第2話 感じの悪い奴は、まだ何もしていない
翌朝、目が覚めた瞬間に最初に浮かんだのは、目覚ましを止めなければという現実的な義務ではなく、白峰透子の横顔だった。
図書室の窓際で本を読んでいた姿。階段ですれ違ったときの、ほんの少しだけ意外そうな目。こちらを見ていながら、何も言わなかった静かな間。
そういうものが頭に残るのは、たぶん良くない。
俺は布団の中で眉を寄せ、鳴りかけていたスマホのアラームを止めた。
「……忘れろ」
言ってみるが、忘れられる程度のことなら最初から気にならない。
天井を見上げる。白い。見慣れた天井だ。前世のものではないし、この家に来てからの記憶の方がもう長い。なのに、ときどき自分の人生が借り物みたいに感じられる。
御影悠真の部屋。
整理されているが、妙に生活感が薄い。机、本棚、クローゼット、学校指定の鞄。必要なものは揃っているのに、持ち主の趣味や情熱が前面に出ていない部屋だ。前の悠真がそういう性格だったのか、俺が無意識に余計な色を足さないようにしているのか、今では自分でも分からない。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。朝日が窓から差し込み、街並みの輪郭を淡く照らした。
今日も天気がいい。
こういう日に限って、何かある。
根拠はない。ただの経験則だ。前世のゲーム知識というより、今の俺の性格がそう思わせるのかもしれない。平穏な日は信用できない。何もないように見える日は、とくに。
制服に袖を通して一階へ下りると、キッチンの方から味噌汁の匂いがした。
「おはよう、悠真くん」
穏やかな声がして、俺は無意識に肩の力を抜く。
御影理沙。義姉。年齢は二十歳。大学生で、家の空気の中でひとりだけ温度が違う人だ。
柔らかい茶色の髪を後ろで一つにまとめていて、エプロン姿のまま朝食の準備をしていた。いつ見ても、場の空気を乱さない人だと思う。目立つわけではない。だが、誰かが張り詰めていれば先に気づくし、何かを言わない方がいい時は黙っていられる。
「おはよう」
「今日はちゃんと起きられたのね」
「子供扱いしないで」
「この前、三回起こしても返事が曖昧だった人が何か言ってる」
返す言葉がなくて、俺は黙って椅子に座る。
理沙は少しだけ笑って、それ以上いじってこなかった。こういう距離の取り方がうまい。
テーブルには焼き魚、味噌汁、卵焼き。整った朝食だ。御影家は使用人がいないわけではないが、理沙は時々こうして自分で朝食を用意する。理由を聞いたことはない。聞かなくても、なんとなく分かる。こういう“普通”を家の中に残したいのだろう。
「学校、どう?」
「どうって」
「楽しい?」
「急だな」
「たまにはそういうことも聞きたくなるの」
箸を持つ手が少しだけ止まる。
楽しい、か。
学園生活そのものが嫌いなわけではない。前世で一度終わった人生を経て、こうしてまた高校に通っていることに、不思議な感慨がないわけでもない。教室のざわめきとか、購買のパン争奪戦とか、小テストへの文句とか、そういう小さいものは案外嫌いじゃない。
ただ、俺にはそれを素直に楽しむ権利があるのか、よく分からないだけだ。
「普通」
「それ、楽しくない時の言い方じゃない?」
「普通は普通だよ」
「ふうん」
理沙はそこで追及しなかった。
沈黙が落ちる。重くはない。味噌汁をすする音がするくらいの、静かな朝食の時間だ。
「昨日、帰り少し遅かったでしょう」
理沙がふと思い出したように言う。
「寄り道」
「図書室?」
「……なんで」
「本の匂いしたから」
「そんなので分かるのかよ」
「私は分かるよ」
それは本当なのか、からかわれているのか。たぶん半分ずつだ。
この人は時々、妙に鋭い。
「別に、ただ寄っただけ」
「そう」
返事はそれだけだった。
けれど、その“そう”には、余計なことは聞かないという線引きが含まれているように思える。理沙は、俺が“前の俺”と違うことに、おそらくかなり前から気づいている。完全な確信ではなくても、違和感くらいは抱いているはずだ。
でも聞かない。
踏み込めば壊れるものがあると知っている人間の沈黙だ。
「お父様、今日は朝早く出たから」
「そう」
「夜も遅いかもって」
「別に困らない」
理沙は少しだけ困ったような顔をしたが、そこも何も言わなかった。
父の話題は、家の空気を少しだけ硬くする。
御影家の当主であり、俺の父。厳格で、無駄がなくて、感情を表に出さない人。少なくとも表面上は、息子に対して関心が薄いように見える。だがその薄さが、本当に無関心から来ているのか、それとも別のものなのかは、今の俺にもまだ判断しきれていない。
前の悠真がどう思っていたかは分からない。
今の俺は、必要以上に近づく気はない。ただ、それだけだ。
朝食を食べ終え、鞄を肩にかけて玄関へ向かうと、理沙が後ろから声をかけた。
「いってらっしゃい、悠真くん」
「……行ってきます」
その一言を返すのに、わずかに間が空く。
“行ってきます”なんて言葉が、自分の中でまだ少し借り物みたいに感じる時がある。けれど言う。言わなければならないというより、言いたいと思うからだ。
玄関の扉を閉め、朝の光の中へ出た。
◇
教室に入った瞬間に、今日の空気は昨日と少し違うと分かった。
何か大きな事件があったわけじゃない。そんな劇的なものではない。けれど、朝の雑談の温度や視線の流れは、案外はっきり変わる。
昨日の昼休みに日和のプリントを支えた、それだけのこと。
たぶんそれが、思ったより見られていた。
「あ、御影くんおはよー」
教室前方で誰かが軽く声をかけてきた。女子の一人だ。名前は知っているが、特別親しいわけではない。昨日までなら、わざわざ向こうから俺に挨拶してくることは少なかった。
「……おはよう」
返した途端、近くの席で小さく笑いが漏れる。
「なにその間」
「いや、ちゃんと返すんだって思って」
「失礼すぎない?」
そんなやり取りが耳に入る。
俺は少しだけうんざりした。
たった一つ行動を見られただけで、印象は簡単に揺れる。人は噂や空気で他人を判断するくせに、その空気が少し変わると今度はそちらへ流れる。
別に、悪いことじゃない。
ただ、面倒だ。
「お前、昨日なんかした?」
席に着くなり相馬が前から振り返ってきた。
「なんかって何だよ」
「いや、教室の空気がほんのり“御影も人間だったんだな”みたいな感じになってる」
「意味不明すぎる」
「昨日、朝比奈のプリント拾っただけだろ?」
「拾ってない。落ちる前に支えただけ」
「細かいな」
「事実は大事だろ」
「黒瀬みたいなこと言うじゃん」
その名前に、俺は無意識に教室の後ろを見た。
黒瀬凛はすでに席についていた。今朝もきっちりした姿勢で、連絡帳に目を通している。こちらの会話が聞こえたかどうかは分からないが、少なくとも一度は視線を寄越していた。
相変わらず、警戒の目だ。
だが、昨日までの“最初から決めつけている目”と少し違う気もする。ほんのわずかだが、観察の割合が増えている。
それはそれで厄介だった。
「なあ御影」
「何だよ」
「お前ってさ、意外と良いやつ?」
「朝から気持ち悪いこと言うな」
「即否定されると俺が傷つくんだけど」
「知るか」
「ほらそういうとこだぞ」
相馬が笑いながら言う。
こうやって軽口を叩いてくるのは、たぶん俺が完全に嫌われているわけではない証拠だ。相馬は面白がっているだけに見えて、空気の流れを読むのが上手い。今この教室で俺に一番自然に話しかけられる立場にいるのは、自分だと分かっているような節がある。
教室の前方では、朝比奈日和が友人たちと話しながら笑っていた。昨日と変わらない明るさだ。けれど、誰かに何かを渡して戻る時、一瞬だけ俺の方を見る。その目は昨日より少しだけ柔らかい。
やめろ、と思う。
変に認識を改めるな。俺はそういう役じゃない。
だけど、そう思う俺の都合と、他人が俺をどう見るかは関係がない。
日和は友達に何か言われて笑って、それからこちらに小さく会釈をした。たぶん昨日の礼の続きみたいなものだ。俺も、反射的にほんの少しだけ顎を引いた。
それを横から見ていた相馬が、にやっとする。
「お?」
「何だよ」
「いやべつにー」
「殴るぞ」
「怖っ」
相馬がわざとらしく肩をすくめる。
その直後、チャイムが鳴って担任が入ってきたので、会話はそこで切れた。
朝のホームルーム。連絡事項。提出物。今日の予定。
どれもいつも通りだ。けれど俺は、担任の言葉を半分だけ聞き流しながら、教室の空気の細部を見ていた。
誰がどの席で誰と話すか。どのタイミングで誰が立つか。誰の机に何が置かれているか。小さな癖の積み重ね。それを記録するように、無意識に頭に入れていく。
前世のゲームに選択肢はあった。
でも現実には、選択肢なんて表示されない。
ただ、今この瞬間の“ほんの少しの違い”が、あとで誰かの人生を大きく曲げることがある。だから俺は、あまり人に気づかれない範囲で、細部を見続けるしかない。
午前一限は現代文だった。教科書の本文を順番に読み上げていく形式で、クラスの空気が眠気に支配され始める時間帯でもある。
教師に指名され、日和が席を立って朗読を始めた。
声が通る。抑揚も自然で、聞いていて引っかからない。こういうところでも彼女は“ちゃんとしている”。誰かに頼まれればたいていのことを、それなり以上にこなしてしまう人間だ。
問題は、そういう人間ほど周囲が遠慮をなくしていくことだ。
朗読が終わり、彼女が席に戻る。友人が小さく「さすが」と囁いていて、日和は苦笑いで肩をすくめた。
その笑い方が、ほんの一瞬だけ疲れて見えた。
ごく小さな変化だ。教室の大半は気づかない。気づいても、深い意味なんて考えない。
でも、俺は見てしまう。
見てしまうから、無視するためにもまず確認してしまう。人は限界に近づくと、ほんの数秒だけ表情の端に本音が出ることがある。その数秒を見つけてしまうと、あとで知らないふりが難しくなる。
最悪だ。
俺の性格が、という意味で。
二限、三限と授業は進み、昼が近づくにつれて教室の緊張は緩んでいった。
休み時間。相馬が隣の席の女子からシャーペンを借りていて、その流れで何人かが雑談の輪を作っている。日和はその中心で明るく笑っている。凛は自席でノートを整理していたが、途中で風紀委員関係の用事を頼まれ、少し不機嫌そうに席を立った。
凛のああいう顔は、慣れていない人間からすると怖く見えるだろう。
だが、ただ苛立っているだけだ。面倒な雑務を押しつけられたことに。それでも断らずに引き受けるあたり、性格が出ている。
「御影くんって、案外ちゃんとしてるんだね」
不意にそんな声をかけられて、俺は顔を上げた。昨日挨拶してきた女子が、友人と一緒にこちらを見ていた。
「……何の話」
「ほら、課題とかちゃんとやるし」
「それは普通だろ」
「いや、見た目がさ」
「見た目で話すな」
「ほらー、そういう返しがもうちょっと柔らかければいいのに」
「無理難題だな」
自分でも驚くくらい素直に返してしまったせいか、彼女たちは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「やっぱりちゃんと喋れるんじゃん」
「喋ってるだろ普段から」
「会話になってない時が多い」
「それは相手の問題かもしれない」
「出た」
「何その言い方」
「御影くん節?」
なんだそれ。
俺がうっすら顔をしかめると、相馬が横から噴き出した。
「御影くん節は笑うわ」
「お前も黙れ」
「いやあ、今日平和だなあ」
平和。
その言葉に、俺は胸の内でだけ同意した。
今のところは、確かに。
昼休み。今日は購買へは行かず、家から持ってきた簡単な昼食で済ませるつもりだった。鞄から包みを取り出し、机の上に置く。
その時、教室の出入口の方で小さな声がした。
「あ、ごめん、誰かこのプリント職員室に――」
担任に呼ばれたらしい日和が、またしても雑務を任されている。本人は嫌な顔をしない。しないから、周囲も深く考えず頼る。
友人の一人が「私行こうか?」と口にしたが、その前に別のグループから声がかかって、話は流れた。日和は「大丈夫、ついでだから」と笑ってプリントを受け取る。
俺は黙ってそれを見ていた。
大丈夫なわけがない、とは思わない。たった一回の用事だ。それだけなら問題はない。
問題は、“こういうのを断らない人”という認識が作られていくことだ。
今はまだ、小さい。けれど蓄積は始まっている。
日和が教室を出て行き、その少しあとで凛が戻ってきた。入れ違いに近いタイミングだったせいか、彼女は無意識に出入口の方を目で追い、それから教室内を見渡した。
誰が何をしているかを、瞬時に把握する目だ。
その視線が、俺の上でほんの一瞬止まる。
「何だよ」
思わず小さく言うと、凛は眉をひそめた。
「別に」
「なら見るな」
「見ていたのはあなたの方でしょう」
「……」
いや、その通りだが。
凛はそれ以上言わず、自分の席に戻っていった。相変わらず可愛げがない。だが、その言い方に昨日ほどの刺々しさはない気もした。
俺の方が、彼女の変化に敏感になっているだけかもしれないが。
昼食を終えたあと、俺は教室を出た。向かうのは購買でも自販機でもなく、廊下の掲示板だ。
昨日見た張り紙の位置が、やはり少し気になっていた。
西棟へ続く渡り廊下の手前。委員会連絡、部活動募集、校内行事の日程一覧、その下に小さな落とし物の紙。昨日と比べて、配置が妙に整いすぎている。
俺は立ち止まり、何気ない顔で掲示板を見る。
端の画鋲が一つ新しい。紙の重なり順が昨日と違う。昨日の時点で違和感があった左下のプリントは、今日はさらに位置が変わっていた。
誰かが貼り直したのだろう。別に珍しいことではない。
だが、記憶の中ではこの時期、この掲示板に貼られたある連絡用紙の位置が、後でちょっとした行き違いの原因になったはずだ。
……はず、だ。
俺はここで自分の記憶をそのまま信じるほど愚かではない。前世の俺はゲームを繰り返しプレイしていたが、全ての背景を一字一句覚えているわけではない。しかも画面越しの情報と現実の情報量は違う。
だから、今見るべきなのは“原作通りかどうか”ではなく、“小さなズレがどう人に影響するか”だ。
掲示板の前を通り過ぎようとした時、後ろから軽い足音が近づいた。
「あれ、御影くんもここ見るんだ」
振り返ると、日和だった。さっき職員室へ行っていたはずだが、戻ってきたらしい。手には空になったクリアファイルがある。
「別に、たまたま」
「ふーん」
日和は俺の隣に立って掲示板を見上げた。香水ではない、柔らかいシャンプーの匂いが少しだけする。
「部活でも探してるの?」
「入る気ない」
「即答だね」
「そっちは?」
「私は見るだけ。友達が吹奏楽部どうしようかなって言ってたから」
「朝比奈が入るわけじゃないんだ」
「うん。今でもけっこう手一杯だし」
最後の一言は、たぶん彼女の本音だった。
言った本人も、それほど重い意味で言ったわけではないのだろう。だが俺には引っかかる。
「……なら、あんまり抱えすぎんなよ」
口から出ていた。
言ってから、内心で頭を抱える。
何をしてるんだ俺は。
日和はきょとんとしてから、少しだけ目を丸くした。
「え」
「いや、別に……お前、頼まれると断らなそうだから」
「それって心配してくれてる?」
「してない」
「してる言い方だったけど」
「気のせいだろ」
日和はふっと笑った。からかうような笑いではなく、少しだけ柔らかい笑みだ。
「じゃあ、気のせいってことにしとく」
「そうしろ」
「でもありがと」
礼を言われる理由はない、と言い返す前に、彼女は「じゃ、戻るね」と軽く手を振って教室の方へ走っていった。
その背中を見送りながら、俺は深くため息をつく。
距離を取る。関わらない。目立たない。
そのために何度も自分に言い聞かせてきたくせに、気づけば余計な一言を足している。
最悪だ。
だが、もっと最悪なのは――そのやり取りの一部始終を、少し離れたところで黒瀬凛に見られていたことだった。
「……」
廊下の向こう、教室へ戻る途中だったのだろう。凛は手に委員会用のファイルを持ったまま、こちらを見ていた。
表情は読みにくい。
怒っているわけではない。呆れているわけでもない。ただ、観察している。昨日より一段深く。
俺は顔をしかめた。
「何だよ」
「別に」
「その返し流行ってんのか」
「あなたが朝比奈さんにまで妙なことを言う人だとは思わなかっただけ」
「妙なことって何だ」
「自覚がないならいいです」
言うだけ言って、凛はすたすたと歩き去る。
なんだそれ。
だが、言葉の棘は以前より弱い。代わりに、妙な引っかかりを残していく言い方だった。
午後の授業は平穏だった。平穏すぎて逆に怖いくらいだ。
小テストがあり、相馬が撃沈し、教師に軽く叱られ、教室の後ろで誰かが笑いを堪えている。日和はその空気を和らげ、凛は配布物をきっちり回収し、俺は静かに答案を書いた。
表面だけ見れば、ただの高校生の日常。
だが、俺には分かる。
こういう日の積み重ねの中にしか、人の評価は育たない。
そして評価は、いずれ誰かを守りもするし、傷つけもする。
放課後になると、教室はまた帰宅や部活の準備でざわつき始めた。俺は今日も少し校内を見て回るつもりだった。昨日図書室で一つ導線を潰したが、それで安心できるほど甘くない。
鞄を肩にかけ、教室を出ようとした時、相馬がついてきた。
「お前さ」
「何」
「最近、なんか見てるよな」
「何を」
「いろいろ」
「雑すぎる」
「いや、ほんとに。教室の中とか掲示板とか、誰が何してるとか」
「お前は人のこと見すぎだろ」
「俺は観察力があるんだよ」
得意げに言われても困る。
「別に、気になるだけだ」
「何が?」
「……いろいろ」
「お前も雑じゃん」
相馬が笑う。
階段まで来たところで、相馬はふと足を止めた。
「まあでもさ」
「ん?」
「お前、感じ悪いだけで、まだ何もしてないんだよな」
唐突な言葉だった。
俺は思わず相馬を見る。
相馬は冗談めかした顔をしていたが、目は少しだけ真面目だった。
「何の話だよ」
「いや、なんかたまにそういう空気あるじゃん。御影はやばいとか、近づかない方がいいとか」
「……」
「でも、実際に何されたって話、俺あんま聞いたことなくて」
「それは」
言葉が詰まる。
それは、まだ何も起きていないからだ。
起きる前に俺が止めようとしているからだ。
だが、そんなことは言えない。
相馬は俺の沈黙をどう受け取ったのか、肩をすくめた。
「ま、だからこそ変なんだけど」
「変で悪かったな」
「悪いとは言ってねえよ。むしろ面白い」
「最低だなお前」
「褒め言葉だろ」
そんなことを言いながら、相馬は先に階段を下りていく。
俺はその背中を見送り、少しだけその場に立ち尽くした。
――感じの悪い奴は、まだ何もしていない。
その言葉は、思ったより深く胸に刺さった。
確かに今の俺は、まだ何もしていない。
少なくとも表向きには。
だが原作の“御影悠真”は違う。これから少しずつ、何気ない形で他人を追い詰めていく。その土台はもうあちこちにある。家の力、周囲の先入観、本人の態度、誤解されやすさ。全部、揃っている。
だからこそ、まだ、なのだ。
まだ何もしていない。
裏を返せば、まだ間に合う。
俺は深く息を吐いて、階段を下りた。
今日は図書室には寄らず、校舎の裏手にある倉庫前を通る。原作ではこのあたりで、部活の備品管理の不備が遠回りに一人のヒロインの立場を悪くするきっかけになった。直接ではなく、本当に遠回りに。だから見落としやすい。
倉庫前にはまだ誰もいない。鍵の管理簿は壁際の棚に置かれたまま。必要以上に目立たないよう、それだけ確認して通り過ぎる。
渡り廊下を歩き、西棟の階段へ向かう。
途中、ガラス窓越しに中庭が見えた。ベンチに座って本を開いている後ろ姿がある。
白峰透子だ。
今日は図書室ではなく、外の静かな場所を選んだらしい。春の風に髪が少し揺れている。周囲には誰もいない。遠目からでも、彼女がその場の空気と少しだけ距離を置いているのが分かる。
原作では、こういう“ひとりでいられる場所”が、いつの間にか“ひとりでしかいられない場所”に変わっていった。
俺は窓越しにその姿を見つめ、すぐに視線を逸らした。
見ているだけじゃ意味がない。けれど、下手に近づくのも違う。
今はまだ、その時じゃない。
下校時間が近づくにつれ、校内の人の流れは少しずつ細くなる。俺はひと通り見て回ったあと、正門へ向かおうとして――途中で足を止めた。
昇降口脇の掲示板に、朝にはなかった紙が一枚増えている。
委員会からの連絡。短い文面。紙自体はどうでもいい。
ただ、その位置が悪い。
ほかの連絡を半分隠すように貼られている。見落とす生徒が出る。見落としから、小さな伝達ミスが起きる。たかがそれだけのことだ。だが、たかがそれだけが積み重なるのがこの世界の厄介なところだった。
「……くそ」
誰にも聞こえない声で呟いて、俺は近くにあった画鋲を一つ手に取る。紙の端を少し持ち上げて、下の連絡が見えるよう位置をずらす。
たったそれだけ。
誰も気づかない程度の修正。
「何してるんですか」
背後から声がして、俺は思わず振り返った。
黒瀬凛が立っていた。
風紀委員の腕章をつけたまま、ファイルを抱えている。ちょうど委員会帰りなのだろう。夕方の光のせいか、表情の影がいつもより少しだけ濃く見えた。
「……連絡が見づらかったから直しただけだ」
「あなたが?」
「悪いかよ」
「悪くはないです」
凛は掲示板に目を向け、それから俺を見た。
「ただ、そういうことをする人には見えなかったので」
「見た目で判断するな」
「今日はそれ、よく言いますね」
「お前らが見た目で判断しすぎなんだよ」
少し強めに返すと、凛は一瞬だけ黙った。
言い過ぎたかと思ったが、次の瞬間、彼女はほんのわずかに視線を伏せた。
「……それは、そうかもしれません」
予想外の返答に、今度は俺の方が言葉を失う。
凛はそんな俺を見て、わずかに眉を寄せた。
「何ですか、その顔」
「いや、お前が素直に認めるとは思わなくて」
「認めるべきところは認めます」
「へえ」
「その代わり、怪しいと思うところは怪しいままですけど」
「結局それか」
「当然です」
凛はそう言ってファイルを抱え直した。
「でも」
「でも?」
「起きる前に終わるなら、それに越したことはないと思います」
昨日、俺が言った言葉だ。
起きないなら、それでいいだろ。
彼女はそれを覚えていたのか。
俺が黙っていると、凛はそれ以上何も言わずに歩き出した。数歩進んだところで足を止め、振り返りもせずに一言だけ落とす。
「まだ、信用はしていませんから」
そのまま去っていく背中を見送って、俺はひとり取り残された。
まったく、面倒な女だ。
そう思うのに、不快感だけでは終わらない。
凛のああいうところは、原作の中でも好きだった。感情に流されず、けれど正しさの中に人を置き去りにしないようもがいていたところが。
……いや、今はそういう話じゃない。
俺は掲示板をもう一度確認して、昇降口を出た。
外は夕方の光に染まり始めている。校門へ続く道の先には帰宅する生徒たちの背中が見えた。笑いながら歩く者、部活の話をする者、スマホを見ながら足を進める者。
何でもない放課後だ。
ただ、その“何でもない”を保つために、俺は今日もいくつか小さな位置を直した。誰にも感謝されない程度の、本当に些細な修正だ。
それでいい。
目立つ必要はない。理解される必要もない。
――そう思っていたのに。
「御影くん」
校門の少し手前で呼ばれ、足を止める。
振り返ると、朝比奈日和が小走りで追いついてくるところだった。頬が少し赤い。走ってきたせいか、それとも夕日のせいか。
「何」
「いや、何ってほどじゃないんだけど」
「なら呼ぶなよ」
「その言い方さあ……」
日和は肩で少し息をしながら、でも笑った。
「今日、昼に言ってくれたこと」
「……」
「あれ、ちょっと嬉しかった」
「気のせいってことにしとけって言っただろ」
「うん。でも、それでも嬉しかったから」
まっすぐ言う。
そういうところだ。だから危うい。だから放っておけない。だからこそ、余計に近づくべきじゃない。
俺は視線を逸らした。
「……そうかよ」
「うん。じゃ、それだけ」
日和はそれだけ言うと、今度こそ本当に満足したように手を振って友人たちの方へ戻っていった。
夕焼けの中、その背中は軽かった。
たぶん、彼女にとっては本当にささやかなやり取りだろう。今日あった小さな出来事の一つに過ぎない。
だが、俺には分かる。
そういう小さなやり取りが、人の認識を変える。
変えてしまう。
校門を出たところで、ふと振り返った。
校舎の二階、夕日に染まる窓の向こうに、人影が一つ見える。距離がありすぎて顔は分からない。けれど、なんとなくあれが白峰透子のような気がした。
見ていたのか。たまたまそこにいただけなのか。
分からない。
分からないままでいいことが、この世界には多すぎる。
俺は前を向き、家路についた。
感じの悪い奴は、まだ何もしていない。
相馬の言葉が、また頭をよぎる。
その通りだ。
まだ、何も。
だからこそ、ここから先を間違えないようにしなければならない。
俺が何かをする前に。
俺が“御影悠真”として誰かを傷つける側へ転がっていく前に。
先に全部、潰してやる。




