第32話 次の火種は、まだ誰のものでもない顔をして近づいてくる
火種というものは、燃え上がる前がいちばん静かだ。
煙も出ない。
匂いもしない。
誰も気づかない。
だから厄介だ。
いざ火が見えてから動いても遅いことがある。
原作で何度も見た。
小さな違和感が積み重なって、誰かの心が削れて、それでも周囲は「そんな深刻じゃなかった」と思い込んだまま、気づいた時には戻れなくなる。
だから俺は、燃える前を探している。
……はずだった。
でも最近は、その“燃える前”の形そのものが変わり始めている気がしてならない。
水曜の朝。
鳳ヶ崎学園はいつも通りに見えた。
昇降口には朝のざわめきがあって、廊下には小走りの足音が響いている。
担任に見つからないうちに教室へ滑り込もうとするやつ。
購買の新作パンの話をしている女子。
部活の朝練帰りで少しだけ眠そうな男子。
全部、いつも通りだ。
なのに、妙に落ち着かなかった。
理由はよく分からない。
ただ、昨日の夜からずっと、頭の片隅で何かが引っかかっている。
誰も壊れていない。
今のところは。
でも、日和も透子も凛も、それぞれの形で変わっている。
俺もたぶん変わっている。
原作知識だけを頼りに、先回りして、火種を踏み潰していくやり方は、少しずつ限界に近づいている。
――何か来る。
根拠なんてない。
でも、こういう嫌な予感は大体外れない。
「おはよう、御影くん」
教室へ入るなり、日和がいつもの声を投げてくる。
「……おはよう」
「今日、間長い」
「測るなって」
「だってあるし」
すぐ近くにいた女子が笑う。
「もう朝比奈さん、それ趣味でしょ」
「違うよ」
「いや絶対半分は趣味」
「半分?」
「残り半分は心配」
そこを言うな。
日和が少しだけこっちを見て、それから照れたように笑う。
「まあ、否定はしないけど」
やめろ。
そういうのを明るく認めるな。
そのやり取りの端を、相馬が前の席から振り返って聞いていた。
「お前ら、もう周りが茶化しても普通に流すようになってるのな」
「流してない」
「いや流れてる流れてる」
相馬は笑う。
「前なら御影、もっと露骨に切ってただろ」
「朝からうるさい」
「今日もちゃんと元気ないな」
「褒めてない」
「知ってる」
そこでその返しを使うな。
席へ着いて、教科書を出す。
教室を一度見渡すと、凛がいつものように配布物を整えていた。
ただ、その視線はこっちを一度だけかすめて、すぐに別の場所へ移る。
俺だけじゃない。
日和も、相馬も、その周囲の空気ごと見ている。
やっぱり、もう単独の線じゃない。
みんな、少しずつつながり始めている。
◇
一限目が終わったあと、担任が何枚かのプリントを持って教室へ戻ってきた。
「連絡二つあるぞー」
やる気のない声でそう言って、教卓にプリントを置く。
「一つ目、文化祭準備の追加希望は今日までな。二つ目――」
そこで担任が一瞬だけ紙を見直した。
「転入、っていうか、戻ってくる生徒の事前連絡が来てる」
教室の空気が少し変わる。
戻ってくる?
ざわ、と小さなざわめきが広がった。
復学とか、長期欠席明けとか、いくつかの言葉が小声で飛ぶ。
「正式には来週からだが、今のうちに伝えとく」
担任はそこで、名前を読み上げた。
「篠宮美澄」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
教室のざわめきが遠のく。
担任の声だけが、妙に輪郭を持って聞こえる。
篠宮美澄。
その名前を、俺は知っている。
原作での登場時期は、もっと後だ。
少なくとも、今ここで戻ってくるはずがない。
それも“次週から”なんて形で、あまりにも早い。
ありえない。
いや、ありえないはずだった。
「知ってる人いるか?」
担任が軽く聞くが、教室はざわついているだけで明確な返事はない。
そりゃそうだ。
今の二年で直接関わっていたやつは多くないはずだ。
原作でも、美澄は“遅れて登場する厄介な火種”だった。
俺が知っているのは、そういう役割としての名前だけだ。
なのに、今、その名前が現実に前倒しで出てきた。
「詳しい事情はあんまり詮索するなよ」
担任が続ける。
「体調面とか家庭の都合とか、いろいろあったらしいから」
その一言で、原作知識と現実が微妙にズレる。
原作での美澄は、ただの“遅れてきた新キャラ”じゃない。
閉じた空気に、静かに楔を打ち込むタイプの存在だ。
誰かの本音を見抜き、誰かの傷をえぐり、しかも悪意だけでは割り切れない。
そして何よりまずいのは――。
今のこのタイミングで来るなら、俺が想定していた誰のルートにも、そのまま乗らない可能性が高いことだ。
担任の話が終わり、教室はざわざわしたまま休み時間へ流れた。
「篠宮って誰?」
「前にいた人?」
「病気?」
「転校じゃなくて戻るって何だろ」
いろんな声が飛ぶ。
俺は何も言えなかった。
言えるはずがない。
「御影」
低い声で呼ばれて顔を上げると、凛が立っていた。
「何」
「顔」
「もういいよそれは」
「いつも以上に固いです」
「気のせいだ」
「違います」
凛はきっぱり言った。
「その名前、知っていましたか」
鋭すぎるだろ。
だが、完全に誤魔化すにはタイミングが悪すぎる。
今の俺の反応を見たあとで「初めて聞いた」は無理がある。
「……少しだけ」
そう答えると、凛の目がわずかに細くなる。
「どういう意味ですか」
「前に聞いたことある程度だ」
「誰から」
「覚えてない」
「怪しいですね」
「お前、もうちょっと言い方柔らかくできないのか」
「柔らかくしても怪しいものは怪しいです」
そこへ、日和もこっちへ寄ってきた。
「え、御影くん知ってるの?」
「知ってるってほどじゃない」
「でも反応したよね」
やめろ。
挟み撃ちにするな。
相馬まで後ろから顔を出す。
「何何、御影だけ何か知ってんの?」
「うるさい」
「いやだって分かりやすすぎるって」
最悪だ。
ここでこれ以上食いつかれるのはまずい。
だが、強く否定しても不自然だ。
俺が一瞬で名前に反応したこと自体、もう何人かには見られている。
どうする、と頭の中で考えるより先に。
「前のクラスの名簿で見たことあるだけだ」
口がそう動いていた。
嘘ではない。
探せばそういう接点もあるかもしれない。
曖昧で、でも完全に否定されにくい逃げ方。
凛が少しだけ眉を寄せる。
納得はしていない。
でも今ここで詰めるつもりもないらしい。
「へえ」
日和は首を傾げる。
「そうなんだ」
「まあ」
「御影って、たまに変なとこで記憶あるよね」
相馬が笑う。
「嫌な言い方だな」
「褒めてる褒めてる」
「嘘つけ」
その軽口に合わせて、なんとか空気は流れた。
だが凛だけは、最後まで俺の顔を見ていた。
分かっている。
あいつはたぶんもう気づいている。
今の反応が、“ただ前の名簿で見たことがある”程度じゃないことを。
◇
二限目の授業はまるで頭に入らなかった。
ノートを取る。
板書を書く。
教師に当てられれば答える。
体だけはいつも通り動いている。
でも、頭の中では篠宮美澄の名前がずっと反響していた。
早すぎる。
それが一番まずい。
原作で美澄が入ってくるのは、もっと後だ。
空気が煮詰まり、日和や透子や凛の関係がもう少し偏ってからだ。
そのタイミングで、美澄は“外から来る異物”として機能する。
なのに今来るということは、その役割ごと変わる可能性が高い。
俺の知識は、もう時系列すら信じられないのかもしれない。
――いや。
それは前から少しずつそうだった。
ただ、ここまで明確なズレは初めてだ。
原作知識の前提そのものが崩れ始めている。
「御影くん」
授業後、日和が小さく呼んだ。
「何」
「大丈夫?」
「またそれか」
「だって今の、さすがにちょっと」
日和は言いよどむ。
「顔、やばかった」
「やめろ、その文化」
すると日和は少しだけ真面目な顔になる。
「御影くん」
「……」
「その人、来たらまずいの?」
心臓が、小さく、でもはっきり跳ねた。
そこまで行くか。
日和は、理屈じゃなく感覚で踏み込む。
だからこそ怖い。
「知らない」
「でも」
「知らない」
少し強めに返してしまった。
日和が一瞬だけ目を瞬かせる。
しまった、と思う。
こういう返し方は良くない。
「……ごめん」
日和が先に小さく言った。
「変な聞き方した」
「いや」
否定しかけて止まる。
今ここで“お前は悪くない”まで言うと、余計に怪しい。
「ちょっと驚いただけだ」
なるべく平坦にそう返すと、日和はまだ少し不安そうな顔のまま頷いた。
「そっか」
「そうだよ」
「うん」
それ以上は聞かない。
その引き方が、今の日和らしかった。
けれど、何も聞かれないからといって終わるわけじゃない。
あいつはあいつで“今の反応は普通じゃなかった”とちゃんと記憶するタイプになり始めている。
ほんと、ろくでもない。
◇
昼休み、俺は逃げるように教室を出た。
向かった先は図書室ではない。
今日はさすがに透子と会うと、また余計な反応を拾われそうだった。
西棟ではなく、本棟裏の人気の少ない渡り廊下。
窓から中庭が見える場所で立ち止まり、深く息を吐く。
もう原作じゃ読めない。
その言葉が、はっきり形になって頭の中へ落ちた。
小さなズレは前からあった。
日和が少し早く変わった。
透子が少し早く信じるようになった。
凛が少し深く見始めた。
それらはまだ、“細部の差分”として扱えた。
でも篠宮美澄は違う。
登場時期そのものがズレている。
これはもう、細部じゃない。
地図の方が書き換わり始めている。
「最悪だな」
小さく呟いた時。
「御影」
後ろから凛の声がした。
足音に気づかなかった。
かなり頭が散っている。
「何だよ」
「こちらの台詞です」
凛は少しだけ息を切らしていた。
探してきたのか。
「どうしました」
「お前、ほんとに来るんだな」
「呼ばれなくても来ます」
「面倒だな」
「知っています」
その返しの安定感が、今日は少しだけありがたい。
凛は俺の横に立ち、中庭の方を見る。
「さっきの名前」
「……」
「やっぱり、ただ事ではないんですね」
「何でそうなる」
「御影が、あそこまで分かりやすく固まるのは珍しいので」
反論できない。
凛は少しだけ声を落とした。
「誰なんですか」
「……」
「知っているんですよね」
「知ってる、とは少し違う」
「どう違うんですか」
「それを説明するのが面倒なんだよ」
半分は本音だった。
凛は黙る。
詰めてくるかと思ったが、今日は違った。
「分かりました」
その一言に、逆にこっちが驚く。
「……引くのか」
「引きます」
「珍しいな」
「今は聞いても、たぶん御影はちゃんと答えないでしょう」
「……」
「その代わり」
凛はまっすぐ言う。
「来週、その篠宮さんが来た時のあなたを見ます」
やっぱりそこへ行くのか。
「やめろ」
「無理です」
「何で」
「そこが一番、嘘をつかないから」
静かすぎる答えだった。
たしかにそうだ。
人そのものより、接触した時の反応の方が本音が出る。
凛はそのことをよく分かっている。
「……お前、ほんと面倒だな」
「ええ」
凛は頷く。
「でも、今の御影を一人にしておくと、たぶんもっと面倒です」
その言い方が、妙に真琴先輩っぽく聞こえた。
凛は少しだけ視線を柔らかくする。
「もう原作じゃ読めない、みたいな顔してます」
息が止まりかける。
「何言ってるか分からない」
「でしょうね」
凛はあっさり返した。
「私も言っていて分かりません」
「なら言うなよ」
「でも、今の御影にはそういう顔が似合います」
嫌すぎる。
だが、なぜか少しだけ呼吸が戻る。
自分の混乱を完全に隠せていないことは最悪だ。
でも、その最悪を見た上でなお、凛がここにいるのもまた事実だった。
「……もう原作じゃ読めない」
思わず、小さく口から漏れた。
凛がわずかに目を細める。
でも追及はしない。
「それは」
凛が静かに言う。
「たぶん、今までの“読めていた”方がおかしかったんだと思います」
その言葉に、今度は俺が黙る。
そうかもしれない。
俺はずっと、原作知識を前提に動いていた。
でも本来、人はそんなふうに未来を読めない。
読めないまま、関係を築いて、間違えて、選んでいく。
今の状況は、ようやくそっちへ近づいているだけなのかもしれない。
「……慰めになってない」
「慰めていません」
「だろうな」
「ただ」
凛は少しだけ間を置いた。
「もう知識だけじゃないなら、他に頼れるものもあるはずです」
その言葉が、妙に重かった。
日和。
透子。
凛。
相馬。
真琴先輩。
理沙。
橘先輩。
ここまで原作外の接点が増えているのなら、もう“変化そのもの”を武器にするしかないのかもしれない。
そう思った瞬間、少しだけ怖さの質が変わる。
先読みできない恐怖から、自分で進めるしかない恐怖へ。
どちらにしろ面倒だ。
でも、前よりは少しだけ呼吸ができる。
◇
放課後、教室へ戻ると日和がこちらを見て、でも何も聞かなかった。
透子からは、図書室の返却棚近くで一瞬視線だけをもらった。
相馬は何も知らない顔で「今日のホームルーム長かったな」と言っていた。
橘先輩は廊下の向こうからこちらを見て、何も言わずに笑った。
全部が少しずつ、つながっていく。
そして、その先に篠宮美澄が来る。
校門を出る前に、スマホのメモアプリを開く。
篠宮美澄:登場時期大幅前倒し。
時系列そのものが崩れ始めた可能性。
原作知識の信頼度低下。
→ 次からは“関係”ベースで対応する必要あり。
最後の一行を見て、深く息を吐く。
関係ベースで対応する。
そんなの、一番やりたくなかったやり方だ。
でも、もうそこまで来ている。
次の火種は、まだ誰のものでもない顔をして近づいてくる。
だからこそ、一番危ない。
そして――。
それを今の俺は、もう昔みたいに“知識だけ”では迎え撃てない。
なら、築いてしまったものを使うしかない。
面倒で。
怖くて。
でも、それが今の俺の現実だった。




