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エロゲ世界のクズ役に転生したので破滅回避に徹したら、攻略対象より先にヒロインを救ってしまった  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第4話 黒瀬凛は、噂より記録を信じる

 黒瀬凛は、たぶん俺のことが嫌いだ。


 いや、正確には“好き嫌いの前に警戒している”の方が近いのかもしれない。


 あいつは感情で人を見るタイプじゃない。ぱっと見の印象や、その場のノリだけで誰かを断じるような雑さはない。その代わり、一度「危ない」と判断した相手には、かなり長く距離を置く。しかもその判断材料が、噂ではなく観察と記録に基づいているから面倒だ。


 つまり、変に誤魔化しが効かない。


 朝の教室。今日もいつも通りのざわめきが広がる中で、凛は自席で連絡帳と委員会用のファイルを並べていた。机の端に教科書、中央に筆箱、右にプリントの束。配置に無駄がない。性格がそのまま机の上に出ているみたいな女だ。


 その横顔を見ながら、俺は朝のうちから少しだけ気が重かった。


 昨日、今日と立て続けに余計なところを見られている。


 日和への声かけ。掲示板の修正。誰にも気づかれない範囲で動いているつもりでも、凛みたいなやつには案外拾われる。拾われたものが積み重なれば、“原作の御影悠真像”と現実の俺のズレを疑われる可能性がある。


 それ自体は悪いことばかりじゃない。


 だが、俺にとって一番面倒なのは、理解しようとする相手だ。


 嫌われるだけならまだ楽だ。距離を取られるだけで済む。


 けれど、相手が「こいつは本当に何者なんだ」と考え始めた瞬間から、話は少しずつややこしくなる。


「御影」

「何だよ」


 一限前、担任がまだ来ていない時間帯に、凛が珍しく自分から俺の席まで来た。


 その時点で嫌な予感しかしない。


 周囲も少しだけざわついている。そりゃそうだ。クラスでも凛は、必要がなければ俺に近寄るタイプじゃない。


「昨日の掲示板の件です」

「いきなりだな」

「あなた、あれを直していましたよね」

「見れば分かるだろ」

「だから確認しています」


 真顔でそう返されて、俺はため息をついた。


「直してたよ。それで?」

「どうしてですか」

「見づらかったから」

「それだけですか」

「それ以上に何があるんだよ」

「普通は、ああいうことをわざわざしません」

「お前の普通は知らない」

「少なくとも、あなたの普段の行動からは不自然です」

「失礼だな」

「事実です」


 きっぱり言い切るな。


 俺は椅子の背もたれに寄りかかって、凛を見上げた。凛は表情を変えない。委員会の報告書でも読み上げるみたいに淡々としている。


 周囲の数人が、完全にこちらへ意識を向けているのが分かる。やめろ。変に注目を集めるな。


「黒瀬」

「何ですか」

「その話、今ここでする必要あるか?」

「あります」

「何で」

「あなたが逃げるからです」

「逃げてない」

「そうやって話を逸らすのを一般的には逃げると言います」

「お前は辞書か」


 凛はわずかに眉を寄せた。呆れたのか、あるいは“またそうやってふざける”と思ったのか。


「私は、噂話がしたいわけじゃありません」

「……」

「あなたのことを“感じが悪い”とか“近寄りがたい”とか言う人は多いです。でもそういう曖昧な話をするつもりはないんです」

「なら何だよ」

「行動です」

 凛の声は低かった。

「最近のあなたの行動は、少しおかしい」


 心臓が一瞬だけ嫌な跳ね方をした。


 もちろん表には出さない。出したら終わる。


「俺のどこが」

「昨日も一昨日も、起こりかけたことを先に片づけているように見えました」

「気のせいだろ」

「気のせいで済ませるには回数が多いです」

「たまたまだ」

「たまたまで、朝比奈さんが困る前に手が出るんですか」

「……」


 そこか。


 俺は少しだけ視線を逸らしたくなったが、耐えた。


 凛の前で目を逸らすと、それだけで余計な情報になる。


「お前、人のこと見すぎだろ」

「風紀委員ですから」

「職権乱用だな」

「意味が違います」


 その時、前から相馬がくるりと振り返った。


「なあ黒瀬」

「何ですか」

「朝から御影いじめるのやめてやってくんない? こいつ意外と打たれ弱いぞ」

「余計なこと言うな」

「お前は黙ってろ」

 俺が即座に返すと、相馬は肩をすくめた。

「ほら、元気ないじゃん」

「お前のせいだろ」

「黒瀬、見ただろ? こいつ普通にめんどくさいだけなんだよ」

「それは見れば分かります」

「ひどくない?」

「事実です」

「お前らほんと容赦ないな」


 相馬が茶化したおかげで、周囲に漂っていた変な緊張は少し和らいだ。凛も、これ以上ここで話を続けても意味がないと判断したのか、小さく息を吐いて言う。


「……放課後、少し時間をもらえますか」

「断る」

「まだ最後まで言っていません」

「どうせ面倒だろ」

「面倒かどうかを決めるのはあなたではありません」

「俺の時間なんだから俺だろ」

「では、お願いです」

「その言い換えで通ると思うなよ」

「通してください」


 押しが強い。


 しかも凛の場合、“感情的に詰めている”というより“必要だから言っている”顔をするから、断りづらい。


「……少しだけだぞ」

「ありがとうございます」

「礼を言うくらいなら最初からその態度で来い」

「あなたが素直に応じればそうします」

「無茶言うな」

「無茶ではありません」


 そう言って凛は自席へ戻った。


 朝から疲れる。


「お前、とうとう風紀委員に目付けられたな」

 相馬が楽しそうに言う。

「もともと目付けられてる」

「確かに」

「納得するな」


 そのやり取りの横で、日和がこちらをちらっと見ていた。心配しているような、でも不用意に口を挟まないようにしているような顔だ。


 やめてくれ。


 これ以上、俺を“気にする対象”として認識しないでほしい。


     ◇


 一限目は数学だった。


 俺は黒板の式を追いながら、半分は別のことを考えていた。放課後のことじゃない。凛が言った「起こりかけたことを先に片づけているように見えた」という言葉の方だ。


 そこまで露骨だったか、と自分に問い返す。


 答えは、たぶん半分イエスだ。


 俺は目立たないように動いているつもりで、実際には“分かる人には分かる”動き方をしているのかもしれない。未来を知っている側の人間は、どうしても行動のタイミングが不自然になる。普通なら気にしないところで気にするし、普通なら見過ごすところで止まる。


 相手がぼんやりしたやつなら、それで終わる。


 でも凛は違う。


 あいつは違和感を違和感のまま放置しない。


 問題はそこだった。


「御影」


 教師に当てられて、俺は顔を上げた。


「そこ、次」

「……はい」


 立ち上がり、式変形の続きを答える。幸い内容は頭に入っていた。板書の流れも予測できる程度には簡単だ。


 答え終えると、教師は無難に頷き、次の説明に移る。


 席に座る瞬間、右斜め後ろから視線を感じた。


 凛だ。


 何でそんなに見るんだよ。


 振り返るわけにもいかず、俺はノートに目を落としたまま耐える。数秒後、視線は消えた。たぶん、本当に消えたと思いたい。


 二限目の休み時間。委員会連絡のためか、凛は教室を出て行った。日和は友達と次の授業の準備をしている。相馬は後ろの席の男子とくだらないゲームの話で盛り上がっていた。


 俺はその隙に教室を見渡す。


 今日は大きなイベントはないはずだ。少なくとも原作知識の範囲では。だが、そういう“何もない日”に限って細かい導線が増える。誰が誰に物を借りたか、誰が何を立て替えたか、誰が提出物を忘れたか。その積み重ねが後で人間関係の負債になる。


 視線の先で、日和がまた何かを頼まれていた。今度はプリントではなく、昼の購買の注文表らしい。本人は笑って受け取っている。


 俺は舌打ちしたい気分になる。


 断れないわけじゃない。現に昨日も断っていた。でも“軽い頼みごと”を受けることに抵抗がなさすぎる。そういうところから周囲の期待値が上がるんだよ。


「御影くん」


 不意に声がかかり、そちらを見ると、クラスの男子が困った顔で立っていた。

「なんだ」

「このプリント、どっちが先に出すやつか分かる?」

「見せろ」


 紙を受け取り、目を通す。委員会提出用と教科担当用の二種類だ。見れば分かる。


「こっち先。提出先違うから混ぜるなよ」

「助かった」

 男子は礼を言って去っていく。


 その様子を、たまたま戻ってきた凛が見ていた。


 またかよ。


 凛は俺の机の横で一度だけ足を止めた。

「そういうのは分かるんですね」

「書いてあるからな」

「読むんですね」

「俺を何だと思ってるんだ」

「読まない人」

「偏見がひどい」

「普段の態度です」

「全部そこに帰結するな」

「ええ」


 やっぱり朝の話をまだ引きずっているらしい。


 だが凛はそれ以上は何も言わず、席に戻った。少し拍子抜けする。


 こっちはもっと詰められるかと思っていたのに。


 そう思ってから、いや違う、と気づく。


 あいつは“今はまだ集めている”んだ。


 いきなり結論を出すんじゃなくて、材料を見ている。言動、タイミング、周囲の反応。たぶんそういうものを一つずつ頭の中で並べている。


 やっぱり面倒な相手だ。


     ◇


 三限目のあと、事件というほどでもない小さなトラブルが起きた。


 正確には、“起きかけた”。


 昼休み直前、理科の移動教室の準備でクラスが少し慌ただしくなった時だ。後ろの棚の上に置かれていた実験用の記録ファイルが、一冊足りないと誰かが言い出した。


「え、さっきここにあったよね?」

「ないんだけど」

「黒瀬、預かってない?」

「私は受け取っていません」

「朝比奈さん見てない?」

「え、私?」


 名前が飛ぶのが早い。


 俺はその瞬間、嫌なものを感じた。


 原作でも、こういう“誰かがちょっとだけしっかりしているから真っ先に確認される”流れが、日和を消耗させるきっかけになっていた。悪意はない。信頼されている証拠、と言えば聞こえはいい。だが、積もれば立派な負担だ。


 凛が棚の前に立ち、状況を整理しようとしている。日和は困ったように首を振り、相馬は「誰か持ってっただけじゃね?」と軽く言った。


 俺は立ち上がり、教室後方へ向かった。


「御影?」

 相馬が不思議そうに言う。

 無視して棚の下を見る。


 あった。


 ファイルは棚の奥ではなく、横の掃除用具入れとの隙間に半分落ちかけた状態で挟まっていた。誰かが他の物を取る時にずらして、そのまま見えなくなったのだろう。


 俺はしゃがんでそれを引き抜き、棚の上へ置いた。

「これだろ」

 一瞬、教室が静まる。


「あ、ほんとだ」

「なんでそこに……」

「落ちてたんじゃん」

「最初から見ろよって話だな」


 相馬が笑いながら言う。


 それで終わる、はずだった。


 だが、凛は終わらせなかった。


 彼女はファイルを確認したあと、俺の方を見た。

「どうしてそこを?」

「は?」

「最初に棚の下を見ると思った理由です」

「落ちそうな置き方してたからだろ」

「さっきあなた、席から一度も後ろを見ていませんでしたよね」

「……」

「なのに、“そこにある”みたいな動きでした」

「考えすぎだ」

「かもしれません」

 凛はそこで言葉を切った。

「でも、そういう“かもしれない”が最近多いんです」


 教室の空気が少しだけ張る。


 やめろ。今ここでそれを言うな。


 俺は目を細めた。

「黒瀬」

「何ですか」

「理屈こねる前に、見つかったんだからそれでいいだろ」

「そうですね。今回は」

「今回は?」

「見つからなかった場合、朝比奈さんか私が管理不足だと言われたかもしれません」

 その言葉に、日和と凛、二人の空気がわずかに変わる。


 ああ、そういうことか。


 凛は、ただ俺の不自然さが気になっているだけじゃない。

 “起こりかけた不利益が誰に向かうか”まで見えている。


 だから放っておけないのだ。


 面倒くさいが、少しだけ納得した。


「……なら、なおさら見つかって良かっただろ」

 俺が低く返すと、凛は少しだけ目を伏せた。

「ええ。だから、今はそれで構いません」


 今は、ね。


 言外の圧が強い。


 日和がそんな二人のやり取りを見て、少し困ったように笑った。

「なんか、二人ともたまに難しい会話するよね」

「してない」

「してません」

 俺と凛の声が揃って、教室の空気が少しだけ緩む。


 相馬がそこで吹き出した。

「そこ揃うんだ」

「うるさい」

「うるさいです」


 また揃ってしまった。


 何なんだよ、本当に。


     ◇


 放課後。


 掃除当番のざわつきが落ち着き、人が少しずつ減っていく中で、俺は約束通り凛を待っていた。


 場所は西棟二階の資料室前の廊下。人通りは多くないが、完全な死角でもない。凛が選びそうな場所だ。密室にしない。けれど話はできる。そういう距離感。


 やがて凛が来た。ファイルを抱えたまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。


「待たせたか」

「少しだけ」

「お前が呼び出したんだろ」

「ええ」


 そこは否定しないんだな。


「それで?」

「単刀直入に言います」

 凛は廊下の窓から差し込む夕方の光の中で、静かに俺を見た。

「あなたは最近、何かを“先に片づけよう”としていませんか」

「してない」

「即答ですね」

「事実だからな」

「事実にしては、反応が早すぎます」

「お前は何を期待してるんだ」

「期待ではありません。確認です」

 凛は少しだけ声を落とした。

「あなたは、起こる前から何かを知っているみたいに動くことがある」

 喉の奥が、ひやりと冷えた。


 そこまで来るか。


 もちろん、言えるわけがない。

 “この世界は俺の知る恋愛ゲーム世界で、お前たちはその登場人物で、俺だけが先の展開を知っている”なんて言ったところで、気味の悪い妄想としか思われない。思われるだけならまだしも、そこで関係が壊れる。


 何より――。


 こいつらにとって、ここはゲームじゃない。


 人生だ。


 だから俺は、その認識を壊すようなことは言わない。


「黒瀬」

「はい」

「お前の言ってること、意味分かんないぞ」

「分からないようにしているのはあなたです」

「そうじゃなくて、“起こる前から知ってるみたい”って何だよ。俺は占い師か?」

「そういう軽口で流すのも、最近のあなたの癖ですね」

「お前ほんと面倒だな」

「よく言われます」

「自覚あんのかよ」

「ええ」


 さらっと言われると調子が狂う。


 凛はファイルを胸の前で抱え直した。

「私は、噂を信じるつもりはありません」

「……」

「御影悠真は感じが悪い。近寄りがたい。何を考えているか分からない。そういう話はいくらでも聞きます」

「間違ってはないな」

「でも、記録上、あなたが直接問題を起こした例は思ったほど多くない」

 俺は黙った。


 そこまで調べていたのか。


「それなのに、危うい印象だけが先に立っている」

 凛は続ける。

「一方で、最近のあなたは起きかけたことを止めているように見える。掲示板、提出物、今日のファイルもそうです」

「偶然だ」

「そうでしょうか」

「そういうことにしておけ」

「あなたはいつもそうやって、“理由”を出さないまま終わらせようとします」

「理由があったら全部説明するのか?」

「説明できることならします」

「できないこともあるだろ」

「……あります」

 凛はそこで一瞬だけ視線を落とした。


 その間が気になって、俺は思わず聞いてしまう。

「お前にも?」

「誰にでもあると思います」

 凛はすぐに顔を上げた。

「ですが、説明しないことと、誤解されるまま放置することは別です」

「それはお前の価値観だろ」

「そうです。だからこれは私個人の意見です」

「律儀だな」

「事実と意見は分けるべきなので」


 らしい返事だ。


 俺は壁にもたれ、短く息を吐いた。


 たぶん、ここで完全に突き放すのは逆効果だ。凛は“拒絶された”こと自体も観察材料にする。なら少しだけ、本音に近いところを混ぜた方がいい。


「……起きないなら、それでいいと思ってる」

 ぽつりとそう言うと、凛の目がわずかに細められた。

「何が、ですか」

「トラブルとか、誤解とか、そういうのだよ」

「抽象的ですね」

「具体的に言ったらお前は余計に面倒になるだろ」

「否定はしません」

「する気もないだろ」

「ええ」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 窓の外では運動部の掛け声が遠くに聞こえた。夕陽が廊下の床に長い影を落としている。こんな普通の放課後に、俺たちは何をやっているんだろうなと思う。


 凛が先に口を開いた。

「私は、あなたを信用したわけではありません」

「知ってる」

「ですが」

 彼女は言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。

「少なくとも、“ただ嫌な人”とは思わなくなりました」

 その一言に、胸の奥が妙にざわついた。


 やめろよ。


 そういう更新は、本当に困る。


 俺は顔をしかめる。

「それ、俺にとって得か?」

「さあ」

「ひどいな」

「でも、私にとっては重要です」

「何で」

「人を間違って見るのは嫌だからです」


 凛の言葉は、飾り気がない。


 だから重い。


 こいつはたぶん、本気でそう思っている。自分の正しさに酔っているんじゃなくて、間違えることを怖がっている。

 その結果として、確認するし、疑うし、見続ける。


 ……厄介極まりない。


「じゃあ、好きに見てろ」

 俺はそっけなく言った。

「ただし、変な期待はするな」

「期待?」

「俺が善人だとか、頼れるやつだとか、そういうのだ」

「していません」

「即答かよ」

「そこまでは言っていません」

「ならいい」

「ですが」

 また、ですが、か。

「少なくとも、あなたが何も考えていない人ではないとは思っています」

「それも大差ないだろ」

「私の中では違います」

 凛はファイルを持ち直し、一歩引いた。

「今日はこれで終わりにします」

「助かる」

「ただし、今後も気になることがあれば確認します」

「だから面倒なんだよお前は」

「光栄です」

「褒めてない」

「分かっています」


 凛はほんの少しだけ、唇の端を緩めた気がした。


 笑った、のか。


 いや、見間違いかもしれない。凛が分かりやすく笑うタイプじゃないのは知っている。だが、少なくとも今の空気は、最初の頃の刺々しさとは違っていた。


 凛は踵を返し、数歩進んだところで立ち止まる。

「御影」

「何」

「今日のファイルの件」

「……」

「見つかってよかったです」

「そうだな」

「本当に、それだけです」

 それだけ言って、彼女は去っていった。


 廊下に残された俺は、しばらく動けなかった。


 “見つかってよかった”。


 たったそれだけの言葉なのに、妙に響く。


 凛は、あの件で俺を責めたいわけじゃなかったのだ。いや、責める材料にもなるとは思っていたかもしれない。だが、それ以上に“問題が起きなくてよかった”と思っている。


 あいつはそういう人間だ。


 だから面倒で、だから厄介で、だから――。


 俺は深く息を吐いた。


 だからこそ、放っておけない相手でもあるのかもしれない。


     ◇


 帰り道、駅までの坂を下りながら、俺は凛との会話を思い返していた。


 あいつは、噂を信じない。


 感じが悪いとか、近寄りがたいとか、何を考えているか分からないとか、そういう曖昧なラベルで人を決めたくないのだろう。その代わり、記録と観察で判断しようとする。


 だからこそ、“原作の御影悠真”みたいな人間には騙されにくい。


 ……本来なら。


 でも今の俺は、その原作の皮を被っているだけの別人みたいなものだ。


 そこに凛が気づき始めている。


 別に、全部見抜かれたわけじゃない。むしろ肝心なところは何一つ知られていない。


 ただ、“思っていたより単純じゃない”と認識され始めた。


 それは小さな変化だ。


 けれど、人間関係なんて小さな変化の積み重ねでしかできていかない。


 今日見つかったファイルの件だって、本来なら誰かの管理不足として処理され、少しだけ悪い空気が残ったかもしれない。そういう“少しだけ”を潰していくのが今の俺の役目だと思っている。


 その結果、凛の中の俺の評価が変わる。


 それはたぶん、良い変化だ。


 だが同時に、怖い変化でもある。


 原作の中で凛は、御影悠真を“警戒すべき相手”として見ていた。そこに別の感情が混ざるのは、物語がズレるということだ。


「……まあ、今さらか」


 小さく呟く。


 もう日和の中でも、透子の中でも、俺は少しずつズレ始めている。凛だけが原作通りの距離感を保っているわけでもない。


 なら今さら、一人だけ切り離して考えても意味はない。


 俺は駅前の人混みに紛れながら、スマホを取り出してメモアプリを開く。


 日和。小さな頼まれごとの蓄積。断れるが、断る前に一拍ある。

 凛。記録と観察。噂より実際を重視。俺への警戒継続。ただし単純な悪印象ではなくなりつつある。

 教室後方棚。ファイル管理、視認性悪い。今後も要注意。

 掲示物の位置。引き続き確認。


 箇条書きで打ち込みながら、自分でも少し気味が悪いと思う。


 高校生が放課後にやることじゃない。


 でも、やらなければ忘れる。忘れれば取りこぼす。取りこぼせば、誰かが傷つく。


 俺しか知らない“先”がある以上、そうするしかない。


 改札を抜ける前に、ふと視線を感じて顔を上げた。


 駅前広場の向こう、書店の前に見覚えのある後ろ姿がある。黒髪。細い肩。白峰透子だ。

 文庫本を手に取り、表紙を見つめている。


 少し離れた場所から、その様子を眺める。


 彼女は俺に気づいていない。あるいは気づいても、今は知らないふりをしているのかもしれない。


 別に、声をかける理由はない。


 理由はないが――。


 俺は数秒迷って、結局そのまま視線を外した。


 今はまだ、関わりすぎる時じゃない。


 凛との距離も、日和との距離も、透子との距離も。少しずつズレ始めている。それを全部いっぺんに動かすのは危険だ。


 駅の改札を通り抜け、階段を下りながら思う。


 黒瀬凛は、噂より記録を信じる。


 だからこそ、これから先も俺を見続けるだろう。


 面倒だ。ほんとに面倒だ。


 だが――。


 少なくとも今日、起こりかけたトラブルは一つ潰れた。

 誰かの管理不足という小さな負債は、表に出る前に消えた。

 日和も、凛も、不必要に責められずに済んだ。


 それだけで十分だ。


 十分でなければ困る。


 電車がホームへ滑り込んでくる音を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。


「起きないなら、それでいい」


 誰に聞かせるでもない独り言は、走り抜ける電車の音に簡単にかき消された。

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