第23話 学園の外で偶然会うと、関係は少しだけ現実になる
学校の外で会う相手は、少しだけ別人に見える。
制服を着ていれば同じ顔のはずなのに、教室でも廊下でもない場所に立っているだけで、そこに貼りついていた役割が一枚剥がれるからだろうか。
クラスの中心にいる朝比奈日和も。
風紀委員の黒瀬凛も。
図書室の窓際にいる白峰透子も。
学校の外へ出れば、少しだけ“誰かのラベル”から離れる。
だからこそ、そこで会うのは面倒だ。
変に現実味が出る。
金曜の夕方。
家に帰る前に、俺は駅前の本屋へ寄っていた。
理由は二つある。
一つは、透子から借りた文庫本を読み終えたからだ。感想を聞くと言われている以上、何も考えていない顔では返せない。少なくとも、関連する作者の別作品か、同じ棚の近くにある本くらいは見ておきたい。そうすれば多少は会話の材料になる。
そしてもう一つは、単純に頭を冷やしたかったからだ。
ここ数日、学園でも家でも“見られている”感覚が多すぎる。
日和は俺の顔色を見るし、透子は言葉を覚えているし、凛は観察をやめないし、橘先輩は何も知らない顔で核心の近くを歩く。
理沙にまで“今の方が好き”なんて言われた日には、さすがに一度、学校とも家とも関係ない場所へ逃げたくなる。
逃げた先が駅前の本屋というのも我ながら地味だが、今の俺にはそのくらいがちょうどいい。
自動ドアをくぐると、紙とインクと、少しだけ新しいビニールの匂いがした。
平日の夕方で、客は多すぎず少なすぎず。学生、会社員、主婦らしき人。誰もが自分の用事だけを見ていて、誰も俺のことなんか気にしていない。
それが少しだけ楽だった。
文庫の棚へ向かい、背表紙を目で追う。
透子に借りた本の作者名。
同じレーベル。
前に読んだことのあるタイトル。
何冊か手に取っては戻し、適当にあらすじを眺める。
こういう時間は嫌いじゃない。
余計なことを考えずに済む、とは言わない。
今の俺は何をしていても多少は先のことを考えてしまう。
それでも、本に意識を預けている間だけは、少しだけ思考が分散して楽になる。
「……あ」
小さな声がして、反射的に顔を上げる。
数歩先の棚の角に、白峰透子が立っていた。
最悪だ。
いや、最悪というほどでもない。
でも面倒だ。かなり。
透子は制服ではなく、薄いベージュのカーディガンに暗めのスカートという、地味だが柔らかい私服だった。
髪はいつも通り整っているが、学校で見るより少しだけ輪郭が穏やかに見える。
そして何より、ここには図書室も窓際の席もない。
つまり、俺たちはただの本屋で偶然会った高校生二人ということになる。
それが、妙に現実味を持ってしまって厄介だった。
「……白峰」
「はい」
「何でいる」
我ながらひどい第一声だと思う。
透子はわずかに目を細めた。
「本屋に来ているからです」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、答えは出ています」
返しが早いな。
少し前までなら、透子はこういう受け答えを表に出さなかった。
やっぱり少しずつ変わっている。
「御影先輩こそ」
「……」
「本屋に来るんですね」
「来るだろ普通」
「来ますけど」
透子は手にしていた文庫本を少し持ち上げる。
「学校の外で会うと、少し意外です」
その言い方に、少しだけ息が止まる。
学校の外で会うと、少し意外。
それは俺がさっき考えていたことと、かなり近い。
「お前もな」
「私ですか」
「図書室以外にいると、ちょっと違う」
言ってから、少し余計だったかと思う。
だが透子は不快そうにはしなかった。
むしろ、少しだけ考えるように視線を落としてから言う。
「学校じゃないと、御影先輩も少しだけ普通ですね」
「……何だそれ」
「学校だと、いつも少しだけ構えているので」
そこまで見えるのか。
俺は棚の背表紙へ視線を逃がした。
「気のせいだ」
「それ、便利なんですね」
「お前まで言うな」
「でも、本当に便利そうです」
わずかに笑っている。
その笑い方が、教室でも図書室でもない場所だと少しだけ違って見える。
静かなのは変わらない。
でも、学校の中より少しだけ柔らかい。
「何買うんだ」
話題を変えるつもりで聞くと、透子は手元の文庫本を見下ろした。
「新刊です」
「へえ」
「御影先輩は?」
「まだ決めてない」
「珍しいですね」
「何が」
「目的があるのに決めていない感じがするので」
それはかなり正確だった。
「何で分かる」
「棚の前でずっと迷っていたからです」
見られていたのか。
「……お前も見すぎだろ」
「御影先輩に言われたくありません」
たしかに。
透子は少しだけ近くの棚を見上げる。
「借りた本、読み終わりましたか」
やっぱりそこへ来るか。
「読んだ」
「感想は?」
「本屋で聞くのか」
「いけませんか」
「いや、別に」
別に、ばっかりだな本当に。
透子は急かさず待っている。
その待ち方が妙にうまい。
沈黙を沈黙のまま置けるタイプだ。
俺は手元の文庫を戻しながら言う。
「前半と後半で見え方が変わる話だった」
透子が少しだけ目を上げる。
「はい」
「最初は、距離を取ることで何か守ってるつもりのやつがいて」
「……」
「でも後半になると、それが守るどころか余計に相手を不安にさせてるって分かる」
言いながら、自分で少し嫌になる。
何だその感想は。
ほとんど今の自分の話じゃないか。
透子は黙って聞いていた。
やがて、小さく息を吐く。
「やっぱり」
「何が」
「今の御影先輩なら、そう読むと思いました」
「前提がおかしいだろ」
「でも、そうでした」
きっぱりしてるな。
透子は本を胸の前で抱え直した。
「前半の人、冷たいように見えるんですよね」
「見えるな」
「でも後半まで読むと、冷たいというより……」
少しだけ言葉を探す。
「不器用で、怖がっているだけに見える」
その表現が、妙に真っ直ぐ刺さる。
「何だよ、その言い方」
「だめでしたか」
「だめっていうか」
俺は少しだけ言葉を失って、それから小さく息を吐いた。
「……外で会うと、お前の方が容赦ないな」
透子はほんの少しだけ目を細めた。
「学校だと遠慮してるみたいな言い方ですね」
「してるだろ」
「御影先輩が?」
「お前が」
「……そうかもしれません」
そこはあっさり認めるのか。
二人のあいだに短い沈黙が落ちる。
本屋の中は静かだが、完全な無音ではない。ページをめくる音、レジの電子音、遠くの足音。
その全部が、学校の図書室とは違う種類の現実感を持っている。
「御影先輩」
透子がまた小さく呼ぶ。
「何」
「学校の外で会うと、少しだけ話しやすいです」
不意打ちすぎて、返事が止まる。
「……」
「変な意味じゃなくて」
「変な意味って何だよ」
「分かりませんけど」
透子はわずかに視線を逸らした。
「学校だと、どうしても“先輩”とか“図書室”とか、そういうものが先にあるので」
それは、すごくよく分かる。
俺だって同じだ。
教室にいればクラスメイト。
図書室なら窓際の後輩。
風紀委員なら凛。
生徒会室なら橘先輩。
家なら理沙。
そういう役割のラベルが先に立つ。
でも本屋で偶然会うと、そこが少しだけ薄くなる。
「……まあ、そうかもな」
俺がそう言うと、透子は少しだけ驚いた顔をした。
「肯定するんですね」
「たまにはな」
「珍しいです」
「お前、ほんとそれ好きだな」
「事実なので」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
危ない。
こういう空気は本当にまずい。
学校の外で会うと、関係が少しだけ現実になる。
その感覚はきっと、俺だけじゃなく透子の方にもあるのだろう。
「……そろそろ帰る」
俺が言うと、透子は小さく頷いた。
「はい」
「お前は」
「もう少し見ます」
「そうか」
それで終わるつもりだった。
だが透子は、俺が背を向けかけたところでぽつりと続ける。
「御影先輩」
「何」
「学校じゃないと、少しだけ安心します」
その言葉に、足が止まる。
「……何で」
振り返らずに聞くと、少し間があった。
「周りの目が少ないからです」
静かな声だった。
「気のせいじゃなくて、ちゃんと自分の感じたことを持っていていい気がするので」
やっぱり、そこにつながるのか。
透子にとっては、本屋で偶然会うことすら“自分の感覚をそのまま置ける場所”になり得るのだ。
学校の中では、どうしてもいろいろな目や空気が混ざるから。
「……そうか」
それしか言えなかった。
透子はそれ以上何も言わず、手の中の新刊へ目を落とした。
その横顔はやっぱり静かで、でも図書室で見る時より少しだけ柔らかい。
俺はそのまま本屋を出た。
◇
外に出ると、夕方の空気が思ったよりひんやりしていた。
駅前はまだ明るい。学生も会社員も行き交っていて、誰も俺のことなんか気にしていない。
それなのに、胸の奥だけ妙にざわついている。
学校の外で会うと、少しだけ普通。
話しやすい。
安心する。
透子に言われた言葉が頭の中で反響する。
面倒だ。
本当に面倒だ。
だが同時に、それが悪いものではないと分かってしまう。
透子は“気のせい”を減らし始めている。
その延長線上に、学校の外で少しだけ普通に話せる時間がある。
なら、それはたぶん良い変化だ。
ただし。
良い変化だからこそ、原作の地図からまた一歩離れたということでもある。
駅前の信号で立ち止まり、俺はため息を吐く。
「……ほんと、ろくでもないな」
何が、とは言わない。
原作を変えることも。
変わっていく関係も。
それを少しだけ悪くないと思ってしまう自分も。
信号が青になる。
人の流れに混ざって歩き出しながら、俺は自分に言い聞かせる。
これはまだ、破滅回避の途中だ。
それ以上でも以下でもない。
でもその“途中”が、少しずつ現実になっていく感じがして、やっぱり少し怖かった。




