第8話 凛が拾ったのは、噂ではなく矛盾だった
黒瀬凛は、人を嫌う時に感情だけで嫌わない。
そこが面倒で、そこが厄介で、たぶんそこが信用できる部分でもある。
普通なら「感じが悪い」「近寄りがたい」「何を考えているか分からない」で終わる評価を、あいつはそこで止めない。
そう思われているのは事実として受け取りながら、それとは別に、実際に何が起きているのかを見ようとする。
だからこそ、俺にとっては一番相手をしたくないタイプだ。
放課後の委員会が終わったあと、凛は一人で風紀委員室に残っていた。
――というのは、後から分かった話だ。
俺自身はその時間、図書室から戻ったあと、昇降口の掲示板と渡り廊下の連絡紙を軽く確認し、今日は大きなズレが増えていないことに少しだけ安堵していた。
だが、俺がそうしている間に、凛の方では別の“確認”が進んでいたらしい。
翌日の昼休み、俺が教室後方の窓際でぼんやり外を見ていると、凛がまっすぐこちらへ歩いてきた。
相変わらず無駄のない歩き方だ。遠慮も迷いもない。
「御影」
「何」
「少し聞きたいことがあります」
「その言い方だとろくでもない予感しかしない」
「予感で済めば楽なんですけどね」
「不穏な言い回しやめろ」
凛は俺の机の横で立ち止まり、抱えていたファイルを胸の前で持ち直した。
昼休みの教室は賑やかだ。相馬は購買へ出ていていない。日和は前の方で友人たちと話している。
完全に二人きりではないが、周囲はそこまでこちらに注意を向けていない。
「あなたのことです」
「嫌な始まりだな」
「感想は聞いていません」
「はいはい」
俺が適当に流すと、凛はわずかに眉を寄せた。
「……昨日、委員会の記録を整理していたんです」
「委員会の記録?」
「はい。落とし物、掲示物の張り替え、教室備品の一時紛失、そういった小さな報告です」
その瞬間、嫌な予感が現実に変わる音がした。
やっぱり、そこを見るのか。
凛は続ける。
「あなたに関する噂は多いです」
「知ってる」
「ですが、記録として残っている“問題”は、思ったより少ない」
「それも前に聞いた気がするな」
「ええ。ですが今回分かったのはそこだけではありません」
凛の目が少しだけ細くなる。
「問題になりかけたのに、問題にならずに終わっているものが妙に多いんです」
俺は何も言わない。
否定すれば嘘になる。
肯定すれば終わる。
だから黙るしかない。
「掲示物の位置。提出物の行き違い。貸出札。教室後方棚のファイル。そういう、小さすぎて普通は誰も気にしないこと」
凛は淡々と並べる。
「でも、その“終わり方”が不自然です」
「不自然?」
「はい。たまたま誰かが気づいた、では済まないくらい、タイミングがよすぎる」
「……」
「そして、その場にあなたがいることが多い」
面倒だ。
本当に面倒だ。
だが、ここで“それがどうした”と切り捨てるのも違う気がした。
凛はただ疑っているだけじゃない。実際に小さな不利益が起きかけて、それが潰れていることを見ている。
そしてそれが、誰に向かっていたかも薄々分かっている。
「黒瀬」
「何ですか」
「それで、お前は何が言いたいんだ」
凛は少しだけ間を置く。
「あなたが何をしているのか、まだ分かりません」
「だろうな」
「でも、噂ほど単純な人ではないとも思っています」
「……ありがたくない評価だな」
「褒めているわけではありません」
「知ってる」
「ただ」
凛の声が少しだけ低くなる。
「私は、人を間違って見るのが嫌なんです」
その言葉は前にも聞いた。
だが、今日は少し重さが違った。
「だから確認してるのか」
「ええ」
「疲れないか」
「疲れます」
「そこは即答なんだな」
「でも、放っておく方が気持ち悪いので」
らしい。
俺は椅子に深く座り直し、天井を仰ぐふりをしてから小さく息を吐いた。
「噂って便利だよな」
「急ですね」
「便利だって言ったんだ」
「どういう意味ですか」
「最初から“そういうやつ”だと思われてれば、誰もそれ以上考えなくて済む」
凛は黙る。
俺は続けた。
「感じ悪い。近寄りがたい。何考えてるか分からない。そこで止まるなら、それでいいんだよ」
「あなたは、それでいいんですか」
「よくはないけど楽だろ」
「私は嫌です」
「だろうな」
「そういうところです」
「何が」
「あなたは、自分がどう見られても構わないみたいに言う」
「構わなくはない」
「でも、訂正もしない」
「面倒だからな」
「それで誰かが困っても?」
その一言に、少しだけ胸の奥がざらつく。
困る。
その言葉は、俺の原作知識の中心に近い。
原作の御影悠真は、自分がどう見られるかをあまり気にしないまま、周囲の認識を都合よく使っていた。
結果として困るのはいつも他人だった。
「……誰が困るかによる」
俺が低く答えると、凛は目を逸らさなかった。
「白峰さんや朝比奈さんのことを言っています」
やっぱりそこまで見えている。
「お前は鋭すぎる」
「あなたが鈍すぎるんじゃなくて?」
「違うな。俺は面倒を避けたいだけだ」
「面倒を避けるなら、最初からああいう動きはしないでしょう」
「……」
「だから矛盾してるんです」
凛はきっぱり言い切る。
「あなたは、放っておけば自分が楽なことまで、わざわざ首を突っ込んでいる」
「大げさだな」
「事実です」
「それを記録から拾ったって?」
「はい」
凛はそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「噂より、そちらの方が信用できますから」
皮肉ではない。
本気だ。
そのことが、妙に重かった。
「……勝手にしろ」
結局、俺はそう返すしかない。
「ただし、変な期待はするな」
「前にも聞きました」
「なら覚えてろ」
「覚えています」
凛は小さく頷く。
「でも、覚えた上で見方が変わることもあります」
「面倒だな」
「ええ、私もそう思います」
そう言って凛は踵を返した。
数歩進んだところで、振り返らずに言う。
「御影」
「何」
「私はまだ、あなたを信用していません」
「知ってる」
「でも、少なくとも“嫌な人だから危ない”とは思っていません」
「……」
「危ないのは、別の意味かもしれないと考えています」
その言葉を残して、凛は自席へ戻っていった。
危ないのは、別の意味かもしれない。
やめてくれ。
そういう見方は、本当に厄介だ。
でも同時に、少しだけ救われてしまう自分がいるのも最悪だった。




