第21話 橘修は、何も知らない顔で核心の近くを歩く
橘修という人は、妙に距離感がうまい。
近すぎない。
でも、遠すぎもしない。
柔らかく笑って、相手を警戒させないまま、気づけば一歩ぶんだけ内側に入っている。
そういうタイプは苦手だ。
黒瀬凛みたいに、最初から「あなたを見ています」と態度で示してくれる方がまだ楽だ。朝比奈日和みたいに、感覚で見ていることが分かる相手も、厄介ではあるが対処のしようはある。白峰透子みたいに静かに覚えている相手は怖いが、少なくとも反応の仕方が一貫している。
でも橘修は違う。
あの人は、見ていること自体を見せない。
見ていないふりが、たぶん一番うまい。
木曜の昼休み。
俺は購買へ行く気にもなれず、自分の席で適当に昼を済ませていた。相馬はパン争奪戦へ消え、日和は前の方で友人たちと弁当を広げ、凛は委員会の連絡で一度教室を出ている。
教室の空気はいつも通りだ。
……いや、やっぱり違うのかもしれない。
以前なら俺の周りはもう少し、誰も近寄らない種類の空白があった。
今はそこまでじゃない。
話しかけられる回数が劇的に増えたわけではないし、輪の中心にいるわけでもない。
それでも、完全な孤立ではなくなっている。
それが一番面倒だった。
「御影」
不意に担任に呼ばれて顔を上げる。
「何ですか」
「生徒会室にこれ持っていってくれ」
差し出されたのは封筒だった。
薄い。書類だろう。
「俺ですか」
「今手が空いてるの、お前くらいだ」
「空いてないです」
「飯食い終わってるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
「いいから行ってこい」
雑だな。
反論を飲み込み、封筒を受け取って立ち上がる。
教室を出る瞬間、日和が「いってらっしゃい」と小さく手を振ってきて、俺は思わず少しだけ眉を寄せた。
何だその距離感。
やめろ。本当に。
◇
生徒会室は本棟の三階にある。
昼休みの廊下は人の行き来が多い。移動教室へ向かうやつ、購買から戻るやつ、手洗い場で騒いでいるやつ。
そのざわめきの中を歩きながら、俺はなんとなく嫌な予感がしていた。
理由は分かっている。
生徒会室に橘修がいる可能性が高いからだ。
案の定、扉をノックして中へ入ると、先に顔を上げたのは橘先輩だった。
「あれ、御影くん」
「担任にこれ持ってこいって言われました」
封筒を差し出すと、橘先輩は椅子から立ち上がって受け取る。
「ありがとう」
「別に」
「それ便利な言葉なんだね」
やめろ。
そんなところまで広がってるのか。
生徒会室には橘先輩のほかに、女子の先輩が二人いた。書類を整理しているらしい。
用件は済んだし、すぐに出るつもりだった。
「少しだけいい?」
橘先輩が柔らかい声で言う。
嫌な予感しかしない。
「何ですか」
「時間を取らせるほどじゃないんだけど」
その前置きが一番信用できないんだよ。
橘先輩は封筒を机に置き、何でもない調子で続ける。
「最近、二年の空気が少し変わったよね」
またそれか。
「そうですか」
「うん。前より、変に張ってない感じ」
「外から見て分かるものなんですか」
「案外ね」
橘先輩は笑う。
「学年の空気って、離れて見る方が分かることもあるよ」
その言い方が、妙に引っかかる。
離れて見る方が分かる。
つまりこの人は、近くで混ざるより“外から全体を見る”ことに慣れているのだ。
それは生徒会副会長として当然なのかもしれない。
けれど、だからこそ怖い。
「御影くんも、その中心にいるみたいだし」
心臓が、一瞬だけ妙な跳ね方をする。
「買いかぶりです」
「そうかな」
「そうです」
即答すると、橘先輩は少しだけ目を細めた。
「そういうところ、前より素直じゃなくなった?」
「前からこうです」
「うーん、前より“返し方に温度がある”気がする」
何だその観測。
俺が黙っていると、橘先輩は窓の外へ一度だけ視線をやった。
「人の空気ってね、急に変わることもあるけど、だいたいは静かに広がるんだよ」
「……」
「一人の感じ方が、二人に伝わって、三人目にはなんとなく噂みたいになって、気づけば“そういうもの”になる」
穏やかな声だ。
でも言っていることは妙に核心に近い。
「何が言いたいんですか」
少しだけ低く返すと、橘先輩はこっちを見る。
「別に。面白いなと思って」
「面白がらないでください」
「怒るんだ」
「……」
「前なら、そういう時もっと無関心そうな顔してたよ」
やめろ。
ほんとにやめてくれ。
この人は、ずるい。
相手を追い詰めない距離で、でもしっかり反応を拾う。
俺が黙ったままでいると、橘先輩は少しだけ困ったように笑った。
「ごめん。責めたいわけじゃないんだ」
「そう見えません」
「だろうね。でも本当に違うよ」
そこで橘先輩は、ほんのわずかに声の調子を変えた。
「君のこと、誤解したままの方が楽な人もいるかもしれないなって思っただけ」
その言葉に、喉の奥が少しだけ詰まる。
誤解したままの方が楽。
それは、たぶん本当だ。
“感じが悪い近寄りがたい男”で止まってくれていた方が、俺も楽だし、周囲も楽だった。
変に理解され始めるから面倒になる。
でも橘先輩の言い方は、そこにもう一つ意味を含んでいる気がした。
学園だけじゃない。
もっと別の場所でも。
「……何を知ってるんですか」
思わず口をついて出る。
橘先輩は一瞬だけ目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「それ、何について?」
ずるい。
本当にずるい。
「……別に」
「出た」
その返しを面白がるな。
生徒会室の空気は静かだった。
他の先輩たちは書類仕事に集中している。こちらの会話にはほとんど関心がないように見える。
でも、だからこそ余計に逃げ場がない。
橘先輩は少しだけ声を落とした。
「御影くん」
「何ですか」
「君、最近たぶん、自分で思ってる以上に人の視線を集めてるよ」
「……」
「悪い意味だけじゃなくてね」
「それが面倒なんです」
つい本音が漏れる。
橘先輩は少しだけ笑った。
「うん、知ってる」
「知ってるって何ですか」
「そういう顔してるから」
何なんだ、本当に。
最近、みんなそればっかりだ。
「でも」
橘先輩はそこで、ほんの少しだけ真面目な顔になった。
「君が思ってるより、周りはちゃんと見てるよ」
その言葉は、やけに静かだった。
「それが君にとって都合が悪いこともあるだろうけど、全部が悪いわけでもない」
「……」
「誤解がほどけるのって、面倒だけど悪いことじゃないから」
返事ができない。
誤解がほどける。
その言い方をされると、まるで今までの俺が本当に誤解されていただけみたいじゃないか。
でも実際には、原作の御影悠真は誤解されていただけの人間ではない。
俺はその皮を着ている。
だからこそ、誤解がほどけていくことに居心地の悪さがある。
「……用が済んだなら戻ります」
それだけ言うと、橘先輩は引き留めなかった。
「うん。ありがとう」
柔らかい声。
そのくせ、最後に一言だけ追加する。
「また話そう」
やめてくれ。
それは本当にやめてほしい。
◇
教室へ戻る途中、廊下の窓に映った自分の顔を見る。
確かに、少し嫌そうだ。
橘修は何を知っている。
何をどこまで見ている。
そこが分からないのが一番厄介だった。
それに、さっきの“誤解したままの方が楽な人もいる”という言葉。
あれはどう考えても学園の空気の話だけじゃない。
御影家のことか。
それとも父のことか。
あるいは、ただ俺が勝手に過剰反応しているだけなのか。
そこが分からない。
分からないのが怖い。
教室へ戻ると、相馬がすぐに振り返った。
「遅かったな」
「ちょっと捕まった」
「橘先輩?」
「そう」
「何言われた」
「別に」
「出たよ」
相馬は呆れたように笑う。
「でもさ、お前、今めちゃくちゃ嫌そうな顔してるぞ」
「放っておけ」
「それは無理だなあ」
そう言ってから、相馬は少しだけ真面目な声で続ける。
「橘先輩、うちの学年のこと結構見てるから」
「知ってる」
「で、お前のこともたぶん見てる」
「それも知ってる」
「ならいい」
良くはない。
だが、ここで相馬に聞いたところで分かることも少ない。
相馬は空気の変化には敏感だが、その中身まで丁寧に掘るタイプじゃない。
昼休みの残り時間は短い。
席へ着くと、日和が前方から視線を寄越してきた。
俺の顔色を見て、少しだけ眉を下げる。
やめろ。
そこでまた気づくな。
だが、日和は何も言わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ首を傾けて、“大丈夫?”と口だけで言う。
俺は返事の代わりに、ほんのわずかに顎を引いた。
これで伝わるのかは知らない。
でも、さっきの橘先輩との会話のあとで、あまり強く否定する気力もなかった。
◇
午後の授業は、いつも以上に長く感じた。
英語、古典、ホームルーム。
何をしていても、頭の片隅で橘先輩の言葉が反芻される。
周りはちゃんと見てる。
誤解がほどけるのは面倒だけど悪いことじゃない。
そんなの、俺が一番信じたくない類の言葉だ。
信じた瞬間に、立っている場所が揺らぐ。
放課後、教室の人が減り始めた頃、凛がこちらへ来た。
「御影」
「何」
「橘先輩に会いましたか」
何で分かる。
「……何でそうなる」
「今日の顔です」
「便利だなお前らの顔診断」
「御影が分かりやすいんです」
凛はまっすぐこちらを見る。
「何か言われました?」
「別に」
「その返し、そろそろ通じないの知っていますよね」
「知ってる」
「なら」
「学年の空気が変わったって」
短く言うと、凛は一度だけ目を伏せた。
「やっぱり」
「お前も思ってたのか」
「ええ」
凛は少しだけ声を落とす。
「最近、外から見ても分かるくらいには変わっています」
「最悪だな」
「そこまで言いますか」
「言う」
俺が即答すると、凛はわずかに眉を寄せた。
「私は、そこまで悪いことだとは思っていません」
「お前はな」
「御影は、前の空気の方が楽だったんですか」
その問いに、返事が少し遅れる。
楽だった。
間違いなく。
感じが悪い。
近寄りにくい。
それで終わるなら、余計な接触は減る。理解され始めるよりずっと安全だ。
「……楽ではあった」
正直に言うと、凛は少しだけ目を細めた。
「そうでしょうね」
「分かるなら聞くなよ」
「確認です」
「便利だな、その言葉」
「事実です」
そこで、凛はほんの少しだけ表情を和らげる。
「でも、前のままの方がよかったとは私は思いません」
「何で」
「その方が、間違って見ていたことになりますから」
その言葉は、凛らしすぎるほど凛らしかった。
正しさ。
見誤らないこと。
見て見ぬふりをしないこと。
黒瀬凛という人間は、そこから外れない。
「……面倒だなお前」
「知っています」
「何で平然としてるんだ」
「平然とはしていません」
凛は少しだけ視線を外した。
「私も、最近少し疲れています」
そう言われて、思わず黙る。
それは、たぶん本音だ。
「じゃあ休め」
「そう簡単にはいきません」
「だろうな」
「でも」
凛は小さく息を吐いた。
「御影が完璧ではないと分かったので、少しだけ楽です」
その言葉は、昼の続きみたいに胸へ落ちてくる。
「何だそれ」
「そのままの意味です」
「嬉しくない」
「私も、少しだけ複雑です」
そこでようやく、凛が本当に小さく笑った。
ああ、まずいなと思う。
橘先輩の言う通り、静かに広がっている。
それも、俺が想像していたよりずっと速く。
◇
校門へ向かう途中、ふと中庭の向こうを見ると、橘先輩が生徒会室の窓際で誰かと話しているのが見えた。
距離があるから会話は聞こえない。
でも、笑っているのに気を抜いていない顔をしている。
あの人はやっぱり怖い。
今の俺にとって、一番読みにくい相手かもしれない。
校門を出て、坂を下る。
春の終わりの風は、昼より少し冷たい。
空は薄い群青で、街の灯りがにじみ始めている。
橘修は、何も知らない顔で核心の近くを歩く。
そのことが、じわじわと効いてくる。
直接何かをされたわけじゃない。
でも、あの人に見られているというだけで、足元の地面が少し不安定になる。
それでも。
少なくとも今は、誰も壊れていない。
日和も、透子も、凛も、それぞれ違う形で前よりましな場所に立っている。
なら、まだ進むしかない。
橘修という新しい厄介さが増えたとしても、止まる理由にはならなかった。




