第7話 見ていただけの後輩は、見逃さない
白峰透子は、たぶん人をよく見ている。
それも、日和みたいに場の空気を広く読む見方でもなく、凛みたいに事実を積み上げて検証する見方でもない。もっと静かで、もっと個人的な見方だ。
何気ない仕草。言葉の間。目線の逸らし方。そういうものを、表に出さないまま覚えている。
そして、そういうタイプは厄介だ。
俺みたいに“先回りして余計なことをする人間”の不自然さを、きっちり拾うから。
放課後、教室の空気が帰宅と部活でばらけ始める頃、俺は今日も西棟へ向かっていた。
向かう先は図書室。
理由は昨日と同じで、白峰透子の周辺確認だ。
昨日の時点で、大きな何かが起きていたわけじゃない。
ただ、まだ始まっていない破滅の気配は確かにあった。机に混ざる委員会メモ。返却棚の札の位置。透子自身の“自分のせいかもしれない”という考え方。
ああいうものは、一つひとつが小さいくせに、あとでまとめて効いてくる。
だから、まだ小さいうちに潰す。
それが今の俺のやり方だ。
「おい御影」
教室を出る直前、相馬が声をかけてきた。
「何」
「最近ほんと西棟好きだな」
「別に好きじゃない」
「じゃあ何」
「静かだから」
「へえ」
相馬はにやっとする。
「図書室?」
「……まあ」
「朝比奈の次は読書少女ですか」
「お前ほんと一回黙れ」
「冗談だって」
冗談の顔だが、半分は観察している顔でもある。
こいつは本当に面倒なところがある。
「本返すだけだ」
「お、珍しくまともな言い訳」
「言い訳って言うな」
「本当なん?」
「半分くらい」
「半分は嘘かよ」
「お前に全部言う義理ないだろ」
「それはそう」
相馬はあっさり引いた。
こういう引き際の良さがあるから、完全に嫌いになれない。
教室を出て廊下を歩く。窓の外は薄曇りで、夕方の光は昨日ほど強くない。部活の掛け声も、今日は風に流されて少し遠く聞こえる。
西棟の階段を上がる途中で、黒瀬凛とすれ違った。
「またですか」
「何が」
「図書室」
「お前は俺の行動予定を全部把握してるのか」
「把握していません。ただ最近の傾向です」
「嫌な言い方だな」
「事実です」
凛は踊り場で立ち止まり、俺を見上げる。
「白峰さんのことですか」
思わず一拍遅れた。
「……何でそうなる」
「あなたが最近気にしている人を順番に挙げただけです」
「順番って何だ」
「朝比奈さん、白峰さん、あと場合によっては掲示板」
「最後おかしいだろ」
「否定できないのでは?」
否定しづらいのが腹立たしい。
凛は少しだけ真面目な顔になる。
「白峰さん、あまり人に頼らないので」
「……」
「見ているなら、変に刺激しないでください」
「俺が刺激してるみたいな言い方やめろ」
「違うんですか」
「違う」
俺は短く答える。
「ただ、見逃すとまずそうなだけだ」
言ってから、少し言いすぎたかと思った。
だが凛は意外にも、それ以上追及しなかった。
「そうですか」
「何だよ」
「いえ。あなたがそう言うなら」
「珍しく素直だな」
「白峰さんは、朝比奈さんとは別の方向で危ういので」
その一言だけ置いて、凛は下の階へ降りていく。
……見ている人間は、ちゃんと見ている。
それはありがたい反面、俺だけが知っているはずの“危うさ”が、別の角度からも観測されている証拠だった。
ただし、俺と凛とでは見えているものが違う。
凛は現実の積み重ねから危うさを見る。
俺は未来の破滅を知っているから危うさを見る。
似ているようで、全然違う。
◇
図書室に入ると、今日の利用者は少なかった。
窓際に一人、参考書棚の前に一人、そしてカウンターで貸出処理をしているのが一人。
静かすぎるくらい静かだ。
白峰透子は、昨日と同じ窓際の席にいた。
だが昨日と違う点が一つある。
今日は本を読んでいるふりではなく、明らかに何か書いていた。ノートを開き、細い字で何かをまとめている。
勉強か、読書メモか、それとも別の何かか。
俺は適当な本を一冊抜き取り、昨日と同じく少し離れた席へ座る。
まずは周囲を見る。
返却棚は問題なし。貸出札もきちんと見える位置。
カウンター周りも整っている。
透子の机の上は昨日より整理されていて、余計な物はない。ノート、ペン、本。必要なものだけ。
昨日言った「机の上、あんまり物置くな」が少しは効いたのかもしれない。
……いや、そんなふうに考えるのは自意識過剰か。
だが、昨日より机が整っているのは事実だった。
俺は本を開きながら、視界の端で透子を見る。
彼女は文字を書いては止まり、少し考えてはまた書く。
その横顔は静かだが、集中しきれている顔ではない。頭の中で別のことも動いている時の顔だ。
何を書いているんだ。
気になる。
気になるが、そこへ踏み込む理由はない。
数分後、参考書棚の前にいた女子生徒がカウンターへ向かう途中、透子の机に近づきすぎて椅子の脚を軽くぶつけた。
小さな音。透子のペンが机の端から転がる。
本人が手を伸ばすより先に、俺は席を立っていた。
床に転がったペンを拾い上げる。
「あ」
透子が小さく声を漏らす。
「ほら」
無愛想に差し出すと、透子は少しだけ目を瞬かせてから受け取った。
「……ありがとうございます」
「別に」
反射でいつもの返しをしてから、内心で舌打ちしたくなる。
またそれか。
この“別に”は便利だが、便利すぎてそろそろ雑になっている気もする。
透子はペンを受け取りながら、ほんの少しだけ視線を落とした。
「御影先輩って」
「何」
「いつも、先に動きますよね」
心臓が嫌な跳ね方をした。
だが、顔には出さない。
「そう見えるだけだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
「……」
透子はそこで黙る。
けれど、その黙り方が“納得した沈黙”ではないのは分かった。
見ている。
やはり、見ているのだ。
俺は席へ戻ろうとして、ふと透子のノートに目がいった。
開かれたページの端に、昨日の本のタイトルらしき文字が見える。読書メモか。だが、その下には別の欄があった。
図書室利用記録。
返却日。
棚番号。
書名。
……なるほど。
透子は自分で記録しているのか。
それは悪いことではない。むしろ几帳面な性格なら自然だ。
ただ、そこに“自分の認識が間違っていないか確認するため”の色が混じり始めたら危ない。
「それ」
思わず口に出していた。
透子が顔を上げる。
「はい?」
「何で書いてる」
「……読んだ本のことです」
「それだけか?」
透子は一瞬だけ言葉に詰まった。
その間で、ほぼ答えは分かる。
「忘れたくないので」
「本の内容を?」
「それもあります」
「それも?」
透子はペン先をノートの上に置いたまま、小さく息を吐く。
「たまに、自分がどこまで読んだか分からなくなることがあるので」
その言い方は平坦だった。
だが、その平坦さがかえって引っかかる。
「分からなくなる?」
「……いえ」
透子はすぐに首を振った。
「そんなに大げさなことじゃないです。ただ、覚えているつもりでも曖昧なことがあるので」
曖昧。
その言葉が嫌だった。
原作で透子が追い詰められていく時、鍵になっていたのはまさにそこだ。
人に何かされた、と断言できない。
自分の認識が曖昧なだけかもしれない。
だから言えない。確認もできない。
そうして少しずつ、自分の感覚を信用できなくなる。
まだ、そこまでじゃない。
だが、その芽はある。
俺は机のそばに立ったまま、少しだけ低い声で言った。
「覚えてないんじゃなくて、周りが雑なだけかもしれないだろ」
透子は目を見開いた。
「え」
「本の位置とか、札の置き方とか、メモの場所とか」
昨日のことを思い出しながら続ける。
「分かりにくい時は分かりにくい」
「……」
「全部お前のせいにするな」
言ってから、自分でも少し驚いた。
踏み込みすぎたかもしれない。
だが透子は不快そうにはしなかった。
むしろ、その逆だった。
少しだけ困ったような、でもどこか安堵したような顔で、小さく頷く。
「そういうふうに言われたの、初めてです」
「普通は言わないだろ」
「そうですね」
「……」
「でも」
透子はノートを閉じる。
「少しだけ、安心しました」
その言葉が重い。
たった一言で、そんな顔をするな。
俺は視線を逸らした。
「安心するほどのこと言ってない」
「私には、そうでした」
静かな声だった。
それ以上返す言葉が思いつかず、俺は椅子に座り直す。
読書のふりをするが、文字は頭に入ってこない。
見ていただけの後輩は、見逃さない。
それだけじゃない。
たった一つの言葉の意味まで、ちゃんと拾ってしまう。
面倒だ。
でも、悪くないとも思ってしまった。
◇
それからしばらく、図書室には落ち着いた時間が流れた。
透子はまたノートを開いたが、さっきまでとは少し書く手の動きが違う。迷いが減っている。
記録を書いているのか、読書メモを書いているのかまでは分からない。
だが少なくとも、さっきまでより肩の力が抜けているのは見て取れた。
その時、カウンターの方で司書が小さく困った声を上げた。
「あら、貸出カードが一枚足りないわね……」
またかよ、と思う。
図書室という場所は、どうしてこう細かいズレが起きやすいのか。
司書は慌てるほどではないものの、カードケースを一枚ずつ確認している。
利用者たちも少しだけ顔を上げる。
透子の肩が、ほんのわずかに強張ったのが見えた。
分かりやすい反応じゃない。
でも俺には分かる。
“自分の近くで何かが起きた時、とりあえず自分を疑う癖”が反応している。
やめろ。
今回はお前じゃない。
俺は席を立つと、カウンターへ向かった。
「何かなくしたんですか」
司書は少し驚いたようにこちらを見る。
「ああ、貸出カードが一枚。さっきまであったと思うんだけど」
「床見ました?」
「まだそこまでは」
俺はカウンターの横へ回り込み、足元を確認する。
案の定、カードはカウンター脇の本立ての影に滑り込んでいた。
紙一枚のことだ。気づかなければ気づかない。
「これ」
「あら、本当だわ」
司書がほっと息をつく。
「ありがとう、御影くん」
「別に」
もう条件反射だった。
背後で、誰かが小さく笑う気配がした。
振り向くと透子だった。
声を立てて笑ったわけじゃない。
ただ、ほんの少しだけ口元が柔らかくなっていた。
何だそれ。
俺は眉をひそめる。
「何」
「いえ」
「いや何かあるだろ」
「“別に”って、本当に便利なんだなと思って」
……日和と同じことを言うな。
「流行ってんのかそれ」
「何がですか」
「その感想」
透子は首を傾げた。
「たまたまです」
「本当か?」
「本当です」
嘘ではなさそうだった。
司書がカードを元の場所へ戻しながら、「助かったわ」ともう一度言う。
俺は軽く頭を下げて自席へ戻る。
その途中、透子がぽつりと零した。
「やっぱり」
「何が」
「御影先輩、先に気づきますね」
「気のせいだ」
「もうその返しでは誤魔化せてない気がします」
前より言うようになったな、こいつ。
俺は思わず小さく息を吐いた。
「お前、意外と面倒な性格してるよな」
「よく言われません」
「そりゃ言うやつ少ないだろ」
「じゃあ御影先輩が一人目です」
「嬉しくない」
「私もです」
返しが速い。
そして静かな顔のくせに、こういう時だけ妙に手加減がない。
……なるほど。
こうして少し会話してみると、透子は単に大人しいだけじゃない。
見ているし、覚えているし、たまにちゃんと刺してくる。
原作ではそこまで表に出なかった部分だ。
それとも、原作でもあったのに、俺が知らなかっただけか。
◇
図書室を出る頃には、外はもうかなり薄暗くなっていた。
扉の前で靴音を整え、ふと振り返る。
透子はまた本を開いていた。
けれど今度は、最初に見た時より少しだけ集中しているように見える。
俺の勝手な解釈かもしれない。
それでも、さっきよりは“考えごとに引っぱられている顔”じゃなかった。
廊下へ出て数歩歩いたところで、後ろから小さな足音がした。
「御影先輩」
振り返ると、図書室から出てきた透子が数歩分の距離を空けて立っていた。
鞄を抱え、少しだけ迷ったような顔をしている。
「何」
「これ」
差し出されたのは、一冊の文庫本だった。
昨日、俺が適当に取って「たぶん面白い」と言った本だ。
「まだ途中だろ」
「はい。でも、読み終わったら」
「……」
「貸します」
予想外すぎて、一瞬本気で言葉が出なかった。
「何で」
ようやくそれだけ聞くと、透子は少しだけ首を傾げる。
「嫌ですか」
「嫌とかじゃなくて、何で俺に」
「昨日も今日も、その本のこと少しだけ気にしていたので」
「そんな顔してたか?」
「していました」
断言するな。
透子は続ける。
「それに、読む時によって違って見える話だと言ったら、御影先輩、少しだけ真面目な顔をしたので」
やめろ。
そういうのまで覚えるな。
「……気のせいだ」
「またですか」
「まただ」
俺がそう言うと、透子はほんの少しだけ笑った。
さっき図書室の中で見たのと同じ、小さな笑み。
けれど今度は、もう少し分かりやすい。
「じゃあ、読み終わったら持ってきます」
「いや、別にそんな」
「嫌なら断ってください」
「それは」
断る理由は、ある。
あるが、言える理由じゃない。
距離が近づくのは困る。
認識が変わるのはもっと困る。
けれど、今ここで文庫本の貸し借りすら拒絶するのは、不自然すぎる。
数秒悩んでから、結局こう答えるしかなかった。
「……好きにしろ」
「はい」
透子は満足したようでもなく、当然のことみたいに頷いた。
それがまた面倒だった。
透子は軽く会釈して、先に階段を下りていく。
俺はその背中を見送りながら、心の中で頭を抱える。
何でそうなる。
図書室の小さなズレを潰しに来ただけだぞ、俺は。
なのに気づけば、本を貸す貸さないの話になっている。
原作ではこんなイベント、少なくとも俺の記憶にはない。
つまりまた、少しずつズレている。
それがいいことなのか悪いことなのか、相変わらず分からない。
◇
西棟の階段を下りきると、一階の渡り廊下の向こうで朝比奈日和が誰かと笑っているのが見えた。
その近くを、委員会帰りらしい黒瀬凛が歩いていく。
日和は明るく、凛は真面目で、透子は静かだ。
そしてその全員が、俺の知る“原作の誰か”である前に、それぞれの現実を生きている。
その当たり前が、時々ひどく重い。
昇降口へ向かう途中、スマホを取り出してメモアプリを開く。
透子。机上整理、昨日より改善。
利用記録を自分で取っている。記憶確認の意味合いあり。
委員会メモ、貸出カードなど、細かいズレに敏感。
こちらの行動を見ている。観察継続。
文庫貸与の話。原作外。
最後の一行を打ち込んで、少しだけため息をつく。
文庫貸与の話。原作外。
こんなメモを残している時点で、自分でもどうかと思う。
だが記録しないと、何がどこからズレたのか分からなくなる。
未来を知っている側の唯一の利点は、比較対象があることだ。
その利点が薄れていくのは怖い。
けれど、ズレなければ救えないものがあるのも事実だった。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
空気はひんやりしていて、夕方というよりもう夜の入口に近い。
グラウンドの照明が点き始め、校門の向こうに続く道には帰宅する生徒がまばらにいる。
俺は校門へ向かいながら、今日の透子の顔を思い出す。
安心しました。
先に気づきますね。
読み終わったら貸します。
どれも大した言葉じゃない。
でも、その“大したことなさ”が怖い。
人間関係なんて、案外そういうものでできていくからだ。
「……見ていただけの後輩、ね」
小さく呟く。
透子は見ていた。
昨日の本の位置も、今日のメモも、貸出カードも。
そしてたぶん、俺が誤魔化していること自体も、うっすら見えている。
なら、下手な誤魔化しは逆効果かもしれない。
かといって本当のことを言えるわけでもない。
面倒だ。
本当に面倒だ。
だが同時に、少しだけ救われてもいる。
透子が、自分の認識を全部ひとりで疑わずに済むなら。
自分だけがおかしいのかもしれない、という考えから少しでも離れられるなら。
今日の会話には意味があったと思える。
校門を出る前に一度だけ振り返る。
西棟の二階の窓に、ぼんやりと明かりが見えた。
図書室だ。
まだ始まっていない破滅は、たぶん今もあの静かな場所に潜んでいる。
でも今日は、その手前で少しだけ空気を変えられた気がした。
それだけで十分だ。
少なくとも今日は。




