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エロゲ世界のクズ役に転生したので破滅回避に徹したら、攻略対象より先にヒロインを救ってしまった  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第6話 誰にも知られない善意は、だいたい誤解される

 人助けなんて、見つからない形でやるに限る。


 ――と、前世で誰かが言っていた気がする。


 たしか綺麗事として語られていた台詞だったと思うが、今の俺にとっては綺麗事でも何でもない。見つからない形でやらないと困るのだ。

 感謝されたいわけじゃない。褒められたいわけでもない。むしろ逆で、目立てば目立つほど後が面倒になる。


 だから本来なら、俺のやることは誰にも知られないのが一番いい。


 ……そのはずなのに。


「御影くん、最近ちょっと変わったよね」

 朝、教室へ入るなりそんなことを言われて、俺は本気で踵を返したくなった。


 声の主は、日和とよく一緒にいる女子の一人だった。名前は知っている。知っているが、深く関わる気はない。

 その隣では当の日和が「あー、それ私もちょっと思った」とでも言いたげな顔をしていて、余計に嫌な予感しかしない。


「何が」

 俺が低く返すと、女子はけろっとした顔で言う。

「前はもっと、“話しかけないでください”って顔してた」

「してるだろ今も」

「前よりマシ」

「比較対象がひどいな」

「ほら、そういう返しするもん」

「どういう意味だよ」


 会話の輪の端で相馬が吹き出す。

「お前、女子にまでいじられるようになったな」

「うるさい」

「いやでも分かるわ。前はもっとトゲトゲしてた」

「今も十分トゲトゲしてると思うけど……」

 日和が苦笑まじりに口を挟む。


 何なんだ、お前らは。


 たかが数日だぞ。

 その間に起きたことと言えば、プリントを支えたとか、余計な頼まれごとの空気を減らしたとか、図書室で本とメモの位置を直したとか、その程度だ。

 普通なら印象が変わるほどの出来事じゃない。


 だが、人間の認識なんて案外そんなもので変わるのかもしれない。


 それが面倒だ。


 俺は鞄を机に置きながら、ちらりと日和を見る。

 今日も明るい。笑顔も自然だ。けれど昨日、一昨日より少しだけ、疲れの影が薄い気がした。


 ……それは、いいことなんだろう。


 たぶん。


 たとえば原作通りなら、この時期の日和はもう少し目に見えない疲弊を抱え始めている。周囲はそれを「朝比奈なら大丈夫」で済ませて、本人も笑ってそれを受け入れる。そうして少しずつ、誰かにとって都合のいい“頑張れる子”になっていく。


 今はまだ、そこまで行っていない。


 昨日、職員室までの廊下で言ったことが多少は効いたのかもしれない。

 あるいは、凛や相馬みたいに“見ている人間”が他にもいることが、俺の想像よりずっと重要なのかもしれない。


 どちらにしても、悪くはない。


 悪くはないが――。


「御影、顔」

 前の席から相馬が振り返る。

「何だ」

「今すげえ難しいこと考えてる顔してた」

「してない」

「してたって。数学で解けない問題見た時みたいな」

「余計なお世話だ」

「お前、ほんと分かりやすい時あるよな」

「それはお前が見すぎなんだよ」


 相馬は肩をすくめた。

「人間観察が趣味なんで」

「最低だな」

「褒めるな褒めるな」


 褒めてない。


 やり取りをしている間に、担任が教室へ入ってきた。朝のホームルームが始まり、周囲のざわめきが少しずつ整っていく。

 連絡事項。提出物。今日の授業変更。

 どれも平凡だ。平凡だからこそ、油断ならない。


 担任が「あと、文化祭準備の委員、まだ一名足りないから後で相談な」と言った時、俺は反射的に日和を見た。


 案の定だ。


 周囲の数人が、ほとんど無意識の動きで日和の方を見る。


 本人はその視線に気づいたのか気づいていないのか、連絡プリントを見ながらふつうの顔をしていた。だが、こういう場面だ。

 誰かが「朝比奈さんなら」と言い出すのは時間の問題だろう。


 嫌な流れだ。


 今この場で横から「やめとけ」と言えば不自然すぎる。

 かといって放置すると、たぶんまた“何となく引き受ける空気”になる。


 俺は考える。

 考えて、すぐに一つ思いついた。


 放課後、委員決めが始まる前に、別件の仕事を日和の机から消せばいい。


 回りくどい。

 だが、直接口を出すよりはましだ。


     ◇


 一限目は英語だった。


 教師が黒板に構文を書き、教科書を開かせ、順番に指名していく。いつも通りの授業。

 俺はノートを取るふりをしながら、教室の動きを見る。


 今日は提出物が二種類ある。英単語の小テスト見直しシートと、昨日の理科実験の確認プリント。

 それに加えて、担任が朝言っていた文化祭準備委員の話。


 こういう時に仕事が集まりやすい机は決まっている。

 教師から見やすく、クラス内で頼みやすい位置。

 つまり、日和の机だ。


 本人に自覚があるかは知らないが、あいつの席は“中継地点”になりやすい。何かを一時的に置く。誰かに預ける。回収してもらう。そういう雑多なものが自然と集まる。


 そして、その“自然と”が厄介なのだ。


 休み時間になってすぐ、案の定、机の上に細々したものが乗り始めた。

 プリント一枚。先生に聞くことが書かれたメモ。購買で買ってきてほしいと言われたパンの代金。

 日和は困った顔一つせず、「あとでね」と笑っている。


 やめろ。


 いや、日和が悪いわけじゃない。

 悪いのは、それを当然みたいに預ける周囲の無邪気さだ。

 そしてもっと悪いのは、それを“便利だから”で済ませていた原作の構造そのものだ。


「御影」

「何」

 不意に、すぐ横から低い声がした。


 見ると凛が立っていた。朝からこいつは唐突だな。

「今日、理科のプリント提出でしたよね」

「そうだけど」

「出しましたか」

「さっき」

「ならいいです」

「確認かよ」

「あなた、意外とそういうところで出し忘れそうなので」

「偏見がひどいな」

「観察です」

「便利な言葉だなそれ」


 凛は俺の机の上のプリントを一瞥して、それからさりげなく教室前方へ目を向けた。

 視線の先には日和の机。

 その上に少しずつ増えていく、他人の雑務。


 凛の眉がほんの少しだけ寄る。


 やはり見ている。

 あいつも、ちゃんと分かっているのだ。


「言わないのか」

 俺が小さく聞くと、凛は視線だけで返した。

「何をです」

「朝比奈に」

「また“抱え込みすぎるな”と?」

「そうだ」

「昨日も言いました」

「効いてないように見えるが」

「一日で全部変わると思っているなら、あなたの方が甘いです」

「……」

 それは、そうかもしれない。


 凛は続ける。

「でも、今日は昨日より少し断る気配があります」

「気配って」

「気配は気配です」

「曖昧だな」

「人間なんてそんなものです」

 言い切る凛に、俺は少しだけ息を吐いた。


 正論だ。


 全てを一回で解決できるほど、現実は都合よくない。

 たった一言で、誰かの性格が変わるわけもない。


 だが、その“一日で全部は変わらない”を理由に放置すると、原作みたいなことになる。


「御影くん」

 今度は前方から日和に呼ばれた。


 またかよ。


 教室前方へ視線を向けると、日和が困ったように小さく手を上げていた。

 机の上にはプリントや小物がいくつか並び、その手前に文化祭の希望票らしき紙も見える。


「何」

「これ、先生に出す順番って分かる?」

 差し出されたのは、文化祭準備関連の用紙と、英語の見直しシート。

 なるほど。順番が曖昧だと、誰かが“詳しそうな人”に聞きに来る。で、その詳しそうな人が日和だ。


 俺は席を立って前へ行き、紙を受け取る。

「英語が先。文化祭のは昼休みでもいい」

「やっぱり? ありがとう」

「それと」

 俺は机の上を見た。

「それ、全部お前の仕事じゃないだろ」

 日和がきょとんとする。

「え?」

「預かりすぎ」

「いや、でもちょっと置いてるだけだし」

「置くだけなら自分の机に置かせろ」

 思ったよりストレートに言ってしまった。


 周囲の何人かが「うわ」とでも言いたげな顔でこっちを見る。

 しまった、と思ったが遅い。


 だが、日和は怒らなかった。少しだけ目を丸くして、それから机の上を見下ろす。

「……そんなに多い?」

「多い」

「えー……」

 ようやく自分の机の上を客観視したのか、少し困ったように笑う。


 その隙に俺は机の端にあったメモとパン代を持ち上げ、近くの持ち主へ返した。

「自分で管理しろ」

「え、あ、ごめん」

「あとで渡してもらおうと思ってた」

「その“あとで”が多いって話だ」

「はいはい、すみません」


 周囲に小さな笑いが起こる。


 俺の言い方はたぶん冷たい。

 でも、こういうのは軽く流されるくらいでちょうどいい。深刻な顔で言う方がかえって面倒になる。


「……御影くん、そういうとこ時々お兄ちゃんみたい」

 誰かがそんなことを言って、教室の空気がふっと緩んだ。


 やめろ。


 その方向の認識は本当にやめろ。


「最悪な例えだな」

 俺が低く返すと、今度は相馬が声を上げて笑う。

「いやでも分かるわ。最近たまに保護者っぽいんだよな」

「お前まで言うな」

「怒った」

「怒るだろ普通」

「普通に怒る御影って、なんかもうそれだけで面白い」

「お前は一回痛い目見ろ」


 そんなやり取りの端で、凛が小さくため息をついているのが見えた。

 呆れているのか、少し安心したのかは分からない。


 日和は、自分の机の上を改めて見てから、預かったままになっていたものを持ち主へ返していく。

「これ、自分でお願い」

「あ、うん」

「これもごめん、やっぱ持ってて」

「了解」

 ほんの小さな動きだ。

 たったそれだけ。

 でも、その“たったそれだけ”が大事だ。


 机の上が少しすっきりしていくのを見ながら、俺は内心で安堵した。


 誰にも知られない形で解決したかった。

 だが、こうやって教室の真ん中で言ってしまった以上、少なくとも何人かには「御影が朝比奈の机の上を片づけた」という認識が残る。


 ……最悪だ。


 いや、違う。


 結果だけ見れば悪くない。日和の負担は少し減った。

 だったら細かい後悔はどうでもいい。


 そう自分に言い聞かせる。


     ◇


 昼休み。


 購買へ走るやつらを見送り、俺は自分の席で昼食を広げた。相馬はパンを奪い合う戦場に出て行ったらしい。

 教室は少し落ち着きを取り戻し、あちこちで小さなグループが輪を作っている。


 日和は友人たちと昼食を取っていたが、さっきよりほんの少しだけ、机の周りがすっきりしている。

 そこに余計なプリントや小物が溜まっていないだけで、妙に印象が違った。


 その時、教室前方でまた文化祭委員の話が持ち上がる。


「まだ一人足りないんだよね」

「どうする?」

「誰かできそうな人……」

 ほら来た。


 数人の視線がまた日和へ向きかける。

 俺は箸を止めた。


 だが、日和の方が先だった。

「ごめん、私ちょっと今回は無理かも」

 明るい声で、けれどはっきりと言う。

「家のこともあるし、今のままだとちゃんとできないと思う」

 一瞬、周囲が静かになる。

 それから「そっか」「じゃあ別の人だね」と話が流れた。


 たったそれだけのこと。


 たったそれだけで、俺は本気で安堵していた。


 やればできるじゃないか。


 いや、元からできたのかもしれない。ただ、“朝比奈なら引き受けてくれる”空気があると、それに引っ張られていただけで。


 人は案外、少し場が整うだけで断れる。


 そういうものかもしれない。


 ふと視線を感じて顔を上げると、向こう側の席で凛がこちらを見ていた。

 ほんの一瞬だけだが、視線が合う。


 凛は何も言わない。

 ただ、ほんのわずかに顎を引いた。


 認めた、のか。


 あるいは「見ていた」と伝えただけか。


 どちらにせよ面倒な女だ。


 だが悪くない。少なくとも、今のやり取りを共有できる相手が一人いるのは、思ったより気が楽だった。


     ◇


 昼休みの終わり際、日和がふらっと俺の机の近くへやって来た。


「御影くん」

「何」

「さっきの」

「どれ」

「机の上のこと」

「……」

「ありがと」

 またそれだ。


 感謝されるようなことではない。

 たかが机の上の物を返しただけだ。

 けれど、日和の言い方は本当にまっすぐで、軽く流しにくい。


「別に」

 いつもの返ししか出てこない。


 日和は苦笑した。

「それ便利だね」

「何度も言うな」

「だって便利そうなんだもん」

「便利だけど万能じゃない」

「へえ、認めた」

 からかうような口調だが、目は少し柔らかい。


 そのまま日和は、机の端に手を置いて小さく息を吐いた。

「私、たぶんさ」

「何」

「“ちょっとだけなら”って思うと、そのまま増えても気づかないんだよね」

 思ったより真面目な声だった。


 俺は少し黙ってから言う。

「そういうやついるよな」

「他人事みたい」

「他人事だろ」

「そっか」

 日和は笑う。だが今度の笑いは、少しだけ照れが混じっていた。

「でも、今日言われてやっと気づいた」

「じゃあ次から気をつけろ」

「うん」

 一拍置いてから、日和は続ける。

「なんかさ、御影くんって、見てるところ細かいよね」

 どきりとする。


 顔には出すな。

 出したら終わる。


「気のせいだ」

「そうかな」

「そうだよ」

「でも、私が気づいてないところ、たまに先に気づくじゃん」

「たまたまだ」

「ふーん……」

 納得していない顔だ。


 やめてくれ。


 そういう“少し気になる”みたいな認識の積み重ねが、一番困る。


 日和はそれ以上追及しなかったが、去り際に小さく言う。

「ありがとね、ほんとに」

「……あっそ」

「その返し、ほんと可愛くない」

「ほっとけ」


 日和が笑って自席へ戻る。

 その背中を見送ってから、俺は深く息を吐いた。


 誰にも知られない善意、のつもりだったのに。

 今日のは全然知られてるじゃないか。


 むしろ教室のほとんどが薄く認識したレベルだ。


 最悪だ。


 でも――。


 日和の机の上は、さっきから綺麗なままだった。


 それだけで、今日の自分の失点は帳消しにしてもいい気がした。


     ◇


 放課後、教室の空気が帰宅と部活と掃除でばらけていく中、俺は理科準備室へ寄る用事を作った。

 本当は用事などない。だが、昨日の理科の確認プリントの処理が少し気になっていた。


 原作ではこの辺りで、提出順や回収漏れが軽い誤解を生むことがある。

 今回は日和の負担を減らすことを優先したが、他の火種を見落としていい理由にはならない。


 廊下を歩いていると、途中で相馬が追いついてきた。


「また見回り?」

「何のだよ」

「校内平和維持活動」

「そんな大層なもんじゃない」

「じゃあ何」

「散歩」

「制服で?」

「学園内だから問題ない」

「屁理屈」


 相馬は笑いながら歩調を合わせる。

「でもさ」

「何」

「今日のあれ、朝比奈ちょっと助かったんじゃね」

 俺はちらっと相馬を見る。

「何の話だ」

「机の上のやつ」

「……」

「お前、ああいうの嫌いだろ」

「何が」

「“何となくあいつに預けとけばいいか”みたいな空気」

 思った以上に見られていたらしい。


「別に」

「出た」

「別に嫌いとかじゃない」

「でも止めた」

「見てて邪魔だった」

「それ、だいぶ嫌ってるじゃん」

「言葉遊びするな」

 相馬は肩を揺らして笑った。


 その笑い方に、悪意はない。

 ただ面白がっているだけだ。

 でも、そういう第三者の視点があるのは悪くないかもしれない。俺や凛みたいに“問題として見すぎる”んじゃなく、もっと普通の感覚で“あれはちょっと偏ってる”と思えるやつがいるのは。


「朝比奈って、断るの下手そうだしな」

 相馬が何気なく言う。

「できなくはないだろ」

「できるけど、“まあいっか”で抱えるタイプっているじゃん」

「……いるな」

「だから、お前がああやって言うの、案外ちょうどよかったのかも」

 さらっと言われたその一言に、俺は少しだけ歩幅を乱しそうになった。


 ちょうどよかった。


 その感覚が、俺にはまだよく分からない。


 助けるなら、もっと上手くやるべきだと思ってしまう。

 誰にも見つからず、波風も立てず、相手だけが少し楽になるように。

 けれど現実にはそんな都合のいいやり方ばかりじゃない。今日みたいに、多少目立ってでも言わなければ変わらないこともある。


「お前ってさ」

 相馬がふいに言う。

「面倒見いいの隠すの下手だよな」

「は?」

「いや、隠してるつもりなんだろうけど」

「隠してない」

「じゃあ認める?」

「認めない」

「ほら」

 相馬が吹き出す。

「そういうとこ」


 俺は本気でこいつの口を塞ぎたくなった。


     ◇


 結局、理科準備室周りで大きな問題は見つからなかった。


 提出物の処理も今日は無難に済んでいるらしい。教師の机の上に積まれたプリントの順番を見て、俺はようやく少し肩の力を抜いた。


 帰り際、階段の踊り場で凛と鉢合わせる。


「また見回りですか」

「お前、その言い方気に入ってるだろ」

「否定はしません」

 凛はファイルを持ち直してから、少しだけ言いよどんだ。

「今日のことですが」

「何」

「朝比奈さん」

「ああ」

「ちゃんと断っていましたね」

「そうだな」

「少し安心しました」

 その素直な言い方に、俺は少しだけ目を細める。


「お前もそう思うんだな」

「当然です」

「何で当然なんだよ」

「見ていれば分かりますから」

 そう言ってから、凛はほんの少しだけ視線を外した。

「……それに」

「それに?」

「あなたが言ったことが、無駄ではなかったということなので」

 思わず言葉に詰まる。


 それは、たぶん凛なりの“認める”に近い言い方だった。


「別に、俺の手柄じゃない」

「でも、きっかけにはなったでしょう」

「お前までそういうこと言うのか」

「事実は事実です」

「……」

「ただし」

 凛はすぐに続ける。

「あなたのやり方がいつも正しいとは思いません」

「分かってるよ」

「ならいいです」

 そこで会話が終わるかと思ったら、凛は最後にぽつりと言った。

「誰にも知られないようにやろうとして、結局目立っているのは不器用ですね」

「……何だそれ」

「そのままの意味です」

「性格悪いな」

「知っています」


 凛はほんの少しだけ、ほんの少しだけ口元を緩めて去っていった。


 言い返そうとして、結局やめる。


 不器用。


 たしかにそうかもしれない。


 誰にも知られない形でやるのが理想だ。

 だが現実はそう上手くいかない。

 だから少しだけ目立って、少しだけ誤解されて、少しだけ認識が変わる。


 その積み重ねの先に何があるのか、まだ俺には分からない。


 ただ一つ分かるのは、今日の朝比奈日和は、少なくとも昨日までより少しだけ楽そうだったということだ。


 それならまあ、今日はそれでいい。


 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。


 夕方の空は薄く茜色で、風はまだ少しだけ冷たい。グラウンドから掛け声が響き、校門の向こうでは帰宅する生徒たちが笑っていた。


 何でもない放課後。


 誰も、自分の机の上が少しすっきりしたことを“救済”なんて呼ばないだろう。

 俺だって呼ぶつもりはない。


 でも、そういう些細なものの積み重ねでしか、人は楽になれないこともある。


「……誰にも知られない善意、ね」


 小さく呟いて、自分で苦笑する。


 今日はだいぶ知られた。

 日和にも、相馬にも、凛にも。

 たぶんクラスの何人かにも。


 全然駄目だ。理想とは程遠い。


 それでも。


 誰かが少しだけ息をしやすくなったなら、たぶんそれでいい。

 少なくとも、原作で見たあの息苦しさよりはずっとましだ。


 校門を出て、駅へ続く坂を下りながら、俺は明日のことを考える。


 次に見るべきは、透子の周辺だ。

 図書室の小さな違和感。

 机の上に置かれるもの。

 そして、本人の“自分のせいかもしれない”という癖。


 誰か一人を助けて終わりじゃない。

 この世界は、そんなに単純じゃない。


 だから明日もまた、小さなズレを拾っていくしかないのだ。

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