第19話 白峰透子は、“気のせい”を減らし始める
白峰透子は、たぶん前より自分の感覚を疑わなくなっている。
それは良い変化のはずだ。
自分の机の上にいつの間にか置かれたメモ。
貸出札の位置。
返却棚の微妙なズレ。
そういう小さな違和感を、前までの透子なら一度飲み込んでいた。
――私の勘違いかもしれない。
――私が見落としただけかもしれない。
――気にしすぎる方が変かもしれない。
そうやって、自分の感覚の方を先に下げる。
原作の透子がじわじわ削られていったのは、たぶんそこだ。
誰かの悪意そのものより、悪意と呼ぶには曖昧な小さな違和感を全部“自分の方が間違っているのかもしれない”で処理し続けたことが、一番まずかった。
でも今は違う。
少なくとも、ほんの少しだけ。
火曜日の放課後。
俺は結局また図書室へ向かっていた。
昨日は行かなかった。距離を置いた方がいいと思ったからだ。
だが、一日空けてなお気になる時点で、たぶんもう諦めた方がいい。
透子の周辺は今もまだ、じわじわした不穏の手前にいる。
そして何より――。
あいつに貸された文庫本を、まだ半分も読めていない。
続きを読まなければ感想を聞くと言われている。
あの静かな顔で当然みたいに言い切られると、妙なところで無視しづらいのが厄介だった。
西棟二階。図書室の前で一度立ち止まり、ガラス越しに中を見る。
司書はいる。
利用者は少ない。
そして窓際の席に、やっぱり透子がいる。
今日は本を開いていた。
だが昨日までと違うのは、机の上に余計なものがないことだった。
ノート一冊。
文庫本一冊。
ペンケース。
それだけ。
以前なら机の端にしおり代わりのメモがあったり、図書委員会の棚番号控えみたいな紙が紛れていたりした。
それが今日は、妙に整理されている。
……俺が前に「机の上に余計なものを置くな」と言ったから、なのか。
そう思うと少しだけ頭が痛い。
図書室へ入り、適当な本を一冊抜いて、少し離れた席に座る。
まず周囲を確認する。
返却棚、貸出札、カウンター脇のワゴン、窓際席、司書の手元。
今のところ目立ったズレはない。
ページをめくるふりをしながら透子を見ると、あいつは本を読みながらも、時々ノートに短く何かを書き込んでいた。
また記録か。
だが前みたいな、何かに怯えるような書き方ではない。
もっと普通に、読書のメモを取っている時の手つきに近い。
少しだけ、肩の力が抜けている。
それが確認できただけで、今日ここへ来た意味はあった気がした。
「御影先輩」
静かな声で呼ばれ、顔を上げる。
いつの間にか透子がこちらを見ていた。
大きな声ではないのに、図書室では妙によく通る。
「何」
「その本、どこまで読みましたか」
何の脈絡もない質問だな。
手元の文庫を見下ろす。
透子に借りた方ではなく、今さっき棚から適当に抜いた本だ。
「まだ最初の方」
「そうですか」
「何で聞く」
「少し難しいところがあるので」
「お前、読んだことあるのか」
「あります」
透子は小さく頷いた。
「読む時によって印象が変わるので」
「またそれか」
「本当なので」
以前も聞いた台詞だ。
俺は少しだけ口元を歪める。
「お前、ほんとそれ好きだな」
「好きというより、そういう本が多いです」
「じゃあお前の選ぶ本の趣味だろ」
そう言うと、透子は一瞬だけ目を丸くして、それからほんの少しだけ笑った。
……前より、分かりやすく笑うようになったな。
「何だよ」
「いえ」
「何かあるだろ」
「御影先輩って、こういう会話は意外と続けますよね」
心臓が少しだけ嫌な跳ね方をする。
「どういう意味だ」
「前はもっと、聞かれたら終わり、みたいな返し方をすると思っていました」
「してるだろ」
「前より少ないです」
そこも観察されてるのかよ。
言い返そうとしたその時、図書室の入り口近くで小さな音がした。
司書がカウンター脇の返却箱から本を取り出す時に、しおり代わりに挟まっていた紙が一枚落ちたらしい。
薄いレシートサイズのメモ。
床にひらりと落ちたそれを、近くにいた一年女子が拾いかけて手を止めた。
「あれ、これ誰のだろ」
嫌な響きだ。
透子の肩が、ほんのわずかに固くなるのが見えた。
分かりやすい変化じゃない。
でも俺には分かる。
“また何か、自分の近くで認識違いが起きるかもしれない”と思った時の反応だ。
司書は困った顔でメモを受け取る。
「貸出の控えかしら……でもこの書き方、図書委員のものじゃないわね」
そこで、以前なら透子はたぶん黙っていた。
自分に関係ないかもしれない。
でも、自分の机の近くに落ちていたなら、自分が何か見落としたのかもしれない。
そう考えて、口を開く前に迷っていたはずだ。
だが今日は違った。
「それ」
透子が静かに言う。
「さっき、返却箱の本から落ちたものです」
司書が顔を上げる。
「見ていたの?」
「はい」
「そう、ありがとう。じゃあ今の利用者の本かしら」
一年女子が「あ、じゃあ私じゃないです」と首を振る。
別の生徒が「あ、それ私が借りた本かも」と言い出し、話はそこで収まった。
ほんの数十秒。
でも、その数十秒の中で、透子は自分の見たことをきちんと口にした。
自分の勘違いかもしれない、と一度飲み込まずに。
それを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。
良かった。
本当に小さなことだ。
でも、こういう小さな違いが後で効く。
騒ぎが収まったあと、透子が少しだけこちらを見る。
俺は視線だけで「何だよ」と返すと、透子はほんの少しだけ目を細めた。
自分でも気づいているのかもしれない。
前より、先に言えるようになっていることに。
「……」
本に視線を戻すふりをしながら、俺は内心で息を吐く。
これなら少しは、原作よりましな方へ進んでいるのかもしれない。
だが次の瞬間、その安堵を打ち消すように、透子が立ち上がってこちらへ来た。
「御影先輩」
「何」
「この前の本、どこまで読みましたか」
またそれかよ。
俺は鞄から借りた文庫本を出す。
しおりはちょうど半分より少し先に挟んであった。
「そこまで」
「早いですね」
「遅いって言ってただろお前」
「遅いとは言っていません」
「感想は聞くって言った」
「はい」
透子は本を覗き込む。
「そこまで読んだなら、終盤で印象が変わると思います」
「また読む時によって違うとか言うんだろ」
「それもあります」
「他にもあるのか」
「今の御影先輩なら、前半と後半で受け取り方が変わると思うので」
今の俺なら、か。
「何だそれ」
「言葉通りです」
「雑だな」
「たぶん、御影先輩って」
透子はそこで少しだけ考えるみたいに視線を落とした。
「前より、人のことを見すぎています」
ぐさりと来た。
「……」
「そういう顔をします」
「どんな」
「自分のことより先に、周りのことを考えている顔」
まっすぐすぎる。
この手のことを日和にも言われたばかりだ。
そして今、透子にまで言われる。
俺は思わず低く返す。
「お前ら、最近ほんと人の顔見すぎだろ」
「御影先輩が見ていたからです」
「何を」
「私たちを」
その言い方は静かだった。
静かなのに、妙に逃げ場がなかった。
透子は視線を逸らさず続ける。
「見ていたことを、見られるのは嫌ですか」
「嫌というか面倒だ」
「御影先輩らしいです」
「何だそれ」
「でも、私は少しだけ安心します」
また、その言葉か。
「何で」
「見られていたことが分かると、自分だけじゃなかったと思えるので」
その言葉は重い。
前にも似たようなことを言われた。
けれど今日は、もう少しはっきりしている。
自分の違和感を、自分だけが感じていたのではない。
そう思えることが、透子にとっては大きいのだ。
俺はしばらく何も言えなかった。
そういう反応を返されると、本当に困る。
「……そうか」
結局それしか言えず、透子は小さく頷いた。
「はい」
それから、少しだけ目を伏せる。
「だから、“気のせい”が少し減りました」
その一言に、胸の奥が確かに揺れる。
透子は、前より自分の感覚を疑わなくなっている。
俺が先に気づいてしまった小さなズレを、全部自分のせいにしなくなっている。
それは間違いなく、良い変化だ。
でも同時に、俺の知る原作からまた一歩離れたということでもある。
怖い。
でも、嬉しいとも思ってしまう。
そう思う自分がまた面倒だ。
◇
図書室を出る頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。
空は薄く曇り、校舎の窓に鈍い光が映っている。
階段を下りながら、俺はさっきの透子の言葉を何度も思い返していた。
“気のせい”が少し減りました。
たったそれだけのことなのに、妙に重い。
原作では、その逆だった。
違和感は増えるのに、自分の感覚への信頼は減っていく。
それが透子の孤立の始まりだった。
今は逆だ。
違和感に対して、自分で「見た」と言える。
「違ったかもしれない」ではなく、「少なくとも私はこう見た」と言える。
その差は大きい。
西棟の渡り廊下を歩いていると、窓の向こうに中庭が見えた。
ベンチの近くで日和が友人と笑っている。
少し離れた廊下では凛が委員会ファイルを持って歩いている。
誰も壊れていない。
今のところは。
その事実に、少しだけ肩の力が抜ける。
だが同時に、透子との距離の変化は確実に進んでいた。
原作ではなかったはずの、本の貸し借り。
図書室での短い会話。
そして、“見られていたことが分かると安心する”という言葉。
これはもう、ただの破滅回避では済まない段階に入っている気がする。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
風は少し冷たい。
校門を抜ける前に、一度だけ振り返る。
図書室のある西棟二階に明かりがついている。
あの静かな場所で、本当に小さなズレと、本当に小さな信頼が、少しずつ積み重なっている。
「……気のせい、ね」
小さく呟く。
俺が一番気のせいにしたいのは、たぶん自分の方だ。
変わっていく空気も、狂い始めた関係も、好感触みたいなものも、全部“勘違いなら楽だ”と思っている。
でも、たぶんもう無理だ。
透子は確かに変わった。
日和も変わっている。
凛もそうだ。
そしてその変化は、少なくとも今のところ悪い方向ではない。
だから、まだ先を読むのが怖くても、進むしかない。
白峰透子は、“気のせい”を減らし始める。
そのこと自体が、次の流れを変えていく気がしてならなかった。




