第16話 クズ役のはずなのに、最初の好感度だけが狂い始める
金曜の夕方、第一章の終わりみたいな空気が学園に満ちていた。
――いや、実際に章なんてものが存在するわけじゃない。
ここはゲームじゃない。
少なくとも、俺以外にとっては。
でも俺には分かる。
最初の分岐が、確かに終わったのだと。
透子は、最初の図書室トラブルで孤立しなかった。
日和は、何でも引き受ける空気から少し距離を取れた。
凛は、小さな管理ミスを背負わされる前に火種をいくつも回避している。
原作なら、ここから少しずつ空気が悪くなる。
けれど今はまだ、誰も決定的には傷ついていない。
放課後、教室に残っていたのは俺を含めて数人だけだった。
相馬は今日は先に帰るらしく、鞄を肩にかけながら言う。
「御影」
「何」
「今週、お前なんか頑張ってたな」
「嫌なまとめ方するな」
「いや、でも何となく」
「何となくで片づけるな」
「じゃあ、こっちの言い方にするか」
相馬は少しだけ真面目な顔になった。
「今週、クラスの空気ちょっと楽だった気がする」
その言葉に、返事が遅れる。
相馬は肩をすくめる。
「原因がお前かどうかまでは知らんけど」
「だろうな」
「でも、そういう時ってあるだろ。何かよく分かんないけど妙に変な流れにならない週」
「……」
「俺はそういうの、嫌いじゃない」
相馬はそこでふっと笑った。
「じゃ、また月曜」
「ああ」
軽く手を上げて出ていく背中を見送りながら、胸の奥に小さな熱が残る。
誰かが気づいている。
全部じゃなくても、空気の変化くらいは。
それは少しだけ、救いだった。
教室を出て廊下を歩く。
夕方の光が長く差し込み、窓の外ではグラウンドの端が薄い橙色に染まっていた。
渡り廊下の途中で、朝比奈日和に会う。
「あ、御影くん」
「何」
「今日ね」
「うん」
「先生に、最近ちょっと余裕あるねって言われた」
日和は少し照れたみたいに笑う。
「前より、顔が忙しくなさそうって」
「顔が忙しいって何だよ」
「分かんないけど、たぶんそういう感じ」
日和はくすくす笑う。
「だから、ちょっとだけ嬉しかった」
その言葉に、俺は短く頷くしかない。
「そうか」
「うん」
「ならよかったな」
「うん、ありがとう」
「俺に言うなよ」
「言うよ」
日和は当然みたいにそう言った。
その当然さが、やっぱりまだ怖い。
透子は西棟の階段前で会った。
今日は図書室帰りではなく、単に帰宅のタイミングが重なったらしい。
「御影先輩」
「何」
「本、もう少しで返せますか」
「早いな」
「読むのが」
「違う、俺がだ」
透子は少しだけ目を瞬かせ、それから小さく笑う。
「急がなくていいです」
「そうか」
「でも、感想は聞きたいです」
「面倒なこと言うな」
「覚えておきます」
やっぱり覚えるんだな。
「それと」
透子は少しだけ真面目な顔になる。
「今週、図書室で何も起きなくてよかったです」
その一言に、俺はほんの少し息を止める。
何も起きなくてよかった。
本人も、ちゃんとそう思っているのだ。
自分の周りの違和感を、ただの気のせいとして流し切っているわけではない。
「……そうだな」
「はい」
透子はそれ以上言わず、軽く会釈して階段を下りていった。
そして、昇降口近くでは黒瀬凛が待っていた。
「待ってたのか」
「違います」
「じゃあ何だ」
「たまたまです」
「お前までそれ使うな」
「便利なので」
完全に面白がっているだろ、それ。
凛は真顔のまま言う。
「今週、結果だけ見れば大きな問題は起きませんでした」
「そうだな」
「でも、私はまだ安心していません」
「知ってる」
「ただ」
凛は少しだけ視線を和らげた。
「今週に限って言えば、あなたがいてよかった場面はありました」
その言葉は、凛にしてはかなり大きい。
俺は少しだけ眉を上げる。
「珍しいこと言うな」
「事実なので」
「事実便利だな」
「ええ」
凛は小さく頷く。
「でも、だからといって全部許したわけではありません」
「分かってる」
「まだ決めていませんから」
「敵か味方か?」
凛は一瞬目を見開いて、それから少しだけ口元を緩めた。
「覚えていたんですね」
「そりゃな」
「……ええ、まだです」
「ならそのままでいい」
「はい」
それだけ言って、凛は先に靴を履き替えた。
校門へ向かう途中、ふと足を止める。
中庭の向こうから、橘修がこちらを見ていた。
生徒会副会長。
いつも穏やかで、柔らかい顔をしている先輩。
今週は何度か遠目に見たが、直接話してはいない。
橘先輩は、俺と目が合うとわずかに笑って会釈した。
ただそれだけだ。
だが、妙に“見ていた”感じがある。
何なんだ。
いや、今はまだいい。
今はそこまで手を回す余裕がない。
校門を出て、坂の途中で一度だけ振り返る。
鳳ヶ崎学園の校舎は、夕陽の色を受けて穏やかに見えた。
何事もなかったみたいな顔をしている。
今週、防げたものはいくつもある。
透子の最初の孤立。
日和の無自覚な疲弊の加速。
凛へ向かう管理責任の押しつけ。
そのどれも、まだ決定的には形になっていない。
良かった、はずだ。
なのに、胸の奥の緊張は消えない。
原作がズレている。
それは間違いない。
そしてズレるたびに、俺の知っている未来は少しずつ当てにならなくなる。
怖い。
でも同時に、もう分かってもいる。
原作通りでないからこそ、救えるのだ。
「……まだ始まったばかりか」
小さく呟く。
最初の破滅は避けられた。
その代わり、最初の好感度だけが妙に狂い始めている。
日和は俺を心配する。
透子は俺の言葉を覚えている。
凛は俺を理解しようとしている。
どれも原作にはない速度だ。
面倒だ。
怖い。
でも、たぶん悪いことばかりじゃない。
夕暮れの坂を下りながら、俺は自分に言い聞かせる。
まだ終わっていない。
むしろここからだ。
だからせめて、次の破滅が来る前に、また先回りするしかない。




