第18話 朝比奈日和は、今度は“見る側”に回り始める
朝比奈日和は、たぶん人の変化に気づくのが早い。
黒瀬凛みたいに、記録や事実を積み上げて「ここが変だ」と確かめるやり方じゃない。もっと曖昧で、もっと感覚的だ。
空気の流れとか、会話の温度とか、目の下のわずかな影とか、そういう言葉になりにくいものを拾う。
だから厄介だ。
理屈で詰められるのも面倒だが、感覚で拾われるのは別の意味で逃げ場がない。
火曜日の朝。
教室に入った瞬間から、今日は何となく嫌な予感がしていた。
理由は簡単だ。
朝比奈日和が、やたらこっちを見る。
いや、正確には、ちらちら見るというより、さりげなく視界の端に入れている感じだ。話しかけるほど不自然じゃない。でも、気にしているのは分かる。その程度の距離感で、朝から妙にこちらへ意識が向いている。
最悪だった。
こういう“さりげない観察”は、気づかれたと指摘しづらいくせに、されている側にはきっちり分かる。
「おはよう、御影くん」
案の定、席に着く前に声が飛んできた。
教室前方。日和が友人たちと話していた輪の中から、こちらを見ている。
笑顔はいつも通りだ。明るくて、押しつけがましくなくて、朝の教室に自然に馴染む笑い方。
でもその目は、少しだけ違う。
「……おはよう」
「今の、またちょっと間あった」
「気のせいだ」
「それ、ほんと便利だね」
「最近お前ら、その感想好きすぎないか」
ついそう返すと、日和の近くにいた女子が吹き出した。
「ほら、そういう返し。前より増えたよね」
「増えてない」
「増えてるって」
「測ったのか」
「体感」
「雑すぎるだろ」
小さな笑いが起きる。
以前なら、この手の会話に俺が自分から入ることは少なかった。いや、入らないようにしていた。
だが今は、完全に無視すると逆に不自然な気がして、つい短く返してしまう。
それがよくない。
少しずつ“話せるやつ”認定される流れは、確実に面倒の増える未来へつながる。
席に着くと、前から相馬が振り返ってきた。
「朝から人気者だな」
「どこが」
「いや、少なくとも前よりは話しかけやすくなった判定されてる」
「不本意だ」
「そこは一貫してるな」
相馬は笑ってから、少しだけ視線を横に流した。
「でも朝比奈、今日なんかお前のこと見てるよな」
「お前も見すぎだろ」
「俺はそういう生き物だから」
「進化失敗してんな」
「言い方ひどくない?」
相馬の軽口を受け流しながら、俺は無意識に日和の方を見てしまう。
日和は友人との会話に戻っていた。
けれど数秒後にはまた、ふとこちらへ視線を寄越す。
そして、俺が気づいたと分かると、何でもない顔で別の話題に戻る。
……確定だ。
こっちを見ている。
しかも、意識して見ていることを悟られない程度には器用に。
何がしたいんだ。
そう思いながらも、頭のどこかでは分かっている。
たぶん俺が先週、日和の無理に気づいたように、今度は日和が俺の方の変化を拾い始めているのだ。
面倒くさい。
でも、それを一方的に否定できないのがもっと面倒だった。
◇
一限目は数学だった。
板書を写し、問題を解き、教師に当てられないよう適度に真面目な顔をしておく。
いつも通りの時間だ。いつも通りのはずなのに、今日は集中が散る。
たぶん、昨日から小さいズレが多かったせいだ。
大きな事件は何も起きていない。
透子の周辺も、図書室も、日和の負担も、今のところは表向き落ち着いている。
その代わり、気づけば別のところで火種が増えている。
文化祭準備の連絡。
備品管理の雑な扱い。
教師が“頼みやすい生徒”に仕事を寄せる空気。
そして何より、俺に対する周囲の認識の変化。
こういうのは、何も起きていない時ほど不気味だ。
誰も壊れていない日がいちばん怖い。
そう感じるのは、たぶん俺が原作の“壊れ方”を知っているせいだろう。
「御影くん」
突然、小声で呼ばれて顔を上げる。
隣の列から、日和がこちらを見ていた。教師が黒板に向いている隙を狙っているらしい。
「何」
できるだけ小さく返す。
「消しゴム」
「は?」
「落とした」
視線を下へ向けると、たしかに日和の机の下あたりに白い消しゴムが転がっている。
俺の足元に近い。
しゃがんで拾い、机の端へ滑らせるように返すと、日和が小さく「ありがと」と口だけで言う。
その時、指先がほんの少しだけ机の縁を叩いた。
癖だ。考えごとをしている時に、何かに軽く触れるタイプのやつ。
数学の授業中に消しゴムを落としただけ。
それだけのことなのに、俺はそこで妙に嫌な違和感を覚えた。
日和は今、授業内容より別のことを考えている。
たぶん、俺のことだ。
授業が終わると同時に、日和は友人に呼ばれて前を向いた。
俺はノートを閉じながら、さっきの小さなやり取りを頭の中で反芻する。
何だこれ。
日和は本当に“見る側”へ回り始めているのかもしれない。
◇
二限目と三限目の間の休み時間、教室はいつもより少し騒がしかった。
体育のあるクラスが外へ移動する準備をしていて、廊下もざわついている。
相馬は後ろの席の男子とスマホゲームの話で盛り上がっていて、凛は委員会関係の連絡を受けに一度教室を出ていた。
日和はというと、前の方で友人と次の授業の確認をしながらも、やはり時々こちらを見る。
嫌になるくらい分かりやすい。
いや、分かる俺が嫌なのかもしれない。
相手の視線や温度差に敏感なのは、元々の性格というより、この世界に来てから身についた癖だ。
誰が何に傷つくかを先回りで読むために、人の細かい反応ばかり拾うようになった。
そうしているうちに、今度は自分が拾われる側になる。
因果応報というやつなのかもしれない。
「御影」
戻ってきた凛が、机の横で立ち止まる。
「何」
「次、移動教室です」
「知ってる」
「ならいいです」
「確認かよ」
「あなた、考えごとをしている時にたまに周囲が見えなくなるので」
そんなことまで観察されているのか。
「お前らほんと何なんだよ」
「何がですか」
「いちいち人のこと見すぎだろ」
俺が低く言うと、凛は数秒だけ黙ったあと、少しだけ視線を横へやった。
その先には、こっちを見ていた日和がいた。
目が合うと日和は何でもない顔で友人の方へ向き直る。
凛は小さくため息を吐いた。
「私だけではない、と言いたいんですか」
「……」
「否定しないんですね」
「面倒だからな」
「便利な言葉ですね、それも」
「お前、最近そればっかだな」
「御影の“気のせい”よりはましだと思います」
言い返す気力がわずかに削がれる。
凛はほんの少しだけ声を落とした。
「朝比奈さん、あなたのことを見ていますね」
「見れば分かる」
「ええ。分かります」
「それで?」
「別に」
「お前までそれ使うのか」
凛は少しだけ口元を緩めた。
「便利なので」
やめろ。本当に広まるだろそれ。
「気になるんじゃないですか」
「何が」
「あなたのことが」
「言い方やめろ」
「事実の話です」
「どこが事実だ」
「朝比奈さんが最近、あなたの顔色を見ているのは事実です」
そこは否定できない。
「……」
「それをどう受け取るかは、あなた次第ですが」
凛はそう言って、自席へ戻っていった。
面倒くさい。
でも、凛の言う通りでもある。
日和は今、俺を見ている。
前までは“助けてもらった人”としてか、“少し話しやすくなったクラスメイト”としてか、その程度だったはずだ。
けれど今はそこに、もう一歩別の意味が混ざっている。
助けられたから、今度はこっちも見る。
そういう、妙に真っ当なやつだ。朝比奈日和は。
◇
昼休み。
購買へ向かう流れをやり過ごし、自分の机で昼食の包みを開く。
相馬はパン戦争へ出て行き、凛は委員会の呼び出しで保健室の方へ行ったらしい。
教室の空気は少しゆるく、あちこちで弁当の匂いが混ざっている。
そんな中、日和が弁当箱を持ったまま俺の近くまでやってきた。
「隣いい?」
「何で」
「何でって……座っちゃだめ?」
「だめとは言ってない」
「じゃあいいじゃん」
勝手に結論を出すな。
日和は俺の斜め前の席を引き、向かい合わせにならない微妙な角度で座った。
たぶん真正面だと目立つから避けたのだろう。そういうところは妙に空気が読める。
「何だよ」
「んー……」
日和は箸を持ったまま、俺の顔をじっと見る。
「やっぱりちょっと疲れてる」
「その話まだ続けるのか」
「続ける」
「しつこいな」
「御影くんが認めるまで」
「認めたら終わるのか」
「たぶん少しは」
少しは、かよ。
俺は包みを開けながら低く返す。
「寝不足なだけだ」
「それも疲れてるって言わない?」
「……」
「ほら」
日和は少しだけ得意そうに笑った。
その笑い方が、前より柔らかい。
以前みたいに“明るく場を回すための笑い”だけではなくて、もっと個人的な感情が混ざっているように見える。
こういうところが怖い。
「何でそんなに気にするんだよ」
俺が聞くと、日和は一瞬だけ目を伏せた。
「見てくれたから」
「……」
「私のこと」
静かな声だった。
「だから、今度は私も見る」
それは、前に言った“おあいこ”の延長線上にある言葉なんだろう。
正しい。
すごく正しい。
正しいからこそ、返しづらい。
「見られても困る」
「知ってる」
「知ってるならやめろ」
「それも無理」
「何で」
日和は箸を置いて、ほんの少しだけ真面目な顔になった。
「御影くんって、自分のこと後回しにするじゃん」
「してない」
「してるよ」
「してない」
「その否定の速さがもう怪しいって」
日和は苦笑する。
「私が“平気です”って顔してた時とちょっと似てる」
そこで初めて、言葉が止まる。
やめろ。
そこを重ねるな。
でも、重ねられてしまう理由も分かっている。
相手の危うさに先に気づく人間は、自分の危うさを誤魔化しがちだ。
俺も、たぶんそういう顔をしているのかもしれない。
「……似てない」
「じゃあ、ちょっとだけ?」
「……」
「ほら、否定しない」
日和が少しだけ笑う。
その時、購買から戻ってきた相馬が、教室の入り口でこちらを見て「お」と声を漏らした。
「朝比奈、珍しいとこ座ってんな」
「たまにはね」
「へえ」
相馬の目が面白がっている。最悪だ。
「何だよその顔」
俺が言うと、相馬はパンの袋を机に置きながら肩をすくめた。
「いや別にー」
「絶対何か思ってるだろ」
「思ってるけど言わない方が面白いかなって」
「最低だな」
「知ってる」
最近みんな、そればっかだな。
日和は相馬の軽口を気にした様子もなく、弁当の卵焼きをつまみながら言う。
「とにかく、今日はちゃんと休んで」
「命令するな」
「お願い」
「変わってないだろ」
「じゃあお願い命令」
「最悪だ」
「ほら、ちょっと元気出た」
何だそれ。
でも、その通りでもあった。
面倒くさい会話のはずなのに、少しだけ肩の力が抜けている自分がいる。
それがまた、面倒だった。
◇
放課後。
今日は校内に大きなズレがないことを確認したあと、そのまま帰るつもりだった。
図書室にも寄らない。
透子との接触は増やしすぎたくないし、何より今日は自分の方が少し消耗している。
中庭脇の通路を通った時、ふと壁に肩を預けた。
少しだけ、息を吐く。
「……はぁ」
声にならないほど小さく吐き出したつもりだった。
だが。
「御影くん?」
後ろから聞こえた声に、心臓が嫌な跳ね方をする。
振り返ると、日和がいた。
購買の袋を片手に、少し驚いた顔をしている。
「何してんの」
「別に」
「その“別に”は今、たぶん違う」
「何が」
「何でもない時の顔じゃない」
日和は少しずつ近づいてくる。
でも踏み込みすぎない距離で止まった。
「何だよ」
「さっきからそういう顔してる」
「どんな」
「しんどそうな顔」
まっすぐすぎる。
「気のせいだ」
「またそれ」
「便利だからな」
「便利にしすぎ」
日和は少し困ったように笑う。
「御影くんさ、ほんとに自分のことは後回しだよね」
「してない」
「してる」
「根拠は」
「見てれば分かる」
その言い方に、少しだけ息が詰まる。
俺が人を見る時の言い回しだ。
そのまま返されると、妙に刺さる。
「……何でそこまで気にするんだよ」
「見たから」
「何を」
「御影くんが、ちょっと無理してる顔」
日和は少しだけ視線を落として、それから言う。
「私、前に御影くんに言われたのちゃんと覚えてるから」
「何を」
「抱えすぎるなって」
日和は小さく笑う。
「だから、今度は私が言う番」
それだけ言って、購買袋から紙パックのミルクティーを一本取り出した。
「はい」
「……何だこれ」
「差し入れ」
「いらない」
「いる」
「何で決めるんだよ」
「こういう時の御影くん、だいたい“いらない”って言うけど、ほんとはちょっと欲しい顔してる」
どんな顔だよ。
押し返す元気もなく、結局受け取る。
「……借りだぞ」
「うん、また今度返して」
「適当だな」
「そういう日もある」
日和は笑った。
その笑い方が、いつもの“周りを安心させる笑い”とは少し違う。
もっと個人的で、素直で、俺に向いた笑いだった。
俺は紙パックを見下ろしながら、ひどく困った気分になる。
助ける側が、助けられる。
そんな想定は最初からしていなかった。
していないから、どう受け止めていいのか分からない。
でも、少しだけ楽になったのは事実だった。
「……ありがとな」
小さく言うと、日和が目を瞬かせた。
「え」
「何だよ」
「今の、かなりレア」
「うるさい」
「でも、ちゃんと言うんだ」
「たまにはな」
「じゃあ、それでいいや」
日和は満足したみたいに笑って、少しだけ手を振った。
「ちゃんと帰って、ちゃんと寝てね」
「お前、母親か」
「違うよ」
「じゃあ何だ」
日和は少しだけ考えてから、悪戯っぽく言った。
「見てる側」
その一言を残して、友人たちの方へ戻っていく。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
見てる側。
前なら、日和はそういう立場じゃなかった。
見られる側で、気づかれない側で、抱え込む側だった。
でも今は違う。
少しずつ、自分のことも、他人のことも、見ようとしている。
それは良い変化だ。
分かっている。
分かっているからこそ、妙に胸が重かった。
◇
帰り道、駅までの坂を下りながら、俺はミルクティーを片手に考える。
誰も壊れていない。
今のところは。
でも、何も変わっていないわけじゃない。
むしろ人間関係の方は、原作よりずっと早く、ずっと静かに変わっている。
日和は“見る側”へ回り始めた。
透子は自分の感覚を少しずつ信じ始めた。
凛は俺を観察し続けたまま、それでも単純に切り捨てるのはやめている。
相馬は面白がりながらも、教室の空気の変化にちゃんと気づいている。
橘先輩まで、外からその変化を拾っている。
最初の好感度だけが狂い始めている。
そんな言い方は嫌いだ。
でも、たぶん一番正確だ。
信号待ちの間、紙パックにストローを刺す。
一口飲むと、思ったより甘かった。
「……甘すぎるだろ」
そう呟くと同時に、少しだけ笑いそうになった。
なんだかんだで、ちゃんと受け取って、ちゃんと飲んでいる自分が馬鹿みたいだ。
でも、悪くない。
少なくとも今は。
まだ先は長い。
まだ火種はある。
だから油断はできない。
それでも今日くらいは、少しだけ楽になったことを認めてもいいのかもしれない。
朝比奈日和は、今度は“見る側”に回り始める。
その変化はたぶん、原作にはなかった。
でも、だからこそ守れるものもあるのだと、今はそう思っておくことにした。




