第34話 篠宮美澄は、朝比奈日和の“やさしさ”に最初に触れる
篠宮美澄は、まだ誰の味方でもない顔で教室へ入ってきた。
それが昨日の印象だった。
派手じゃない。
目立とうともしない。
でも、視界の端に置いておくと妙に気になる。
たぶんああいう人間は、最初から自分を強く押し出さない分だけ、周囲の輪郭を先に拾う。
誰が中心で、誰が端にいて、誰が気を遣い、誰が空気を回し、誰が黙って見ているか。
そういうものを、言葉より先に把握していく。
だから厄介だ。
そして今日、その厄介さが思ったより早く形になる。
火曜日の朝。
教室へ入った時点で、空気は昨日より少し柔らかくなっていた。
篠宮美澄が“知らない復学生”から、“とりあえず同じ教室にいる新しい一人”へ移り始めている。
人間の慣れは早い。
早いからこそ、油断が混ざる。
「おはよ、御影くん」
前の方から日和が声をかけてくる。
「……おはよう」
「今日、間ふつう」
「だから測るなって」
「でも昨日よりまし」
日和が笑う。
そのやり取りを、美澄が自席から見ていた。
ほんの一瞬だ。
でも分かる。
昨日より視線が迷わない。
昨日は全体を見ていた。
今日は“誰と誰の距離がどれくらいか”を見ている。
最悪だ。
「御影」
横から凛が来る。
「何」
「今日の文化祭希望票、朝のうちに提出してください」
「まだ持ってたか」
「昨日の時点で出していないのはあなたです」
「忘れてただけだ」
「そういうところはちゃんと雑なんですね」
「ひどいな」
「事実です」
凛はそう言ってから、ほんの少しだけ声を落とした。
「篠宮さん、朝比奈さんの方をよく見ています」
やっぱりお前もそこを見るか。
「見えてる」
「ええ」
凛は短く頷く。
「たぶん、最初に接触するなら朝比奈さんです」
「……」
「分かりやすいので」
それは否定できない。
日和は明るい。
教室の中心にいる。
声をかけやすい。
しかも最近は、少しだけ人を見るようになったぶん、相手を放っておかない。
美澄みたいな“様子を見るのがうまい人間”が最初に近づく相手としては、あまりにも都合がいい。
◇
一限目のあと、休み時間。
案の定、美澄は最初の一手を日和へ打った。
それは本当に些細なものだった。
「朝比奈さん」
席を立ちかけた日和が振り向く。
「ん? どうしたの」
「昨日言ってた去年の文化祭の話、少しだけ聞いてもいい?」
声が静かだ。
でも遠慮しすぎてもいない。
日和は一瞬だけ目を丸くして、すぐに笑った。
「ああ、全然いいよ」
「ありがとう」
「何が知りたい?」
「大変だったこと」
その聞き方に、俺は思わず眉を寄せる。
面白かったことでも、人気だった出し物でもなく、“大変だったこと”か。
美澄は、最初からそこを拾いにいくんだな。
日和は気づいていないのか、少し考えてから答える。
「んー……人手かなあ。あと準備の時期って、誰が何やるか曖昧になりやすいし」
「やっぱりそうなんだ」
「うん。でもうちのクラス去年はまあまあ回ってたよ」
「朝比奈さんがいたから?」
その問い方も、地味に鋭い。
日和は少しだけ笑って肩をすくめた。
「いや、私だけじゃないけど」
そう言ってから、一拍置く。
「でも、わりと何でも引き受けてたかも」
前のあいつなら、そこをもっと軽く言っていただろう。
今は少しだけ、自分の癖として自覚している。
それが分かるからこそ、俺は余計に落ち着かない。
「そういう人って、助かるよね」
美澄が静かに言う。
「でも、周りが慣れちゃうと危ない」
その言葉に、日和の笑顔がほんの少しだけ止まる。
やっぱり、そこで刺すのか。
「……そうだね」
日和は小さく頷いた。
「最近、ちょっとそれ考えるようになった」
美澄の目がわずかに細められる。
拾ったな、と思う。
“最近”。
つまり変化があった。
誰かのきっかけがあった。
美澄はたぶん、その一語だけで十分に何かを察するタイプだ。
「えらいね」
美澄はほんの少しだけ笑った。
「気づけるの」
「え、そうかな」
「うん」
そこで会話は一度途切れる。
だが、それだけで十分だった。
篠宮美澄は、もう日和の輪郭をかなり掴んだ。
明るくて、引き受けがちで、でも最近少し変わり始めている。
そしてその変化には“誰か”が関わっている。
そこまで読まれた気がして、胃のあたりが少しだけ重くなる。
◇
「御影くん」
横から呼ばれて顔を上げると、相馬だった。
「何」
「お前、今めっちゃ嫌そうな顔してたぞ」
「してない」
「してたって。篠宮と朝比奈が喋り始めた瞬間から」
そこまで分かりやすいのかよ。
相馬は前の方を見ながら、小声で続ける。
「篠宮って、静かなのに変な聞き方するよな」
「……」
「なんか、“楽しかったこと”じゃなくて“しんどかったこと”から入る感じ」
そう。そこだ。
こいつ、やっぱりこういう空気の読みは妙に鋭い。
「お前も見てるな」
「俺は普通の観察眼なんで」
「嘘つけ」
「でもさ」
相馬は少しだけ真面目な顔になる。
「朝比奈、ああいうの相手にすると本音出しやすそう」
それも分かる。
日和は、強く踏み込まれるとかわす。
でも、静かに“分かるよ”みたいな顔をされると、少しずつ本音を出す。
美澄はまさにその手合いだ。
「お前、なんか知ってんの?」
相馬が聞く。
「知らない」
「その返し、今日は弱いな」
「うるさい」
でも、それ以上聞いてこないのが相馬のいいところだ。
◇
二限目の授業中も、俺は美澄の動きを気にしていた。
日和の方を一度。
次に凛。
そして、また俺。
目立つほどじゃない。
だが、順番がある。
美澄は今、教室の中の関係の流れを見ている。
日和を起点にして、そこから視線がどこへ返るか。
凛がどういう温度で見ているか。
俺がそれにどう反応しているか。
たった一日二日で、そこまで読むのかよ。
いや、読むだろうな。
原作の美澄もそういう人間だった。
問題は、今の教室が原作と違いすぎることだ。
日和はもう少し自分を守ることを覚え始めている。
凛は俺だけでなく他人同士の関係まで見ている。
透子は学校の外で俺と接触済みだ。
真琴先輩もすでに何かを感じ取っている。
そんな場所に、美澄が入ってきた。
火種としては、かなり悪い。
◇
昼休み、俺は教室を出ようとして足を止めた。
日和が美澄に捕まっているわけではない。
むしろ逆で、日和が自然に「お昼どうする?」と声をかけていた。
やめろ。
それは早い。
あまりにも早い。
美澄は少しだけ迷う顔を見せてから、「じゃあ少しだけ」と応じる。
その間に、教室の空気がまた少しだけ変わる。
“朝比奈さん、やっぱりああいう子放っておけないよね”
そういう無言の認識だ。
そして、その無言の認識はすぐに別の意味を連れてくる。
日和が相手へ手を伸ばす。
相手も日和へ心を開く。
そこに周囲が安心して、余計な役割を足していく。
前にも見た構図だ。
違うのは、今度の相手が篠宮美澄だということ。
日和は善意で手を伸ばすだろう。
でも美澄は、その手をただ受け取るだけでは終わらない。
「御影」
凛が低い声で呼ぶ。
「何」
「止めないんですか」
「何を」
「朝比奈さん」
凛は前方を見たまま言う。
「篠宮さんと、かなり早い」
やっぱりそう見えるか。
「止められるわけないだろ」
「ええ」
「じゃあ聞くなよ」
「確認です」
ほんと便利だなその言葉。
「どう思う」
凛が小さく言う。
「……良くない」
「理由は?」
「勘」
「今日はそれで通しますか」
「お前に理屈で説明しても、たぶん今は無理だ」
それは正直な答えだった。
凛は一拍だけ黙ってから、少しだけ声を落とす。
「分かりました」
「珍しいな」
「でも」
「何だよ」
「私も同じです」
「は?」
「理屈では言えませんが、あの人の距離の詰め方は少し早い」
そう言うと、凛は教室前方を見たまま続ける。
「だから今日は、私も見ます」
見ます、か。
止めるでも、割って入るでもなく、見る。
それが凛らしいし、今はたぶん正しい。
「……お前、最近ほんと面倒な意味で頼もしいな」
「褒めていませんよね」
「褒めてない」
「知っています」
その返しに、少しだけ肩の力が抜けた。
◇
結局、昼休みは教室に残った。
日和、美澄、その友人たち。
少し離れた席で凛。
後ろの方には相馬。
誰も何か大きなことをしているわけじゃない。
でも、静かに配置が決まっていく感じがある。
美澄はうまい。
日和に対しては、助けられる側として重くなりすぎない。
「ありがとう」と言いすぎない。
でも、少しだけ“分かってくれて嬉しい”顔は見せる。
あれは、日和が一番引っかかるやつだ。
それでいて、他の子にもきちんと会話を返す。
孤立しない。
でも中心にはなりすぎない。
教室という場で、“入っていく位置”を最短で取る動きだ。
相馬が小声で言う。
「篠宮、うまいな」
「何が」
「馴染むの」
相馬はパンを食べながら続ける。
「すげえ自然に“少し守ってあげたくなる側”に入ってる」
やっぱりそう見えるか。
「嫌な言い方だな」
「でもそうだろ」
「……」
「しかも、それを本人が分かってる感じがする」
その通りだ。
原作でも、美澄はそういう“場の空気に乗る力”が強かった。
問題は、それが今の教室でどう作用するか読めないことだ。
「御影」
前方から日和がこちらを向く。
「今日お昼、図書室行かないの?」
何でそこで俺に振る。
しかも、美澄がいる前で。
「行かない」
「そっか」
日和はそれ以上深く聞かずに頷いた。
だが、凛の視線がまたこちらへ向く。
日和。
図書室。
俺。
そこまで会話の中に出すな。
美澄もたぶん、その単語の連なりを覚えた。
最悪だ。
◇
放課後、帰り支度をしている時、美澄が今度は凛へ話しかけていた。
「黒瀬さん」
「何ですか」
「去年の文化祭の運営資料って、今も見られる?」
そこへ行くのか。
凛は一瞬だけ目を細めた。
「閲覧自体はできます」
「そうなんだ」
「ただ、必要なら先生の許可を取った方がいいです」
「ありがとう」
会話はそれだけ。
でも十分だった。
美澄は、日和から“人の流れ”を聞き、凛から“記録の場所”を聞いた。
表の空気と、裏の記録。
両方へ手を伸ばしている。
こいつ、本当に初日か?
凛がそのあと、ちらっと俺の方を見る。
言葉はない。
でも、その目ははっきり言っていた。
見たでしょ。
あの人、かなり早いです。
分かってるよ。
分かってるから嫌なんだ。
◇
教室を出たあと、廊下の窓際で日和が追いついてきた。
「御影くん」
「何」
「今日、図書室行かなかったのって」
「……」
「もしかして篠宮さんいたから?」
心臓が嫌な跳ね方をする。
何でそこまで行く。
「違う」
「ほんと?」
「ほんとだ」
だが、日和の顔は納得していない。
最近こいつ、本当に勘が変な方向へ育ってきたな。
「ねえ」
日和が少しだけ声を落とす。
「篠宮さんって、やっぱりちょっと何かある?」
その問いに、言葉が止まる。
たぶん今、日和は“人を見る側”としての感覚で違和感を拾っている。
だから厄介だ。
原作よりずっと早く、美澄の“静かなうまさ”に気づき始めている。
「……お前もか」
思わずそう漏らすと、日和が目を丸くする。
「え?」
「いや」
これ以上はまずい。
だが、ここで完全否定してももう遅い気もした。
日和は自分で見たものを、以前みたいに“気のせいかな”だけで終わらせないようになっている。
「まだ分からない」
結局、そう返すしかなかった。
「でも」
「でも?」
「急いで仲良くなるな」
日和が少しだけ息を止める。
言いすぎたか、と思った時にはもう遅い。
「……どうして?」
静かな声だった。
「何となくだ」
「それ、御影くんにしては雑」
「雑でいい」
「よくない」
日和は困ったように眉を寄せる。
「理由ないのに人を避けるの、私は好きじゃない」
その言葉は、あまりにも日和らしかった。
そうだ。
こいつはそういうやつだ。
困っているかもしれない相手を、理由もなく遠ざけることはしない。
だからこそ今まで無理してきたし、だからこそ最近少しずつ線を引けるようになった。
でも美澄相手に、それが間に合うのかは分からない。
「避けろとは言ってない」
少しだけ言い直す。
「ただ、急ぐな」
日和は黙った。
数秒の沈黙。
やがて小さく頷く。
「……分かった」
「本当に?」
「うん」
日和は少しだけ視線を落とす。
「御影くんが、そこまで言うの珍しいから」
それが、嫌な形で効いてしまった気がする。
日和にとって、俺の言葉の重みが前より増している。
それもまた原作外だ。
「でも」
日和は顔を上げた。
「ちゃんと自分でも見る」
その一言に、少しだけ救われる。
そうだ。
今の日和は、ただ言われたから従うだけじゃない。
自分で見ることを覚え始めている。
「……そうしろ」
短く返すと、日和は小さく笑った。
「うん」
それから軽く手を振って、友人の方へ戻っていく。
その背中を見送りながら、深く息を吐く。
火種はもう入ってきた。
でも、前と違うのは、今の俺が一人でそれを見ているわけじゃないことかもしれない。
◇
校門へ向かう途中、スマホのメモアプリを開く。
美澄:日和へ最初に接触。大変だったことを聞く。
凛へも資料の導線確認。
場の中心と記録の両方へ手を伸ばしている。
日和も違和感を拾い始めた。
→ 火種だが、今回は“見ている人間”が複数いる。
最後の一行を見て、少しだけ指が止まる。
見ている人間が複数いる。
それが、今までとの最大の違いなのかもしれない。
原作では、誰かが違和感に気づいても、それが線にならなかった。
今は違う。
日和が見て、凛が見て、俺も見ている。
もしかしたら透子や真琴先輩まで、どこかで気づくかもしれない。
なら、まだ間に合う。
そう思うこと自体が、もう原作知識から離れ始めている証拠だった。




