第35話 篠宮美澄は、“朝比奈日和の優しさ”を試すように受け取る
朝比奈日和の優しさは、たぶん手触りが柔らかい。
だから人が寄ってくる。
強く引っ張るわけじゃない。
大げさに励ますわけでもない。
ただ、相手が少しだけ楽な方へ歩けるように、自然に一歩ぶんの場所を空ける。
それができる人間は、教室では貴重だ。
同時に、とても危うい。
優しさは便利だからだ。
便利なものは、使われる。
そして使う側がそれを自覚している時ほど、面倒なことになる。
水曜の朝、教室へ入った時点で、俺はもう嫌な予感しかしなかった。
篠宮美澄が来て三日目。
クラスの空気は、すでに“戻ってきた子”を見慣れ始めている。
最初の遠慮は薄れ、今はもう“どこまで普通に接していいか”を測る段階だ。
そうなると、次に起きることはだいたい決まっている。
誰かが、美澄を日常の輪の中へ入れようとする。
そして、その誰かに一番向いているのは朝比奈日和だ。
「おはよ、御影くん」
案の定、前方から飛んできた声に、俺は鞄を置きながら短く返す。
「……おはよう」
「今日は間ふつう」
「だから何の計測だよ」
「私の中の」
「雑だな」
日和が笑う。
その笑い方は、最近のあいつらしい。明るいまま、でも昔より少しだけ自分の感情が混ざるようになった笑い方だ。
そのすぐ近くで、美澄が席に着きながらこちらを見ていた。
じっとではない。
流すように、でもきちんと見る。
昨日までよりさらに自然で、だからこそ厄介だった。
「御影」
横から凛が来る。
「何」
「朝の提出、今日こそ出してください」
「今日こそって何だよ」
「昨日、締切直前でした」
「出しただろ」
「そういう問題ではありません」
凛は淡々とそう言って、ほんの少しだけ視線を前へやった。
「篠宮さん、今日は朝比奈さんへ寄ると思います」
やっぱりそう見えるか。
「根拠は」
「昨日の昼休みと放課後」
凛は即答する。
「朝比奈さんの方が、篠宮さんを受ける温度が高い」
「……」
「それに篠宮さんも、それを分かった上で近づいています」
理屈としては正しい。
正しいから余計に嫌だ。
「お前、ほんとに見てるな」
「御影にだけは言われたくありません」
それはまあ、そうかもしれない。
◇
一限目の途中までは、何も起きなかった。
美澄は静かに授業を受けている。
日和はいつも通り前方で小さく友人とやり取りし、相馬は教師に当てられないぎりぎりの顔でノートを取っている。
凛は背筋を伸ばし、必要以上に動かない。
いつも通りだ。
いつも通りの中で、でも俺だけが“まだ何も起きていないこと”に落ち着かなかった。
そして休み時間になった瞬間、やっぱり動いた。
「朝比奈さん」
美澄が自席から少しだけ身を乗り出す。
「ん?」
日和が振り向く。
その返しの速さがもう危うい。
「昨日の、去年の文化祭の話なんだけど」
「ああ、うん」
「もし迷惑じゃなかったら、少しだけ聞いてもいい?」
静かな言い方だった。
頼っているふうにも見える。
でも重すぎない。
絶妙だ。
日和は一瞬も迷わず笑った。
「全然いいよ」
ほらな。
凛が机の上でペンを持ち直す。
相馬は後ろから、あー、という顔をしている。
俺はもう嫌な予感しかしない。
「去年って、朝比奈さん何やってたの?」
「私は、わりと何でもって感じだったかな。企画の人手足りない時に入ったり、準備の買い出し行ったり」
「すごいね」
「いや、でも去年はほんとグダグダで」
日和は苦笑した。
「誰が何やるか曖昧な時期とか、結構大変だった」
「そういうの、朝比奈さんがまとめてたの?」
「まとめるっていうより……」
日和は少しだけ言葉を探す。
「空いてるとこに入ってた感じ?」
「なるほど」
美澄が小さく頷く。
その頷き方が、妙に静かで嫌だった。
理解した、というより。
拾った、に近い。
日和の優しさの形。
曖昧な場所へ自分から入ってしまう癖。
空いているところを埋める動き方。
たった数分の会話で、そこまで拾える相手なのだ。篠宮美澄は。
「でも」
美澄が続ける。
「そういう人がいると、周りって助かるよね」
「まあ、助かってはいたと思う」
「うん。でも」
一拍置いて、美澄は言う。
「慣れられすぎると、ちょっと危ない」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まった気がした。
日和の笑顔も、一瞬だけ静止する。
やっぱりそこへ触れるか。
ただ褒めない。
ただ頼らない。
ちゃんと“危うさ”まで拾って見せる。
それは日和みたいな人間にとって、一番引っかかる言葉だ。
「……そうだね」
日和は小さく頷いた。
「最近、ちょっとそれ分かるようになってきた」
「えらいね」
美澄はほんの少しだけ笑う。
「気づけるの」
「いや、えらいっていうほどじゃ」
「ううん」
美澄は首を振った。
「そういうのって、自分では案外分かりにくいから」
その言い方がうまい。
日和の中で、“この子は分かってくれるかもしれない”という位置を取るのが早すぎる。
「御影」
相馬が小声で呼ぶ。
「何」
「篠宮、だいぶ上手くね?」
「……」
「こういうの、朝比奈が一番引っかかるやつだろ」
やっぱりお前もそこまで見えるか。
「黙ってろ」
「でも図星じゃん」
図星だよ。最悪なことにな。
◇
二限目のあと、日和は美澄と一緒にプリントの確認をしていた。
ただ並んで立っているだけだ。
それなのに、周囲の空気が少し変わる。
“朝比奈さんが面倒見てる”
“篠宮さんも馴染み始めた”
そういう、誰も口にしない認識がもう薄く広がっている。
そして、その認識は次の負担を呼ぶ。
「朝比奈さん、これも分かる?」
「んー、たぶんこっちだと思う」
「ありがと」
「ううん」
そのやり取りを見て、俺は小さく眉を寄せた。
日和は以前より線を引けるようになった。
それは本当だ。
でも、“分からないことを聞かれる”くらいの頼られ方にはまだ弱い。
しかも相手が美澄みたいに、静かで、少しだけ頼り方がうまいタイプだと、なおさらだ。
「御影」
今度は凛が低い声で呼ぶ。
「何」
「朝比奈さん、もう半歩入っています」
「分かってる」
「止めないんですか」
「止められるかよ」
凛は少しだけ黙る。
「……そうですね」
「お前、何かあるなら言え」
「あります」
「何だ」
「私は、篠宮さんが“朝比奈さんを助けてほしい人”として見ていないと思います」
その一言に、息が詰まる。
「どういう意味だ」
「朝比奈さんの優しさを、たぶん最初から資質として見ています」
資質。
つまり、美澄にとって日和は“たまたま親切な子”ではない。
“使える優しさを持っている人”として認識され始めている、ということか。
嫌すぎる。
だが、凛の見立ては正確だと思う。
「お前、最近ほんと容赦ないな」
「御影が嫌がりそうな言い方だとは思います」
「思うならやめろ」
「でも事実だと思うので」
そこだけはぶれないんだな。
◇
昼休み。
俺は教室から出るつもりで立ち上がった。
だが、その前に日和がこっちへ寄ってきた。
「御影くん」
「何」
「今日、図書室行く?」
そこを聞くな。
美澄が、ほんの少しだけこちらを見た。
視線だけ。
でも十分だった。
「行かない」
短く答えると、日和は少しだけ首を傾げる。
「そっか」
「何だよ」
「いや、最近わりと行ってるから」
やめてくれ。
その情報をそこで出すな。
「たまたまだ」
「うん、分かった」
日和はそれ以上言わなかったが、今の会話だけで美澄の中の情報は増えたはずだ。
御影悠真は、図書室へ行く。
日和はそれを知っている。
つまり日和と俺は、そういう“知っていて当然”くらいには会話する関係に見える。
最悪だ。
そして美澄はそういう断片を、一つずつ積んでいくタイプだ。
「朝比奈さん」
美澄が静かに呼ぶ。
「お昼、一緒でいい?」
自然すぎる声だった。
日和は少しだけ俺の方を見た。
ほんの一瞬。
たぶん、さっきの俺の反応を思い出している。
そこで日和は、前より少しだけゆっくり答えた。
「うん、いいよ」
その間が、今の日和らしかった。
前ならもっとすぐだった。
今は少し考える。
少し見る。
それが救いだ。
美澄はその小さな間にも、たぶん気づいている。
でも、それでも“いいよ”が返ってくることの方を優先した。
そこもまた、かなり嫌だった。
◇
俺は結局、昼休みの半分を教室で過ごした。
出ていくと、逆に目立つ気がしたからだ。
残ったところで楽ではない。
日和と美澄の会話が視界の端に入り続ける。
「朝比奈さんって、いろんな人から頼られるよね」
「そうかな」
「そう見える」
「んー……どうだろ」
「嫌じゃない?」
「嫌っていうか」
日和は少し考えてから言う。
「前は、あんまり考えてなかったかも」
そこか。
美澄は小さく頷く。
「今は考えるんだ」
「うん。ちょっとだけ」
「きっかけあった?」
直球だな。
日和はそこで少しだけ迷った。
そして、迷ったあとで、曖昧に笑う。
「まあ、いろいろ」
そこは言わなかったか。
よかった、と思う一方で、美澄にはそれで十分だとも分かる。
きっかけがある。
それも“いろいろ”ではなく、たぶん一人か二人の影響だ。
そこまで読まれる。
相馬がまた小声で言う。
「篠宮、質問の刺し方が地味にえぐいな」
「お前も見てるな」
「見えるだろ普通に」
相馬はパンをかじりながら続ける。
「でも朝比奈、今日はちょっと考えて返してるな」
それも分かる。
日和は変わった。
それはたしかだ。
問題は、その“変わり始めた柔らかいところ”を、美澄が最初に触りに来ていることだった。
◇
放課後、教室の空気が下校へ向かい始める頃、美澄は日和に「今日はありがとう」とだけ言って席を立った。
重くない。
軽すぎもしない。
絶妙な温度だ。
日和がそれに「ううん、また分かんないことあったら聞いて」と返しそうになった瞬間、ほんの少しだけ言葉を止める。
その一拍を、俺は見た。
凛もたぶん見ている。
日和は結局、こう言い直した。
「私で分かることなら、また言って」
変わったな、と思う。
以前のあいつなら、もっと無条件に扉を開いていただろう。
今は少しだけ条件をつける。
ほんの小さな条件だ。
でも、その差は大きい。
美澄はその言い換えにも気づいたはずだ。
気づいた上で、何も言わずに笑った。
やっぱり厄介だ。
「御影」
凛が帰り支度をしながら呼ぶ。
「何」
「朝比奈さん、ちゃんと止まりましたね」
「……ああ」
「完全ではないですけど」
「でも前よりはましだ」
「そうですね」
凛は少しだけ息を吐く。
「篠宮さんも、それを確認した顔をしていました」
「やめろ」
「事実です」
ほんと、そこだけはぶれない。
「でも」
凛はファイルを鞄にしまいながら続ける。
「今日は、朝比奈さんがただ触られただけではなかったと思います」
「何が言いたい」
「朝比奈さんも、ちゃんと見始めています」
その言葉に、少しだけ気が楽になる。
そうだ。
日和はもう、ただ優しいだけじゃない。
見られる側だった人間が、少しずつ見る側へ回っている。
まだ危うい。
でも、前とは違う。
「……なら、まだましか」
「ええ」
凛は小さく頷いた。
「その“まだ”が大事だと思います」
ほんと、嫌なほど的確だな。
◇
帰り道、スマホのメモを開く。
美澄:日和へ本格接触。優しさの構造を把握しにきている。
質問の方向は“助ける側の危うさ”。
日和:即流されず、一拍置く。小さい条件付けに成功。
凛:同様に観測。
→ 火種だが、今回は日和側にも変化あり。
最後の一行を見て、少しだけ息を吐く。
原作なら、たぶんもっと簡単に流されていた。
でも今は違う。
日和はまだ優しい。
優しいままだ。
ただ、その優しさを全部そのまま差し出すわけではなくなり始めている。
それは間違いなく、良い変化だ。
もちろん、美澄の厄介さが減ったわけじゃない。
むしろ、あいつは今日だけでかなり多くを拾った。
それでも。
朝比奈日和の“やさしさ”が、前みたいに一方的な弱点ではなくなり始めている。
それは、今の俺にとっては十分すぎる救いだった。




