第12話 誰も壊れなかった日が、いちばん怖い
原作通りなら、もう少し空気は悪くなっているはずだった。
透子の周りには“何となくおかしい”が積もって、日和は頼られすぎて疲れを隠し始めて、凛は小さな管理ミスを背負わされる回数が増えている。
そういうじわじわした負債が、第一章の終盤で形になる。
だが今のところ、誰もそこまで壊れていない。
それは良いことだ。
良いことのはずなのに、俺はまったく安心できなかった。
火曜の帰り道、駅前の信号で立ち止まりながら、俺はスマホのメモを開く。
透子:最初の図書室トラブル回避。認識の共有あり。
日和:机上の雑務減少。文化祭委員断る。
凛:小トラブル記録から矛盾認識。俺への警戒継続。
現状:原作より悪化遅い。
最後の一行を見つめたまま、ため息が出る。
悪化が遅い。
つまり、原作との差分が増えている。
差分が増えれば、俺の知識は役に立ちづらくなる。
もちろん、役に立たなくなること自体は悪くない。原作通りに悲劇が来るよりはずっといい。
だが、先を読めなくなるのは怖い。
俺にとって原作知識は呪いであり、唯一の地図でもある。
その地図が少しずつ塗り替わっていく。
それは、正しい方向へ進んでいる証拠かもしれない。
でも、崖に近づいているのかもしれない。
「御影くん」
不意に声をかけられ、顔を上げる。
日和だった。
今日は一人ではなく、少し後ろに友人が二人いる。だが日和だけが先に信号のところまで来ていた。
「何」
「その顔またしてる」
「何の顔だよ」
「難しいこと考えてる顔」
「お前と相馬、同じこと言うな」
「え、相馬くんも言ってたの?」
「言ってた」
「じゃあ気のせいじゃないじゃん」
日和は少し笑って、それから急に真面目な顔になる。
「……ほんとに大丈夫?」
その問いは、たぶん“私のことを見てくれたから今度はこっちも見る”という意味だ。
厄介だ。
厄介だが、嫌じゃないのがさらに厄介だった。
「大丈夫だ」
「それ、私が言うとダメなやつって言ったよね」
「俺が言う分にはいい」
「ずるい」
「そういうもんだろ」
「そういうもんかなあ」
信号が青に変わる。
日和は歩き出しながら続ける。
「最近さ、なんかちょっとだけ楽なんだ」
「……」
「全部じゃないよ。でも前より、“私がやらなきゃ”って思う回数が減った」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
良かった。
少なくとも、無駄ではなかった。
「そっか」
「うん」
「ならいいだろ」
「いいんだけど」
「何だよ」
「その分、御影くんが変な顔してる」
やっぱりそこへ戻るのか。
日和は困ったように笑う。
「だから、ちょっとだけ心配」
返す言葉に迷い、俺はしばらく黙る。
日和もそれ以上急かさない。
その沈黙が妙に居心地悪くて、結局俺は小さく言うしかなかった。
「……誰も壊れてないと、逆に怖いんだよ」
言ってしまってから、何を言ってるんだと内心で頭を抱える。
だが日和は、変な顔をしなかった。
「壊れてないのに?」
「そうだ」
「なんで?」
「……その方が、次に何が来るか分からないだろ」
かなりぼかした。
でも、完全な嘘ではない。
日和は数秒考えてから、「あー……」と小さく頷く。
「備えてたテストがなくなると逆に落ち着かない、みたいな?」
「それはちょっと違う」
「違うんだ」
「もっと嫌な感じだ」
「でも、分からなくはないかも」
日和はそう言って、少しだけ柔らかく笑った。
「じゃあさ、誰も壊れてない日は、ちょっとだけ安心してもいいんじゃない?」
その言葉が、妙に残る。
安心してもいい。
俺はその発想を、あまり持っていなかったのかもしれない。




