第24話 早瀬真琴は、元気な顔の下にある疲れを見つける
人の不調には、二種類あると思う。
一つは分かりやすいやつだ。熱があるとか、顔色が悪いとか、足を引きずっているとか、誰が見ても「それは休め」と言えるもの。
もう一つは、面倒な方だ。
笑えてしまう。動けてしまう。返事もできる。授業も受けられる。だから周囲からは「大丈夫そう」に見える。本人だって、その気になればそう思い込める。
でも、そういう不調の方が、たぶん長引く。
金曜の午前、四限目が終わる頃には、俺は珍しく本気で頭が重かった。
眠いのとは違う。熱があるわけでもない。けれど、視界の端が少しだけ鈍い。黒板の文字を追っていても、意味が頭へ入るまで一拍遅れる。ここ数日、ずっと張っていた神経のせいだろう。
透子の図書室。
日和の視線。
凛の揺れ。
橘先輩の言葉。
理沙の「今の方が好き」。
どれも一つずつなら耐えられる。だが、まとめて来るとさすがに重い。
「御影くん」
授業が終わって立ち上がった瞬間、前の方から日和が声をかけてきた。
やっぱり今日もこっちを見るな、この女。
「何」
「大丈夫?」
「またその話か」
「またって言うけど、今日はほんとにちょっと顔悪い」
「気のせいだ」
「それ、今日は信用しない」
きっぱり言われた。
机を挟んでこっちを見る日和の目は、前よりずっと遠慮がない。
いや、遠慮がなくなったというより、“見る理由が自分の中で整理できた”のかもしれない。
助けられたから気にする。
見てもらったから見返す。
あいつなりに、筋が通っている。
「ほんと大丈夫?」
「しつこい」
「しつこいくらいがちょうどいい時あるんだよ」
「誰が決めた」
「私」
「勝手だな」
言い返したものの、声にいつもの張りがないのが自分でも分かった。
その瞬間、日和の表情が少しだけ変わる。
明るい笑顔のまま、でも一段だけ真面目な色が混ざる顔だ。
「……保健室、行った方がいいんじゃない?」
「大げさだ」
「大げさじゃない」
「熱あるわけでもない」
「じゃあ余計に」
「何でだよ」
「そういう“無理できちゃうやつ”の方が危ないから」
言い返そうとして、少しだけ詰まる。
その言葉は、嫌になるくらい正しかった。
「御影」
今度は横から凛の声が飛んできた。
今日の配布物を持ったまま、俺の机の横に立っている。
「何だよ」
「朝比奈さんの言う通りです」
「お前まで乗るな」
「顔色はそこまで悪くありません」
「ほら」
「ですが、反応が遅いです」
そっちかよ。
「観察しすぎだろ」
「ええ。最近、そういう役回りみたいなので」
その返し方、少しだけ相馬っぽいな。
凛は俺の目を見て、淡々と続けた。
「一度くらい保健室に行ってください」
「命令か」
「提案です」
「強めだな」
「聞かないでしょうから」
否定できないのが腹立たしい。
「御影くん」
日和がさらに追撃してくる。
「ほら、二対一」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ三対一」
後ろから相馬の声がして、思わず振り返る。
いつの間に戻ってたんだ。
「お前まで増えるな」
「いやだって、さすがに今日のお前ちょい変だぞ」
「……」
「無理やり元気なふりしてる時の感じ」
どいつもこいつも、最近ほんとによく見ている。
最悪だ。
でも――。
ここで頑なに拒否する方が、たぶんもっと面倒になる。
「……少しだけだからな」
観念してそう言うと、日和が明らかにほっとした顔になる。
「うん、それでいい」
「いいって何だよ」
「今日はちゃんと行くんだ、って」
母親か。
凛は何も言わないまま小さく頷き、自分の席へ戻っていった。
相馬は「戻ってこいよ、生きて」と適当なことを言っている。
俺は小さくため息を吐き、鞄を持たずに教室を出た。
◇
保健室は、本棟一階の端にある。
昼休み前の廊下はそこそこ人が多い。だが、保健室の前だけは少し空気が緩い。騒がしさが一段低いというか、ここに来ると自然と声量を落とす空気がある。
扉を軽くノックして開ける。
「失礼します」
中は静かだった。ベッドは四つ。カーテンは半分だけ閉じられていて、今は誰も寝ていないらしい。窓際の机には記録簿や体温計、救急箱が整然と並んでいる。
そして、その机の向こうで顔を上げたのは、見覚えのない先輩だった。
「はーい、どうぞ」
明るい声。
柔らかい茶色の髪を肩のあたりでまとめていて、気取っていないのに妙に話しかけやすい雰囲気がある。制服の着こなしはきっちりしているが、堅苦しさはない。
この人が、早瀬真琴か。
名前だけは聞いたことがある。
保健委員か、それに近い立場の三年生。
話しやすくて面倒見がいい先輩、という評判もあった気がする。
「どうしたの?」
真琴先輩が椅子から少し身を乗り出す。
「別に大したことじゃないです」
「保健室に来る人、だいたい最初それ言うよ」
笑いながら返されて、少しだけ言葉に詰まる。
「……頭が少し重いだけです」
「熱っぽい?」
「ないと思います」
「咳は?」
「ないです」
「お腹は?」
「大丈夫です」
「寝不足?」
「たぶん」
「たぶん?」
真琴先輩は面白がるでもなく、淡々と質問を重ねる。
そのテンポが妙に自然だ。
「座って」
言われるまま丸椅子に座ると、先輩は俺の顔をじっと見た。
「ふうん」
「何ですか」
「いや、思ったより元気そう」
「ですよね」
「でも、思ったより疲れてる」
即座にそう返されて、言葉が止まる。
何なんだこの人。
真琴先輩はカルテ用の簡単なメモに何か書きながら続ける。
「顔色は悪くないし、熱もなさそう。でも目が少し遅い」
「目が遅い?」
「反応まで一拍ある感じ」
凛と同じことを言われた。
「最近そう言われます」
「へえ、じゃあ最近の疲れなんだ」
結論早いな。
真琴先輩は体温計を差し出した。
「一応」
「そこまでします?」
「するよ。保健室だから」
そりゃそうか。
体温を測っている間、真琴先輩は机に頬杖をついてこちらを見る。
「二年?」
「はい」
「御影くん、だよね」
「知ってるんですか」
「名前だけは」
それも嫌な情報だな。
「悪い意味じゃなくてね」
真琴先輩はすぐにそう付け加えた。
「最近ちょっと聞くから」
「……何をですか」
「いろいろ」
その曖昧さが一番怖いんだよ。
体温計が鳴る。平熱だった。
ほら見ろ、と言いかけた俺に、真琴先輩は先回りする。
「熱ないね」
「だから大したことないです」
「うーん」
真琴先輩は体温計を片づけながら首を傾げる。
「大したことない不調って、一番面倒なんだよね」
「……」
「熱あったら休むしかないじゃん。でも、ないと“動けるからいいや”ってなって、ずるずる行くでしょ」
その言い方は軽いのに、内容はやけに的確だった。
俺が黙っていると、真琴先輩は少しだけ目を細める。
「図星?」
「別に」
「あ、それ便利なやつ?」
どうしてここでもそれが通じるんだ。
「何で知ってるんですか」
「知らない。今の反応で察した」
恐ろしいな。
真琴先輩は机の引き出しを開け、小さな紙コップとペットボトルの水を出した。
「とりあえず飲んで」
「……ありがとうございます」
「素直」
「そこ、褒めるところですか」
「珍しいとこ」
この人も言うのか。
水を一口飲むと、少しだけ喉の奥が楽になった気がした。
それだけ疲れていたのかもしれない。
「最近、寝れてない?」
真琴先輩が聞く。
「寝てはいます」
「じゃあ頭が休めてない系かな」
「何ですかそれ」
「考えごと多い人がなるやつ」
さらっと言うな。
「……そんな顔してますか」
「うん。あと、“自分が疲れてるかどうか”より“今ここをどう切り抜けるか”を先に考える顔」
胸の奥に少しだけ引っかかる。
日和にも、理沙にも似たようなことを言われた。
自分のことを後回しにしてる顔。
人のことを先に考えてる顔。
そんなに分かりやすいのか。
「君さ」
真琴先輩は声を少しだけ柔らかくした。
「頑張るのは別に悪くないけど、倒れる時って“頑張ってます!”って顔じゃなくて、“まだ大丈夫です”って顔の時だからね」
「……」
「だから、今日は来たの正解」
そう言われると、否定しづらい。
「でも大丈夫です」
「うん。今はね」
真琴先輩はあっさり頷いた。
「ただ、その“大丈夫”をちゃんと回復に使わないと、あとで面倒なことになる」
面倒なこと。
その言い方に、少しだけ気が楽になる。
深刻にされすぎると逆に構えてしまうが、この人は妙にちょうどいいところで言う。
「十分休みます?」
「授業は?」
「五分だけここで座ってて。気持ち切り替えて、それから戻ればいい」
真琴先輩は記録簿にさらさらと何か書き込んだ。
「寝かせるほどではないし」
「助かります」
「ほんとにね」
そこで真琴先輩はふっと笑った。
「君、寝かせたらたぶん落ち着かない顔してるし」
「分かります?」
「分かる」
怖いな、この人。
◇
結局、俺は保健室の丸椅子に五分ほど座っていた。
窓から入る風は弱く、保健室の静けさは図書室とはまた違う種類のものだった。
あっちは本と沈黙の静けさ。
こっちは人の体温や不調を前提にした静けさだ。
「二年って最近ちょっと忙しい?」
真琴先輩がカルテを閉じながら聞いた。
「なんでですか」
「さっきも言ったけど、疲れてる子がわりと多い」
「……」
「朝比奈さんとか」
心臓が少しだけ止まりそうになる。
「知ってるんですか」
「保健室って、案外いろんな子の情報入るんだよ」
真琴先輩は肩をすくめる。
「別に重い意味じゃなくてね。ちょっと無理しがちな子って、顔見てれば分かるし」
そこに、俺も入ってるわけか。
真琴先輩は机の上で指を軽く組んだ。
「朝比奈さんは、明るいから気づかれにくいタイプ」
「……」
「御影くんは、逆に元気そうじゃないから放っておかれにくいけど、本当の疲れ方は気づかれにくいタイプ」
そんな分類あるのか。
「嫌な組み合わせですね」
ぽろっと本音が出ると、真琴先輩が笑う。
「やっぱり知ってるんだ」
「何を」
「朝比奈さんがちょっと無理しがちなこと」
しまった。
真琴先輩は追及する顔ではなかった。
ただ、確認した、という顔だ。
「……まあ」
「ふうん」
それだけで終わるのか。
「それ以上聞かないんですか」
「聞いたら話す?」
「話さないです」
「でしょ」
真琴先輩は楽しそうに笑った。
「だから聞かない」
それは、少しありがたかった。
この人は凛みたいに理屈で詰めない。
日和みたいにまっすぐ心配しすぎない。
透子みたいに静かに覚え続ける感じとも違う。
もっと軽やかに、人の疲れを見つけてくる。
新しい種類の厄介さだ。
でも、悪くない。
「よし」
真琴先輩が立ち上がる。
「今日はこれで終わり」
「ありがとうございます」
「うん。で、帰ったら早く寝ること」
「善処します」
「それ、やらない人の返事」
「……」
「図星?」
「先輩、そういうの好きですね」
「保健室向きだからね」
真琴先輩は扉の方へ顎をしゃくった。
「また無理そうだったら来て」
「できれば来たくないです」
「みんなそう言う」
その返し方が、妙に自然で笑いそうになる。
保健室を出る直前、真琴先輩がぽつりと言った。
「御影くんって、寝不足か疲労が顔に出にくいタイプだよね」
振り返る。
「出てますよね、今」
「今はちょっとだけね」
真琴先輩は少しだけ目を細めた。
「でも普段は、たぶん本人より先に周り見てるから、ズレるんだと思う」
その一言が、妙に残る。
「……何ですか、それ」
「ただの感想」
真琴先輩は軽く手を振った。
「じゃ、また」
また、か。
最近本当に、その言葉が増えた。
◇
教室へ戻る途中、廊下の角で日和と鉢合わせた。
「あっ」
日和は俺を見るなり、分かりやすく表情を明るくする。
「どうだった?」
「何が」
「保健室」
「大したことなかった」
「ほんと?」
「ほんとだ」
そう返すと、日和は少しだけ目を細めた。
「でも、ちょっと顔戻った」
やっぱり言うのか。
「分かりやすいな」
「見てるからね」
そこを堂々と言うな。
日和は少しだけ肩の力を抜いて笑った。
「よかった」
「……お前、ほんとに保護者みたいだな」
「違うよ」
「じゃあ何だ」
日和は少しだけ考えてから、いたずらっぽく言う。
「味方?」
その言葉に、一瞬だけ息が止まる。
味方。
そんな簡単な言葉で片づけてほしくない。
でも、嫌だとも言い切れない。
「……軽いな」
結局そう返すと、日和は笑った。
「軽く言った方が、御影くん受け取りやすそうだから」
そこまで考えるな。
でも、そのやり方は正しいのかもしれない。
重く言われると、俺はたぶんすぐ構える。
「じゃ、教室戻ろ」
日和が先に歩き出す。
その背中を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
早瀬真琴。
日和。
そして教室には凛もいる。
見てくる人間が、また一人増えた。
そのことが面倒で、少しだけ心強いと感じてしまうのが、何より面倒だった。




