第3話 朝比奈日和は、今日も笑っている
朝比奈日和は、よく笑う。
そんなこと、わざわざ俺が言うまでもなくクラスの誰だって知っている。日和が教室に入ってくると、空気が少しだけ軽くなる。誰かが眠そうに机に突っ伏していれば「死んでる?」と笑いながら肩を叩き、提出物を忘れて青ざめているやつがいれば「先生まだ来てないから走れ!」と送り出す。大袈裟でもなく、あいつは教室の潤滑油みたいな存在だった。
だから、誰も気づかない。
その笑顔の裏で、あいつがいつから無理を始めて、どこから疲れていくのか。
俺は気づいてしまう。
気づいてしまうから、朝から最悪だった。
「御影、眠そう」
登校して席に着くなり、前から振り返った相馬がそんなことを言った。
「眠いんだよ」
「珍しいな。お前いつも顔色変わらんのに」
「顔色変わらないって、俺は何だ。石か」
「石よりは人間っぽい」
「褒めてないだろ」
「半分は褒めてる」
意味不明なことを言って、相馬は机の上に頬杖をついた。
こいつのこういう軽さは助かる時もあれば面倒な時もある。今朝は後者だった。放っておくと余計なことまで気づかれそうな気がして、俺は教科書を出すふりをして会話を打ち切る。
眠かったのは本当だ。
昨日から頭の中で、白峰透子と朝比奈日和と黒瀬凛の顔が順番に浮かんでは消えていた。誰か一人がどうこうというより、原作の中でじわじわ進んでいく負荷の配分を思い返していたせいだ。
透子は“静かに追い詰められていく”側。
凛は“正しさゆえに孤立していく”側。
そして日和は、“周りのために頑張りすぎて壊れる”側だった。
壊れ方はそれぞれ違う。だから対処の仕方も違う。
透子には、まず孤立の導線を断つ必要がある。凛には誤解の積み上がりを防ぐ必要がある。日和には――。
日和には、何気ない“頼られ方”の蓄積を少しでも減らさなければならない。
それが分かっているのに、俺にできることは驚くほど少ない。
朝のホームルーム前。教室のあちこちで雑談が広がる中、日和はすでに三人くらいから同時に声をかけられていた。
「朝比奈さん、昨日の英語のとこ教えて」
「日和、これ先生に出しといてもらっていい?」
「あ、ねえねえ土曜どうする?」
本人は全部に笑って返す。
「英語は休み時間でいい?」
「それ先生の机で大丈夫かな?」
「土曜はちょっと家の都合見ないと!」
テンポがいい。淀みがない。断るでもなく、抱え込むでもなく見える絶妙な返し方。
けれど、俺は見てしまった。
最後の「家の都合見ないと」と言った瞬間だけ、日和の目元から笑いの力が少し抜けたのを。
本当に、ほんの一瞬。
まばたきの前後に紛れるくらいのわずかな揺れだ。
教室の誰も気づかない。相馬だって今は気づいていない。凛なら、もしかしたら分かるかもしれないが、あいつは今自分の席で配布物の整理に集中している。透子はそもそもこの教室にはいない。
だから、気づいているのはたぶん俺だけだ。
最悪だった。
俺だけが知っている未来と、俺だけが見つけてしまう兆候。その組み合わせは、人をろくでもない方向へ追い込む。
見なかったことにできれば、どれだけ楽だろうと思う。
でも、無理だ。
見てしまった以上、頭の片隅から消えない。
「御影くん、今日の小テスト自信ある?」
突然、斜め前の席の女子に話しかけられ、俺は少しだけ肩を震わせた。
「……普通」
「その普通が信用ならないんだよね」
「どういう意味だよ」
「ちゃんとやってそうって意味」
「珍しく褒められた気がする」
「珍しくって自分で言うんだ」
「客観視は大事だろ」
「ほんと、最近ちょっと喋るよね」
「前から喋ってる」
「機嫌悪そうにね」
「それは生まれつきだ」
そう言うと、周囲でくすっと笑いが漏れた。
何だこれ。
昨日から妙な流れができている気がする。俺がほんの少し人間らしい返しをしただけで、周囲が「意外」とか「案外」とか言い出すのは本当にやめてほしい。
期待されると面倒だ。
何より、原作の御影悠真が人好きのする男ではない以上、“思っていたより悪いやつじゃない”という評価は、後々ズレを大きくする可能性がある。
……いや。
待てよ、と自分で思い直す。
ズレるなら、ズレた方がいいのかもしれない。
原作の悠真に対する悪印象が強すぎること自体が、あとで誰かが彼を疑う土台になっていた部分もある。なら、少しでも印象がましになるなら悪くない。
悪くない、が。
コントロールできない形で変わっていく印象ほど怖いものもない。
俺は深く考えるのをやめ、窓の外へ視線を逃がした。
春の空は高かった。校庭の端では体育の準備らしき動きが見える。白線、ボール、ジャージ姿の生徒たち。平和だ。腹が立つくらいに。
◇
一限目が終わった休み時間、教室の空気は一気に緩んだ。
日和は自席に戻るなり、さっき英語を聞いていた女子にノートを見せていた。文字も綺麗だし、まとめ方も丁寧だ。教える時の声も押しつけがましくない。頼られるのは当然だと思う。
問題は、当然だからといって、それが本人にとって軽いとは限らないことだ。
「ここ、文法はこれでいいんだけど、たぶん先生はこっちの言い回しの方が好きなんだよね」
「え、なにそれ難しくない?」
「癖なんだよ、たぶん。去年の先生もそんな感じだったし」
「日和、先生研究してるの?」
「してないしてない。なんとなく!」
笑いながら答えている。
笑っているが、その手元にある自分のノートの端に、シャーペンの跡がうっすら何本も重なっているのが見えた。無意識の癖か、考え込んだ時に同じところをなぞる癖があるのかもしれない。
前世の画面越しでは、そういう細かい癖までは分からなかった。
今の俺は、それを見てしまう。
相馬が俺の机に肘をついた。
「なあ」
「何」
「お前さっきから朝比奈のこと見すぎじゃね?」
「見てない」
「いや見てる」
「お前の方が見てるだろ」
「俺は人間観察が趣味なんだよ」
「最悪な趣味だな」
「お前にだけは言われたくねえ」
痛いところを突くな。
俺が何も返さないでいると、相馬は視線を日和の方へ戻しながら、何気ない調子で言った。
「朝比奈ってすごいよな」
「……まあな」
「気ぃ遣えるし、頼られるし、あんまり嫌な顔しないし」
「そうだな」
「でも、たまに大丈夫かって思う」
そこで相馬は、少しだけ声を落とした。
「頑張りすぎるやついるじゃん。ああいう感じ」
思わず相馬を見る。
こいつ、やっぱり見えているのか。
相馬は俺の視線に気づいて、肩をすくめた。
「いや、そこまで深刻そうではないけどさ。なんか、こう……断れなさそうっていうか」
「……」
返事に迷う。
ここで下手に同意するのは不自然だ。俺がそこまで日和の性格を気にしている理由を、誰も知らないのだから。
「お前、そういうとこちゃんと見てるんだな」
当たり障りのないところに逃げると、相馬はにやっと笑った。
「俺を何だと思ってたんだよ」
「軽いだけの男」
「ひでえ」
「でも外れてないだろ」
「否定できねえのが悔しい」
そんなことを話しているうちに、日和がノートを見せ終えて席に戻ってきた。戻る途中で、前の列の男子に呼び止められる。
「あ、朝比奈。今日って委員会ある?」
「今日はないよ」
「そっか、じゃあ放課後プリント届けるの手伝ってもらえる?」
「え、あー……」
日和が一瞬だけ言葉に詰まる。
その一瞬が、俺には長く感じられた。
だが日和はすぐに笑って、
「ごめん、今日はたぶんちょっと無理かも」
とやんわり断った。
相手の男子も「あ、そっか、ごめん」とすぐ引き下がる。
それだけのやり取りだ。
ただ、それだけのことなのに、俺は心の中でわずかに息を吐いた。
断れた。
たったそれだけで少し安心している自分が馬鹿みたいだ。だが、原作の日和はこういう小さな“断れなさ”が積もっていった。今のこれは、その流れと少し違う。
ズレている。
原作通りじゃない。
そのことに安堵しながら、同時に少しだけ不安にもなる。ズレるということは、俺の知識が使えない場面が増えるということだからだ。
「朝比奈さん」
休み時間の終わり際、教室の入り口から担任が顔を出した。
「はい?」
「ちょっと職員室まで来てくれるか」
「えっ、私ですか?」
「この前のアンケートの件で確認したいことがある」
「わ、分かりました」
日和は慌てて立ち上がり、周囲に「すぐ戻るね」と軽く言って教室を出ていった。
その背中を見送りながら、俺は嫌な予感を覚える。
アンケート。確認。職員室。
原作の知識に、ぴたりと一致するイベントではない。だが、似たような“ちょっとした呼び出し”が、日和の疲労を増やす一因になっていたことは覚えている。
直接的な悪意なんてない。教師は教師で、頼みやすい生徒に頼んでいるだけだ。日和も、できる範囲で応えているだけだ。
誰も悪くない。
それが一番厄介なんだよ。
◇
二限目、三限目と授業は過ぎた。
昼休みが近づく頃、日和はようやく自席で小さく伸びをしていた。周囲から見れば、よくある仕草だろう。だが俺には、その伸びが“疲れた”ではなく“固まった”身体をほぐすためのものに見えた。
つまり、本人が思っているより疲労が溜まっている。
たぶん朝の職員室呼び出しだけじゃない。家のこともあるのだろう。そこまではまだ原作知識でも曖昧だった。ゲームのシナリオは、ヒロインの背景を都合よく切り取る。生活の細部までは描かない。だから現実になった今、そこは自分の目で見るしかない。
昼休み。教室がざわつき始める。
俺は鞄から昼食を取り出しながら、周囲の流れを確認する。今日は日和の机の上に、やたらと物が集まり始めていた。
「日和、これあとで返しといて」
「朝比奈さん、プリント一枚余ったんだけど」
「ねえこれ、どっちのクラスに出すんだっけ?」
やめろ。机を中継地点にするな。
俺が内心で毒づいている間も、日和は「はいはい」と笑って捌いていく。やっぱり器用だ。器用だから周りが甘える。
その中に、赤いペンが一本混じっていた。
何気ない文房具。けれど、それを見た瞬間、頭の中で引っかかるものがあった。
原作で、日和がひどく落ち込む小さなきっかけの一つ。提出物に入った赤い書き込みをめぐる誤解――。
いや、違うかもしれない。あれはもっと後のイベントだったはずだ。今ここで直結するとは限らない。
でも、放っておいていい根拠もない。
俺は立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
相馬が聞く。
「トイレ」
「雑」
「正直者だろ」
「いや嘘だろ今の」
無視して教室前方へ向かう。日和の机の横を通る時、わざとらしくなく周囲を見渡した。赤ペンはノートの下敷きになりかけている。このままだと誰の物か分からなくなって、あとで余計な行き違いを生む。
俺は自分の机の上からシャーペンを一本持ってきたふりをして、日和の机に近づいた。
「あ」
と、そこで日和が俺に気づく。
「どうしたの?」
「それ、落ちるぞ」
俺は赤ペンを指さした。
「え?」
日和が視線を落とす。その一瞬で、俺はペンを持ち上げて、机の端に置かれた筆箱の上に乗せた。
「……ほんとだ。危な」
「机の上、物多すぎ」
「うぅ、ごもっとも……」
日和が肩をすくめる。
そのやり取りを見ていた近くの女子が、「あ、それ私のだ!」と声を上げた。
「ごめん日和、さっき貸してそのままだった」
「あ、やっぱりそうだったんだ」
「御影くんありがとー」
「別に」
「その“別に”便利だね」
「便利じゃない」
笑いが起きる。
ほんの数秒の、どうでもいいやり取りだ。
でも、その“どうでもいい”を積み重ねることが重要だと俺は知っている。
日和が机の上を整理し直し始めたので、俺はそのまま教室後方へ戻ろうとして――途中で、廊下の外からこちらを見ている視線に気づいた。
黒瀬凛だった。
教室の入り口の脇に立ち、ファイルを片手にこちらを見ている。さっきまで委員会の用事でもしていたのかもしれない。表情は相変わらず読みにくい。
だが、その目には明らかに“観察”がある。
俺は小さく眉をひそめた。
凛はすぐには何も言わず、数秒後に教室へ入ってきて、自席へ向かう途中でぼそりと落とした。
「最近、ずいぶん親切なんですね」
「聞こえるように言うな」
「聞こえるように言いましたから」
「性格悪いな」
「あなたにだけは言われたくありません」
凛は自席に座りながら、こちらを見ずに続ける。
「でも、朝比奈さんはそういうところで無理をしがちですから」
思わず、俺は足を止めた。
「……分かってるのか」
「見ていれば分かります」
「ならお前が止めればいいだろ」
「言いましたよ、何度か」
凛はそこで初めて顔を上げた。
「でも、あの人は『大丈夫』って笑うんです」
その言葉は、妙に重く聞こえた。
たぶん凛も見ているのだ。日和の危うさを。けれど凛の正しさは、日和の“笑って受け流す強さ”とは噛み合いにくい。押せば押すほど、あいつは笑って「大丈夫」と言うだろう。
俺は小さく舌打ちしたくなるのを堪えた。
「……面倒だな」
「同感です」
「そこは否定しろよ」
「なぜです?」
「本人が聞いたら落ち込む」
「だから本人の前では言いません」
淡々と返す凛に、思わず少しだけ笑いそうになった。
だが、その瞬間に凛がこちらを見たので、すぐ真顔に戻す。
「何ですか」
「別に」
「それ、私の台詞です」
「流行ってるらしいぞ」
「誰の間でですか」
「さあな」
そこで会話は切れた。
くだらない。くだらないのに、少しだけ気が楽になった自分がいる。凛のような人間が日和の危うさに気づいているのは、悪いことではない。
もっとも、その凛が俺のことも警戒したままなのは相変わらずだが。
◇
放課後、教室は一日の疲れで少しだらけた空気に包まれていた。
部活へ行くやつ、帰り支度を急ぐやつ、掃除当番で文句を言っているやつ。そんな中で日和は、黒板横の提出物かごの前で小さく眉を寄せていた。
紙の束を数え、何かを確認している。
やっぱり残ってるのか、と思う。
こういうのは周りが気づく前に、自分で何とかしてしまうタイプだ。だから余計に周囲が甘える。
日和はちらっと教室内を見回したが、誰かに助けを求める様子はない。そのまま紙束を抱え直し、一人で職員室へ持っていこうとした。
無意識に足が動く。
「貸せ」
「えっ」
日和が振り返る。俺は彼女の持っている紙束の半分を有無を言わさず奪い取った。
「み、御影くん?」
「半分持つだけだ」
「いやでも、これ私の仕事……」
「全部落としたら二度手間だろ」
「落とさないよ?」
「今、腕ぷるぷるしてるけど」
「うそ」
「してる」
「えっ」
「してないけど」
一拍置いて言うと、日和はぽかんとして、それから吹き出した。
「何それ、ひど」
「笑う余裕あるなら行くぞ」
「あ、ちょ、待って」
結局、俺と日和は並んで教室を出た。
廊下を歩きながら、日和はまだ少し可笑しそうに笑っている。
「御影くんって、たまに変なこと言うよね」
「たまにじゃない」
「自覚あるんだ」
「お前も人のこと言えないだろ」
「えー、私そんな変?」
「変というか、無理してる」
言ってしまってから、自分で「しまった」と思う。
日和は足を止めかけた。
「……え?」
声は小さかった。
俺は前を向いたまま歩く。
「頼まれすぎ。引き受けすぎ。笑ってるけど疲れてる」
「……」
「別に、お前がどうしようと勝手だけど」
「その前置き、絶対いらないよね」
「うるさい」
俺は紙束を持ち直した。
「見てて危なっかしいだけだ」
沈黙が落ちる。
やばい。
これはやりすぎたかもしれない。距離感を間違えた。俺がこんなふうに踏み込む理由なんて、日和にはない。普通なら気味悪がられて終わりだ。
そう思ったのに、隣から返ってきたのは怒りでも困惑でもなく、少しだけ戸惑った笑いだった。
「……そっか」
日和は前を向いたまま言う。
「そう見えてたんだ、私」
「見えてる」
「御影くんに言われると、なんか不思議」
「どういう意味だよ」
「いや、冷たそうなのに見てるんだなって」
「冷たいだろ」
「ううん。たぶん違う」
その言葉に、胸の奥が嫌なふうにざわついた。
違うなよ、と思う。
違わないでくれ。俺はそういう役じゃない。そういう評価を受けるべきじゃない。
でも、そんな内心は当然伝わらない。
職員室前まで来ると、日和は紙束を受け取ってから小さく息を吐いた。
「ありがと」
「別に」
「出た、それ」
「便利だからな」
「認めた」
日和が笑う。
「でも、ちょっと気をつける」
「……」
「全部は無理かもだけど。ちょっとは」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
俺は返事に困り、結局「あっそ」とだけ言った。
それでも日和は怒らなかった。むしろ、どこか少しだけ嬉しそうに見えたのが問題だった。
◇
教室へ戻る途中、廊下の角を曲がったところで、俺は思わず足を止めた。
黒瀬凛がいた。
たまたまそこを通りかかっただけかもしれない。だが、タイミングが良すぎる。いや悪すぎる。
凛は俺を見ると、一瞬だけ目を細めた。
「職員室まで?」
「見れば分かるだろ」
「そうですね」
いつもの調子で返してくる。
そのくせ、次の言葉は少しだけ柔らかかった。
「朝比奈さん、一人で抱え込みやすいので」
「……さっきも聞いた」
「なら、分かっているんですね」
「お前もな」
「ええ」
凛はファイルを抱え直した。
「ただ、あなたがそこに首を突っ込むとは思っていませんでした」
「悪いか」
「悪くはありません」
そこでほんの少しだけ間が空く。
「でも、意外です」
「最近そればっか言われるな」
「あなたの普段の態度に問題があるのでは?」
「うるさい」
「反論できていません」
いつも通りのやり取り。
なのに、今日は妙に棘が少ない。
凛は俺の横を通り過ぎようとして、ふと立ち止まった。
「……朝比奈さんのこと」
「何だよ」
「見ている人は、あなた以外にもいますよ」
それだけ言って、凛は先に歩いていった。
その背中を見送りながら、俺はしばらく動けなかった。
見ている人は、他にもいる。
そうだ。俺だけじゃない。俺だけが世界の正体を知っているとしても、人の疲れや無理に気づく人間が他にいないわけじゃない。
それは少しだけ救いだった。
同時に、俺だけが特別だと思い上がるなと釘を刺されたようでもあった。
……いや、実際思い上がっていたつもりはないんだが。
ただ、誰も助けない未来を知っているから、つい“俺がやらなきゃいけない”と考えてしまうだけで。
教室へ戻ると、相馬がもう鞄を肩にかけていた。
「お、遅かったな」
「職員室」
「朝比奈と?」
「そうだけど」
「へえ」
相馬がにやっとする。
「へえ、じゃない」
「いやだってさ、お前、自分からそういうことするタイプじゃなかったじゃん」
「そう見えるだけだ」
「見えるだけでも珍しいんだよ」
それには返さず、机の中を確認するふりをする。
相馬はそんな俺を見て、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、まあ」
「何」
「朝比奈、今日ちょっと疲れてたよな」
俺は顔を上げる。
「……お前もそう思ったか」
「やっぱり?」
「別に。なんとなく」
「お前ら“なんとなく”で会話しすぎじゃね?」
言ってから相馬は笑った。
「ま、そういう日もあるよな。明日にはけろっとしてるかもしれんし」
「……」
「そういう顔すんなって。重い」
「してない」
「してるって」
否定しながら、自分でも分かっていた。
俺はたぶん、普通の“疲れてるかも”よりずっと重く受け取ってしまっている。未来を知っているから。壊れ方を知っているから。
それが、いいことなのか悪いことなのかは分からない。
◇
帰り道。駅へ向かう途中、夕方の風が少し冷たかった。
空はまだ明るい。商店街には学生や会社員が行き交い、パン屋から甘い匂いが流れてくる。こんな何でもない景色の中で、人の人生を左右するような決定的な何かが起きるわけではない。
起きるのは、もっと小さいことだ。
断れなかった頼みごと。
言えなかった弱音。
見逃された疲れ。
気づいていたのに、気づかないふりをした誰か。
そういうものの積み重ねで、人は壊れる。
駅前の信号で立ち止まった時、不意に後ろから声がした。
「あ」
振り返ると、日和だった。
友人と別れたところらしく、一人で鞄を抱えている。少し驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
「御影くんもこの時間なんだ」
「見りゃ分かるだろ」
「はいはい、その返しね」
日和は笑う。
昼間より少し疲れて見えるが、それでも笑っている。
信号待ちの間、沈黙が落ちた。
気まずいというほどではない。ただ、俺がこうして女子と並んで立つこと自体がまず珍しいので、妙な落ち着かなさがある。
日和がふと、前を向いたまま言った。
「さっきのこと」
「……」
「ありがとね」
「言っただろ、別に」
「うん。でも、ちゃんと言いたかったから」
信号が青に変わる。
人の波が動き始める中、日和は歩き出しながら続けた。
「なんかさ、私、たぶん自分で思ってるより“平気です”って顔するの得意みたい」
軽く言う。冗談めかすみたいに。
でも、その声は少しだけ本音に近かった。
「御影くんに言われるまで、気づかなかった」
「……そうか」
「だから、気をつける」
「全部抱えないように?」
「全部は無理でも、ちょっとは」
日和は俺を見て笑う。
「ほら、成長」
「自分で言うな」
「言うよ。褒めて」
「面倒くさいな」
「冷た」
「……偉いんじゃないか」
言った瞬間、日和が足を止めかけた。
しまった、と思った時には遅い。
「え、今のちょっとレアじゃない?」
「聞かなかったことにしろ」
「無理無理、録音したかった」
「してないだろ」
「心の中にした」
「気持ち悪い言い方やめろ」
「御影くんが言わせたんでしょ」
笑いながらそう言う日和の顔は、朝より少しだけ軽く見えた。
俺はそのことに安堵しながら、同時に不安になる。
こんなふうに、ほんの一言で変わるくらいなら。
原作の中で、あいつはどれだけ長く誰にも何も言われずに頑張っていたんだろう。
駅の改札前で、日和とは自然に別れる流れになった。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
「御影くん」
「何」
「……見ててくれてありがと」
それだけ言って、日和は改札の向こうへ消えた。
俺はその場でしばらく動けなかった。
見ててくれて、ありがと。
そんな言葉を、俺は本来もらう側じゃない。
御影悠真は、ヒロインを壊す側の男だ。少なくとも原作では。
でも今、朝比奈日和は間違いなく俺の方を見て、そう言った。
その事実が重い。
嬉しいとか、そういう単純な感情より先に、怖いと思った。
原作がズレていく。
日和の中の俺が、原作と違う形で更新されていく。
それ自体は悪いことじゃない。むしろ望んだ結果の一部のはずだ。
なのに怖い。
俺が知っている未来から、少しずつ外れていくことが。
駅へ向かう人の流れに紛れながら、俺は小さく息を吐いた。
「……まあ、でも」
朝比奈日和は、今日も笑っていた。
その笑顔の裏に少しだけ無理があることも、俺は見た。
なら、見てしまった以上は放っておけない。
たとえそれで原作がズレようが、俺の知識が当てにならなくなろうが、壊れるよりはましだ。
少なくとも、そう思うしかない。
改札を抜けながら、俺はスマホを取り出して時刻を確認する。
帰ったら、今日見たことを整理しよう。
日和は断れないわけじゃない。けれど断るまでに一拍ある。周囲はそれに気づいていない。凛は見ている。相馬も薄く気づいている。つまり、完全に一人ではない。
なら、救いようはある。
問題は、その輪の中に俺がどこまで入るべきかだ。
御影悠真として。原作のクズ役として。未来を知る、ただ一人として。
答えはまだ出ない。
けれど一つだけ確かなのは、朝比奈日和の笑顔を、今のまま“ただ明るいだけのもの”として見てはいけないということだった。
笑っているから平気、じゃない。
あいつは、笑っているからこそ危うい。




