第17話 静かに変わったはずの空気は、静かすぎるほどよく広がる
人の認識が変わる瞬間というのは、もっと派手なものだと思っていた。
たとえば誰かをかばうとか、決定的な一言を言うとか、分かりやすい事件を解決するとか。そういう“物語らしい出来事”があって初めて、「あいつを見る目が変わった」と言えるのだと、どこかで勝手に思い込んでいた。
でも現実は、たぶんもっと地味だ。
しかも最悪な方向で地味だ。
月曜の朝、教室の引き戸を開けた瞬間、俺はそのことを嫌というほど思い知らされた。
何かが違う。
教室の空気そのものがまるごと変わったわけじゃない。誰かがわざわざ俺に話しかけてくるとか、朝の挨拶が増えたとか、そんな露骨な変化ではない。いつも通り、前の席では相馬が何か笑っていて、窓際では女子たちが週末の話をしていて、黒瀬凛は自分の机の上で連絡帳と配布物をきっちり並べている。
何も変わっていないように見える。
それなのに分かる。
視線の止まり方が違う。
以前までのそれが、「感じが悪い」「近寄りがたい」「何を考えているか分からない」で終わる視線だったとしたら、今のそれはもう一段階だけ先へ踏み込んでいる。つまり、“でも本当にそれだけか?”と、どこかで考え始めた視線だ。
やめてくれ。
そういう変化がいちばん面倒なんだ。
「おはよう、御影くん」
教室の前方から飛んできた明るい声に、俺は無意識に肩をこわばらせた。
朝比奈日和だ。
相変わらず、朝から声の温度が高い。高いが、前より少しだけ自然に俺の方へ届くようになっている気がする。それがまた困る。
「……おはよう」
返すと、日和がわざとらしく目を丸くした。
「今、ちょっと間があった」
「気のせいだ」
「出た」
日和が笑う。
「最近ほんとそれ便利に使うよね」
「便利だからな」
「認めた」
「別に隠してない」
「それも最近よく言う」
何なんだお前は。
近くにいた女子の一人が、そのやり取りを聞いてくすっと笑った。
「朝比奈さん、最近ほんと御影くんと普通に喋るよね」
「え、そうかな」
「そうだよ。前はもっと、あくまでクラスメイトです、って距離だったじゃん」
「どんな説明だよ」
つい口を挟むと、女子が「あ、ほら」と指をさした。
「そうやってちゃんと会話に入ってくるし」
「入ってない」
「入ってるよ」
「違う」
「はいはい」
軽い笑いが起きる。
最悪だ。
これだ。こういう小さいやり取りの積み重ねで、人の認識は変わっていく。しかも本人たちはその変化にほとんど自覚がない。何となく話しやすくなった、何となく前より返してくれるようになった、その程度の感覚でしかない。
だが俺にとっては、その“何となく”が死ぬほど面倒だった。
席に着くと、案の定、前の席から相馬が振り返ってきた。
「お前さ」
「何だよ」
「じわじわ教室に馴染んできてるな」
「してない」
「してるしてる。前より切り捨て方が浅い」
「意味分かんねえよ」
「前は会話の入り口ごと閉めてたのに、今は一応返してから閉める感じ」
「細かいな」
「人間観察が趣味なんで」
「最低だな」
「褒めんなって」
褒めてない。
俺は鞄から教科書を出しつつ、何気ないふりで教室全体を見渡した。
日和は友人たちと笑いながら話している。だが、たまにこちらを見る視線に以前ほどの遠慮がない。
凛は配布物を整理しながらも、こちらのやり取りが耳に入っているのか、時々視線を寄越してくる。あいつは相変わらず、見ていないふりが下手だ。
透子はいない。教室が違うから当然だ。それでも頭の片隅には、週末に貸したままになっている文庫本のことが残っている。
――いや、違うな。
正確には、文庫本のことじゃない。
透子の中の俺が、原作の“ただ感じの悪い先輩”から少し外れ始めていることが、ずっと引っかかっている。
日和も、凛も、透子も。
みんな違う方向から、少しずつ俺への認識を変え始めている。第一段階の破滅を避けた代償みたいに。
良いことだ。
たぶん、良いことのはずだ。
なのに安心できないのは、原作の地図が確実に狂い始めているからだろう。
「御影」
低い声に顔を上げると、凛が机の横に立っていた。
「何」
「これ、先生に出してきてください」
差し出されたのは朝の回収プリントの束だった。
「何で俺が」
「今日は提出当番でしょう」
「……」
言われて思い出す。
そうだった。朝のホームルームで担任が言っていた。二年A組の朝の提出当番、今週は俺だと。
完全に忘れていた。
凛がじっとこちらを見る。
「珍しいですね」
「何が」
「あなたが自分の担当を忘れるの」
「たまにはある」
「そういう日もあるんですか」
「あるだろ普通」
「そうですか」
凛はわずかに息を吐いてから、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「少し安心しました」
「何だそれ」
「あなた、妙なところだけ抜け目がないので」
「ひどい言い方だな」
「事実です」
「最近ほんと便利だな、その言葉」
「御影がよく使う“気のせい”よりは意味があると思います」
地味に刺してくるな。
プリントを受け取って立ち上がると、前の方から日和が声をかけてきた。
「あ、先生のとこ行くの?」
「当番だからな」
「そっか、ありがと」
「お前が礼を言うことじゃないだろ」
「でも言っとく」
軽い調子だ。
けれど、その軽さが前より少しだけ近い。そう感じてしまう時点で、もうかなり面倒だった。
俺は返事をせず、そのまま教室を出た。
◇
職員室へ向かう廊下は、まだ朝の雑多な空気を少しだけ引きずっている。
階段の踊り場から差し込む光は明るいが、校舎の古い床はそれを鈍く受け止めていて、妙に静かな印象があった。
歩きながら、頭の中ではさっきの教室の空気が何度も反芻される。
あれは良くない。
悪いことではない。だが良くない。
認識の変化は、行動の変化を生む。
行動が変われば、人間関係が変わる。
人間関係が変われば、原作の流れはさらに読めなくなる。
俺が避けたかったのは、まさにそこだ。
ただ嫌なやつと思われている方が楽だった。
少なくとも距離は一定に保たれる。
変に“あの人って思ってたより……”なんて方向へ進まなければ、余計な接触も増えない。
なのに今は、その余計な接触が静かに増え始めている。
職員室前まで来た時、向こうから歩いてくる人影が見えた。
三年のネクタイ。整った制服。穏やかな足取り。
橘修だ。
俺は無意識に少しだけ身構える。
この人はまだ読めない。
凛みたいにまっすぐ観察してくるわけでもない。相馬みたいに軽口で探ってくるわけでもない。
ただ柔らかく笑いながら、何となく核心に近いところへ触れてくる。
「おはよう、御影くん」
「……おはようございます」
「先生に用事?」
「提出物です」
「まじめだね」
「当番なだけです」
そう返すと、橘先輩は少しだけ目を細めた。
「そういう返し、前より柔らかくなったって聞いたよ」
「誰からですか」
「さあ」
「絶対相馬あたりだろ」
「どうかな」
橘先輩は楽しそうに言う。
この“どうかな”が嫌だ。
知っているのに言わない顔だ。
橘先輩は俺の手元のプリントを一瞥して、それから何でもない調子で続ける。
「今の二年、少し空気が柔らかいよね」
心臓が、ほんの一拍だけ遅れる。
「そうですか」
「うん。外から見てても分かるくらいには」
外から見てても。
そこまで広がっているのか。
俺が返事に困っていると、橘先輩は軽く笑った。
「別に悪い意味じゃないよ」
「……はあ」
「それだけ。じゃあ、また」
軽く手を上げ、そのまますれ違っていく。
何なんだ本当に。
あの人は、たぶん見えている。
全部じゃなくても、少なくとも“二年の空気が以前より滑らかになっている”ことくらいは。
そしてそういう変化を、ただの偶然では片づけていない気がする。
怖い。
そう思ってしまった時点で、俺の中でも橘修はかなり危険な位置へ入っていた。
◇
教室へ戻ると、ちょうど一限目が始まる直前だった。
席に着いた途端、相馬が振り返る。
「遅かったな」
「職員室混んでた」
「橘先輩と会った?」
「何で知ってる」
「見えた」
「お前やっぱり見すぎだろ」
「趣味なんで」
「最低だな」
「で、何か言われた?」
「別に」
「出た」
相馬が吹き出す。
「でも橘先輩、お前のこと見てるよな」
「……」
「いや、変な意味じゃなくて。最近ちょくちょく目で追ってる感じする」
やっぱりそう見えるか。
俺が何も言わないでいると、相馬は少しだけ真面目な顔になった。
「気をつけろよ」
「何を」
「橘先輩、優しいけどめちゃくちゃ頭いいから」
「知ってる」
「ならいい」
そこで担任が入ってきて、一限目が始まった。
授業そのものはいつも通りだ。
数学の式、英語の小テスト、現代文の本文。
いつも通りすぎて、かえって落ち着かない。
誰も壊れていない日は、いちばん怖い。
頭の中で、先週の日和との会話が蘇る。
“誰も壊れてない日は、ちょっとだけ安心してもいいんじゃない?”
あいつはそう言った。
その時は流した。
だが今、その言葉が少しだけ分かる気がする。
何も起きていない日を、ただ怖がるだけでは駄目なのかもしれない。
怖がるばかりでは、守ったものの意味まで見失いそうになる。
昼休み。
購買帰りの日和が、机の横に小さな飴を置いた。
「何だこれ」
「お礼」
「何の」
「前にミルクティーのお返しって言ったでしょ」
「いつの間にそんな話になった」
「私の中で」
「勝手だな」
「そういう日もある」
前に言われたのと同じ返しだ。
俺が飴を見下ろしていると、日和が少しだけ真面目な顔になる。
「御影くんさ」
「何」
「最近、前よりちゃんと怒るよね」
「は?」
「前はもっと、何言われても“どうでもいいです”って顔してた」
「そう見えてただけだ」
「うん。でも今は違う」
日和は飴の包みを指先で軽く押した。
「ちゃんと困ったり、嫌そうにしたりする」
「それの何がいいんだよ」
「分かりやすい」
その一言が妙に残る。
「前より、話しかけやすい」
またそれだ。
前より。
最近。
ちょっと変わった。
みんな同じようなことを言う。
俺は飴を持ち上げ、小さくため息を吐く。
「……面倒だな」
「ひど」
「お前らが勝手に変な認識してるだけだろ」
「でもほんとにそうだよ」
日和はきっぱり言う。
「前は“感じ悪いけど、たぶんそれで終わり”って感じだった」
「今は?」
「感じ悪いのに、放っておけない」
その言葉に、俺は思わず顔を上げる。
やめろ。
それは本当にやめてくれ。
だが日和はもう友人の方へ戻っていて、その背中に向かって文句を言う気も削がれた。
残された飴だけが机の上で妙に軽い。
◇
放課後、今日は図書室へ行かなかった。
理由は説明しにくい。
ただ、少し距離を置いた方がいい気がした。
透子との接触がここ数日で想定より増えすぎている。原作外の関係がこれ以上自然に積み上がるのは、さすがに危険だ。
だから代わりに、文化祭準備掲示と西棟の渡り廊下だけ確認して帰ることにする。
階段の踊り場で、白峰透子と鉢合わせた。
「あ」
小さく声を漏らしたのは向こうだった。
手には返却用らしい本が二冊。
「図書室」
「はい」
「今日は行かないんですね」
もうそこまで読まれているのか。
「たまにはな」
「そうですか」
透子は少しだけ視線を落とす。
ほんのわずかに、残念そうに見えたのは気のせいだと思いたい。
「本」
俺が短く言うと、透子が顔を上げた。
「まだ途中ですか」
「ああ」
「急がなくていいです」
「分かってる」
「でも、感想は聞きます」
「それは決定事項なんだな」
「はい」
きっぱりしている。
その時、下の階から足音が近づいた。
振り向くと凛が上がってくるところだった。
一瞬、三人の空気が止まる。
「……珍しい組み合わせですね」
凛が言う。
「たまたまだ」
俺が即答すると、透子が少し遅れて言った。
「たまたま、です」
そっちも合わせるな。
凛は俺と透子を見比べ、ほんの少しだけ目を細めた。
だが追及はしない。
「白峰さん、本の返却ですか」
「はい」
「今日は棚整理終わってるので、そのまま返せば大丈夫だと思います」
「ありがとうございます」
透子が軽く会釈する。
そのやり取りを眺めていて、俺は妙な感覚を覚えていた。
原作では、この三人がこんなふうに同じ踊り場で、こんな穏やかな温度で言葉を交わすことはなかったはずだ。
少なくとも俺の記憶にはない。
日和も、透子も、凛も。
それぞれ違う方向から俺を見始めている。
しかもまだ誰も、それを特別なことだとはっきり自覚していない。
ただ、静かに変わっている。
「御影先輩」
透子が小さく呼ぶ。
「何」
「本、読み終わったら」
「分かってる」
「忘れないでください」
「忘れない」
そう答えると、透子は小さく頷いて階段を上がっていった。
凛はその背中を見送り、次に俺を見る。
「白峰さん、前より柔らかいですね」
「……そうか」
「ええ」
凛は少しだけ間を置く。
「朝比奈さんもです」
「何が言いたい」
「いえ」
凛はほんの少しだけ口元を緩めた。
「最初の印象というものは、案外当てにならないんだなと」
それだけ言って、今度は下の階へ降りていく。
踊り場に一人残され、俺はしばらく動けなかった。
最初の印象は、案外当てにならない。
たぶんそれが、今の状況を一番短く表している。
◇
校門を出る頃には、空はかなり薄い群青へ変わっていた。
春の終わりの風は、昼より少しだけ冷たい。
坂を下りながら、俺は今日のことを反芻していた。
教室の空気。
橘先輩の言葉。
日和の飴。
透子の残念そうな目。
凛の“最初の印象は当てにならない”という言葉。
最初の好感度だけが狂い始めている。
そんなゲーム的な言い方は嫌いだ。
でも、感覚としてはそれに近かった。
俺は立ち止まり、振り返る。
鳳ヶ崎学園の校舎は、遠目には相変わらず穏やかで、何も変わっていないように見える。
だが中ではもう、確かに原作とは違う空気が流れ始めている。
それが良い方向なのか、悪い方向なのか。
まだ断言はできない。
ただ一つ言えるのは、もう“最初のまま”ではないということだ。
「……面倒だな」
小さく呟いて、俺は再び前を向く。
御影悠真は、原作ではヒロインを壊す側の男だった。
だが今、少なくとも彼女たちの認識の中では、そうではなくなり始めている。
それはたぶん、俺が望んだ結果に近い。
近いけれど、まったく安心できない。
むしろここから先の方が危ない。
人の印象が変わるということは、行動が変わるということだ。
行動が変われば、未来はもっと読めなくなる。
――それでも。
少なくとも今は、誰も壊れていない。
その事実だけを胸に置いて、俺は坂を下りていく。
まだ、先は長い。
だから明日もまた、崩れる前の音を拾っていくしかない。




