かせて、悲劇を悲劇として受け入れず──そのくせ、他人の悲劇は真摯に受け止めて抱擁する。
それがどうしようもなく、むかつく。
腹立つ。腹立たしい。
社長が──腹立つと言っていたのは、こういうことか。そりゃそうだ、腹立つ。他人を受け入れるくせに、なんで自分を受け入れないの?
「まじょちゃん、おちついて……ごめんなさい、きぶんのわるくなるようなはなしをして──」
「違うっ!!」
そう言ってほしいわけじゃない!!
なんで、わからないの? なんで──わかってくれないの?
ぼろりと、勝手に涙が零れ落ちるのが自分でも分かった。大家さんが焦るけれど無視してまた叫ぶ。
「気分悪い話だなんてワタシ言った!? ワタシは──嬉しいよ! 大家さんのことを知れて嬉しいよ!! ワタシは大家さんのことが大好きだもの、大家さんのこと色々知りたいものっ」
そこまで言ってワタシはきっと大家さんを睨み付ける。
涙は未だにぼろぼろと溢れ出てくるけれど、拭っている暇なんてない。そんなのはあとだ!
「いくら大家さんでも──ワタシの大好きな人を間違っているって言うのは、許さないっ!!」
ワタシは大家さんが大好きだ。
だから大家さんの悪口なんて聞きたくない。
それがいくら大家さん自身でも、聞きたくない。
大家さんは──間違ってなんか、いないっ!!
「悲劇を悲劇と認めないで受け入れるってんなら、幸せも同じように受け入れなさいよっ!!」
ああ、支離滅裂だ。
もう自分でも何を言っているのかよくわからない。
ただ、悔しかった。どうしようもなく腹立たしかった。
自分の悲劇を笑って受け入れるくせに自分の幸福を受け入れようとしない大家さんが──どうしようもなく、許せなかった。
「まじょ……ちゃん……」
「うぇ、っぐ……ひぃ、っぐ……」
ひくり、と喉が引き攣れて呼吸が苦しい。零れ落ちる涙と一緒に酸素が吐き出されているようで胸がどんどん詰まっていく。苦しくなっていく。
「──ごめんなさい」
ふと、温かな腕に抱き締められてお日様のような優しい香りが引き攣れていたワタシの喉をふっと和らげてくれる。
大家さん、と声に出すとワタシを抱き締めている大家さんからまたごめんなさいと言葉が投げかけられた。そしてぼたりとワタシの肩に温かい水が落ちたことに気付いてワタシは顔を上げる。
──大家さんも、泣いていた。
「ごめんなさい……」
「あやま、ってほしくなんか」
「ううん……まじょちゃんのだいすきなわたしをないがしろにして、ごめんなさい」
ありがとう。
ごめんなさい。
ありがとう──そう、何回も繰り返して大家さんは涙を流し続ける。それは大家さんの中で何かを整理しているようであり、何かに区切りをつけているようでもあった。
だからワタシはそれ以上何か言うのをやめて、大家さんの背中に腕を回して思いっきり抱き締める。
──ああ、お母さんの体温だ。
そう想えてなんだかひどく安心して、またもやぼろぼろと涙が溢れ出た。
◆◇◆
ふと気付けば、窓の外が茜色に染まろうとしていた。どれくらい泣いていたんだワタシたち。なんだか急に恥ずかしくなってきたぞ。
「ああ、もうこんなじかん……ああ、まじょちゃんおめめまっかっか」
「大家さんこそ」
泣きはらした目でワタシたちは顔を見合わせ、噴き出すように笑い合う。
「──もう、いいかね?」
「!」
「っ……あきひとさんっ」
いつの間にか──縁側で元軍人が夕陽を眺めながらこちらに背を向けて座っていた。ってか久々に聞いたぞ元軍人の名前。
「私はもう一度、チャンスを与えられるのかな?」
「ワタシが与えるわよ。大家さんが与えなくてもワタシが与える」
「えっ、ちょっ、まじょちゃっ」
「逃げないでよ大家さん。今度こそ、ちゃんと向き合って!」
そう言って大家さんのほっぺたをぺちぺちと叩いたワタシは立ち上がって縁側に向かう。同時に元軍人も立ち上がって──すれ違うように、元軍人とバトンタッチする。
「ありがとう、どれみ」
すれ違いざまに聞こえてきた元軍人のその一言に。
ワタシは、笑顔を返す。
【無抵抗】




