第9話 原作では、ここから透子が孤立し始める
白峰透子の孤立は、いじめみたいに分かりやすく始まるわけじゃない。
誰かが悪口を言うとか、物を隠すとか、露骨な線はもっと後だ。
最初はとにかく曖昧だった。
図書室の備品管理の食い違い。
返却の認識ズレ。
“誰かが勝手に置いたもの”が、なぜか透子の近くから見つかる。
小さなことが重なって、「あの子、ちょっと変じゃない?」という空気ができる。
その空気が、本当に厄介なのだ。
明確な加害者がいない。
だから誰も止めない。
止める理由が見つからないまま、本人だけが削られていく。
そして、原作でその流れが本格化する最初の分岐が、今週の金曜日の放課後だった。
鳳ヶ崎学園の図書室では、週末前に返却確認と棚整理を少し強めにやる。
そのタイミングで、ある本の貸出記録と実物の位置が噛み合わず、“最後に触った人”として透子の名前が浮上する。
もちろん透子に悪意はない。
でも、彼女はその場で強く否定しない。
自分の記憶違いかもしれない、と一瞬思ってしまうからだ。
そこから空気が変わる。
今日が、その金曜日だった。
朝からずっと、頭の片隅にそのことが貼りついて離れない。
授業を受けながらも、時間割の進みがやけに遅く感じた。
昼休み、相馬が購買パンを食べながら言う。
「お前今日、朝からさらに機嫌悪いな」
「いつも通りだ」
「今日はいつも以上だよ」
「そう見えるだけだ」
「その返し、最近お前流行ってんの?」
やめろ。本当にやめろ。
「白峰のこと?」
不意に、横から凛が小さく言った。
俺は思わずそちらを見る。
凛は前を向いたまま、昼食のサンドイッチの袋を閉じている。
「何でそうなる」
「あなたの顔です」
「便利だなお前の観察力」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知っています」
凛は小さくため息をついた。
「今日、図書室で何かあるんですか」
喉の奥が少しだけ詰まる。
言えるわけがない。
でも、何もないと誤魔化すのも違う気がした。
「……起きてほしくないことならある」
それだけ言うと、凛は数秒黙った。
「なら、今日は私も帰りに寄ります」
「やめろ」
「なぜですか」
「お前が行くと余計に堅くなる」
「白峰さんが?」
「俺が」
凛はそこでほんの少しだけ目を瞬かせ、それから納得したように視線を落とす。
「珍しく素直ですね」
「うるさい」
「分かりました。では私は行きません」
「助かる」
「その代わり」
「まだあるのか」
「何かあったら言ってください」
「言うわけないだろ」
「でしょうね」
最初から分かってるなら聞くな。
だが、そこまで言って引いてくれるだけまだありがたかった。
放課後までの時間が長い。
掃除の時間が長い。
教室が少しずつ空になっていくのが、今日は妙に遅く感じた。
ようやく図書室へ向かうと、入口の前で一度足を止める。
ガラス越しに中を見る。
透子はいる。
司書もいる。
図書委員らしい二人も棚整理をしている。
そして、カウンター脇のワゴンに、問題の本が置かれていた。
あれだ。
タイトルまではっきり覚えている。
原作で、貸出記録と実物が噛み合わずに揉める本。
俺は扉を開け、できるだけ自然な顔で入室した。
まずカウンターへ行き、返却棚を一瞥する。
ワゴンの本と、貸出記録の札の位置が微妙にずれている。
まだ誰も本格的に確認していない段階だ。
今なら、まだ間に合う。
司書が図書委員に「今日はこの棚からお願い」と指示を出している。
その隙に、俺はワゴンの本の背表紙を確認するふりをして、下に半分隠れていた貸出確認札を引き出した。
やはりだ。
本自体は返却済み処理待ち。
だが札の位置が悪く、別の未返却本の札と重なっている。
このまま整理が進めば、“記録上はまだ貸出中なのに本がある”状態ができる。
しかも最後の貸出者欄には透子の名前がある。
雑すぎる。
でも、こういう雑さで人は傷つく。
俺は無言で札を正しい本の間へ戻し、本を並び替える。
たったそれだけ。
誰が見ても、棚整理を手伝っただけに見える。
「御影先輩」
背後から透子の声がして、肩が少しだけ強張る。
「何」
「……その本、探していたんですか」
「違う」
「じゃあ」
「位置が悪かった」
短く答えると、透子はじっとこちらを見る。
その目は、もうかなりはっきり“見逃していない”目だった。
「またですか」
静かな声でそう言われ、俺は少しだけ眉を寄せる。
「またって何だよ」
「御影先輩、いつも“たまたま”にしては先に気づきすぎます」
「気のせいだ」
「もうその返し、信用していません」
とうとう言い切ったな。
俺は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく息を吐く。
「信用しなくていい」
「そういう意味じゃありません」
「じゃあ何だ」
透子は少しだけ迷ってから言う。
「……先に気づいてくれる人がいると、安心します」
その言葉に、胸の奥が痛いみたいにざわつく。
やめろ。
そういうことを、そんな顔で言うな。
透子は続ける。
「自分の勘違いじゃないかもしれないって、思えるので」
ああ、やっぱりもうそこまで来ている。
まだ始まっていない。
でも、始まりの手前には立っている。
俺は本をワゴンへ戻し、低い声で言った。
「勘違いじゃないこともある」
「……」
「全部、自分のせいにしなくていい」
透子は何も言わない。
ただ、その目が少しだけ揺れた。
その時、司書がワゴンの方を振り向いた。
「あら、整理してくれたの? 助かるわ」
「たまたま目についたので」
俺が答えると、透子が小さく、でもはっきり聞こえる声で言った。
「たまたま、じゃないです」
司書は首を傾げただけで意味を取らなかったようだが、俺には十分すぎるくらい刺さった。
「白峰」
「はい」
「お前、たまに容赦ないよな」
「御影先輩にだけかもしれません」
「嬉しくない」
「私も少し困っています」
困っている顔には見えなかった。
むしろ少しだけ、ほっとした顔に見えた。
問題の本は、そのまま何事もなく返却処理に回された。
貸出記録も噛み合った。
誰も透子の名前を口にしない。
誰も“あれ、白峰さんじゃなかったっけ”と言わない。
たったそれだけで、原作の最初の崩れは回避された。
図書室を出たあと、俺は廊下で一人深く息を吐く。
防げた。
少なくとも最初の一撃は。
だが、振り返ると透子が扉の向こうからこちらを見ていた。
その目は以前より少しだけ、俺をはっきり捉えている。
原作の崩れを防いだ代わりに、原作にはない関係がまた一つ生まれていた。




