第22話 御影理沙は、“変わった弟”を黙って見ている
家に帰ると、たまに分からなくなる。
ここが“御影悠真の家”なのか、それとも“俺が今いる場所”なのか。
理屈で言えば同じことだ。
今の俺は御影悠真で、この家は御影家で、俺の部屋は二階の突き当たりにある。
使う食器の位置も、風呂の湯の癖も、階段の一段目だけ少し軋むことも、もうとっくに覚えている。
なのに時々、ふっと距離ができる。
玄関の扉を開ける瞬間とか、食卓で椅子を引く瞬間とか、名前を呼ばれた時とか。
それが俺の人生の続きなのか、まだどこかで迷う時がある。
木曜の夜、帰宅した俺を迎えたのは、キッチンから流れてくる出汁の匂いだった。
「おかえり、悠真くん」
その声を聞いた瞬間だけ、肩の力が少し抜ける。
御影理沙。義姉。
穏やかで、気配りができて、でも踏み込みすぎない人。
この家で一番“空気を読んでいる”のは、たぶん父じゃなくて理沙だ。
「ただいま」
「今日はちょっと遅かったね」
「寄り道」
「図書室じゃない方?」
何でだよ。
靴を脱ぎながら思わず顔を上げると、理沙はエプロン姿のまま、楽しそうでもからかうでもない顔でこちらを見ていた。
「何で分かる」
「本の匂いがしないから」
「前にもそれ言ってたな」
「便利でしょ?」
何でみんなそんな言葉の使い方をするんだ。
理沙はそこでふっと笑った。
「生徒会室とか?」
今度は心臓が少しだけ嫌な跳ね方をした。
「……」
「あ、当たり?」
「何でそうなる」
「今日はちょっと顔が固いから」
やっぱりそこか。
最近、本当にみんなして人の顔を見すぎだろ。
「別に、大したことじゃない」
「そういう時の“別に”って、大したことなくないんだよね」
台所の火を弱めながら、理沙はさらっと言う。
「ごはんできるまで少しかかるから、着替えておいで」
「……はいはい」
反論するタイミングを失って、俺はそのまま二階へ上がった。
◇
制服を脱いで部屋着に着替えながら、俺は自分の顔を洗面台の鏡で見る。
確かに少し固い。
橘先輩と会った日の夜だから、当然と言えば当然だ。
あの人の言葉は、あとからじわじわ効いてくる。
“誤解したままの方が楽な人もいる”
“周りはちゃんと見ている”
どちらも、俺にとっては面倒以外の何物でもない。
面倒だが、無視できない。
部屋へ戻ると、机の上には途中まで読んだ透子の文庫本が置いてあった。
しおりは後半に差し掛かったところ。
まだ感想をまとめるほど読み込めていない。
だが、ページをめくるたびに透子の言葉を思い出す。
読む時によって違って見える話。
今の御影先輩なら、前半と後半で受け取り方が変わると思う。
感想は聞きます。
重いな、本当に。
文庫本を伏せて机に置き直し、階下へ降りる。
食卓にはすでに夕食が並んでいた。
魚の煮つけ、味噌汁、小鉢がいくつか。派手ではないが丁寧な食事だ。
理沙はこういう“ちゃんとした日常”を、たぶんわざと崩さないようにしている。
「お父様、今日は遅いって」
席に着くなり、理沙がそう言った。
「そう」
「会食らしい」
「別にいい」
「悠真くん、ほんとそこは興味ないね」
「興味持てって方が無理だろ」
理沙は少しだけ困ったように笑う。
「そういうとこ、前よりはっきり言うようになった」
どきりとする。
まただ。
最近、自分の変化を指摘されることが増えすぎている。
「前って何だよ」
「前はもっと、言わないで終わらせてた」
「……」
「今は“別に興味ない”って言うでしょ」
理沙は箸を揃えながら言う。
「それ、私は嫌いじゃないよ」
その言い方は、軽いようで軽くない。
「褒めてるのか?」
「褒めてる」
「珍しいな」
「別に珍しくないよ」
理沙は柔らかく笑った。
「前より、ちゃんと“今ここにいる”感じがするから」
その一言は、妙に深く刺さった。
今ここにいる。
それが俺には、ひどく都合の悪い言葉に思える。
前世の記憶を持ったまま、この家にいて、この名前で呼ばれて、家族の席に座っている。
それを“今ここにいる感じ”と表現されると、逃げ場がなくなる。
理沙は俺が黙ったことを気にした様子もなく、味噌汁をよそいながら続ける。
「最近、学校で何かある?」
「あるように見えるか」
「見えるよ」
「何で」
「疲れ方が、家の中だけの疲れじゃないから」
さらっと言うな。
理沙はたぶん、鋭いのにそれを誇らない。
だから余計に厄介だ。
「学園でちょっと面倒なだけだ」
「友達?」
「友達って言うほどじゃない」
「女の子?」
「何でそうなる」
「顔」
「もういいよ、その文化」
ほんと何なんだ最近。
理沙はくすっと笑った。
「じゃあ、男の子?」
「その二択おかしいだろ」
「でも誰かはいるんだ」
しまった。
俺は箸を止めたまま、理沙を見る。
理沙は意地悪そうではなく、本当に何でもない顔をしていた。
だから余計に逃げにくい。
「……少しだけ、学園の空気が変わってる」
結局、そこだけ言うことにした。
「へえ」
「俺のせいかどうかは知らない」
「でも、少しは関係あると思ってるんだ」
「そう見えるのか?」
「うん」
理沙は即答する。
「悠真くん、最近すごく“人のこと見てる”顔する」
またそれか。
「何だよその顔」
「分かりやすく言うと」
理沙は少しだけ考えてから言った。
「自分のことより先に、誰かのことを考えてる顔」
思わず息を止める。
日和にも似たようなことを言われた。
透子にも、凛にも、もっと遠回しにだが近いことを指摘されている。
つまり、本当にそういう顔をしているのだろう。
「……してない」
弱い否定だった。
理沙は少しだけ眉を下げる。
「否定の仕方が弱い時は、だいたいそうなんだよね」
「お前、マジで何なんだ」
「家族」
それを真正面から言われると、妙に返せない。
理沙は味噌汁を一口飲んでから、静かに言った。
「前の悠真くんはね、もっと上手に何も言わなかったの」
「……」
「でも今の悠真くんは、上手じゃない」
「ひどいな」
「うん、でも」
理沙はそこで少しだけ笑う。
「私は今の方が好き」
その一言は、食卓の空気に静かに落ちた。
味噌汁の湯気が上がる。
箸が小鉢に触れる小さな音がする。
それだけの静かな食卓なのに、その言葉だけが妙に大きく感じられた。
「……」
何か返さなければと思うのに、適切な言葉が見つからない。
今の方が好き。
それはつまり、“前の悠真”と“今の俺”が違うという前提の上にある言葉に聞こえる。
理沙はそこまで断言していない。
ただ、変化を感じているだけかもしれない。
それでも十分すぎるくらい重かった。
「そういう顔しないで」
理沙が小さく言う。
「責めてるわけじゃないから」
「してない」
「してる」
そこでその流れに乗るな。
理沙は苦笑した。
「ごめん。でも本当だよ」
「何が」
「前より、ちゃんと人に怒るし、困るし、助けるし、疲れるでしょ」
そこまで見えるのか。
「完璧じゃない方が、人は安心するんだよ」
理沙はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「お父様は、そのへん下手だから」
そこで初めて、話題が父へ触れた。
「父さんが?」
「うん」
「……何で今その話になる」
「なんとなく」
理沙は曖昧に笑う。
「家の中でも、学校でも、ちゃんとしてる方が楽な人っているから」
その言葉で、昼の橘先輩の台詞が頭をよぎる。
誤解したままの方が楽な人もいる。
家の中でも、学校でも、ちゃんとしてる方が楽な人っている。
同じことを違う角度で言われているようで、背筋が少しだけ冷えた。
「……父さん、何か言ってたのか」
「何も」
「ほんとか」
「ほんと」
理沙は即答した。
「でも、見てはいると思う」
「何を」
「悠真くんのこと」
嫌な答えだ。
見ている。
でも何も言わない。
それは父らしいと言えば父らしい。
御影家の当主として、感情を表に出さず、必要以上に近づかず、ただ結果だけを見るような人。
そういう印象がある。
少なくとも今の俺には。
「……見てるだけならいい」
小さく言うと、理沙は少しだけ目を細めた。
「本当に?」
「何だよ」
「見られるの、嫌いじゃない?」
またそれだ。
最近、どいつもこいつも人を見るだの見られるだの、そういう話ばかりする。
嫌いだ。
正直、かなり。
だがそれをそのまま言うのも違う気がして、少しだけ間を置いた。
「……嫌いというか、面倒だ」
「うん」
「変に理解され始めるともっと面倒だ」
「それも分かる」
理沙は頷く。
「でも、ずっと誤解されたままも疲れるよ」
その言葉は、橘先輩の台詞と似ている。
たぶん、本当にそうなんだろう。
俺が黙ったままだと、理沙はそれ以上追い詰めず、話題を切り替えるように小鉢を勧めてきた。
「冷める前に食べなよ」
「ああ」
「今日は煮つけ、ちょっと味濃いめ」
「へえ」
「疲れてる時はその方がいいかなって」
そういうところだよ。
本当に。
◇
夕食を終えたあと、理沙は食器を片づけながらふと思い出したように言った。
「そうだ」
「何」
「今度、学校の行事予定見せて」
「何で」
「文化祭とか、体育祭とか」
「興味あるのか」
「あるよ。悠真くんがどういうところで生活してるか」
理沙は振り返って少し笑う。
「見てみたいし」
そういう“見たい”は、学園の誰かに言われるのとはまた違う重さがある。
家族として。
たぶんそういう意味で。
「そのくらいなら別に」
「ありがとう」
「……別に」
「それ、ほんと便利だね」
やめろ。
お前まで使うな。
二階へ戻って自室に入ると、机の上の文庫本が目に入る。
透子から借りた本。
しおりはまだ後半に挟まったままだ。
ベッドに腰を下ろし、スマホのメモを開く。
理沙:今の方が好き。変化に気づいている。父も見ている可能性。
家:ちゃんとしてる方が楽な人、誤解されたままの方が楽な人。
橘修の台詞と類似。
打ち込みながら、自分で嫌になる。
家族との会話まで記録する高校生がどこにいる。
でも、こうして残しておかないと、何がどこでつながっているのか分からなくなる。
文庫本を開く。
透子の言った通り、確かに後半で印象が変わる話だった。
最初は冷たいだけに見えた人物が、後半になるほど別の輪郭を持ち始める。
「……最悪だな」
小さく呟く。
何がだよ、と自分でも思う。
でも、本の内容も、今日言われたことも、全部どこかでつながって見えた。
最初の印象だけでは分からない。
誤解されたままの方が楽な人もいる。
でも、それがずっと続くわけでもない。
理沙は“変わった弟”を黙って見ている。
たぶん、かなり前から。
そのことが、思っていたより重かった。
家の中でまで、自分の変化を見られている。
それは息苦しいはずなのに、理沙相手だと少しだけ楽でもある。
そう感じる自分が、さらに面倒だった。
ページをめくる。
夜は静かだ。
けれど、その静けさの中で、学園のことも家のことも、少しずつどこかでつながり始めている気がした。




