第四記:声
足元のコケが、わずかに動いた。
「……今、動いた?」
しゃがみ込む。
触れる。
ひんやりしているのに。
奥で、何かが脈打っているような感覚。
「……気持ち悪いな」
風が、止んでいた。
さっきまで揺れていたコケも、ぴたりと動きを止めている。
「……静かすぎる」
嫌な予感がした。
ビルを出る。
外は相変わらず灰色で、どこまでも同じ景色が続いている。
なのに。
さっきまでとは、何かが違う。
「……?」
足を止める。
妙に、安心する。
「……なんだ、これ」
胸の奥にあったはずの不安が、少しだけ薄れている。
代わりに。
「……ここ、そんなに悪くないかもな」
思わず、そんな言葉が浮かぶ。
「……は?」
自分で言って、自分で驚く。
ありえない。
さっきまで、この星を“異常”だと思っていたはずなのに。
「安心してください」
すぐ後ろで、声がした。
「ここは安全です」
「っ!!」
振り向く。
誰もいない。
でも今のは、はっきりと耳元だった。
いや——
違う。
「……頭の中、か」
直接、響いている。
「ふざけるな……」
頭を振る。
「安心してください」
まただ。
「ここは安全です」
同じ言葉。
同じ声。
「……うるさい」
小さく呟く。
「安心してください」
「ここは安全です」
「安心してください」
「ここは安全です」
「……やめろ」
声が、重なる。増えていく。
「安心してください」
「ここは安全です」
「安心してください」
「ここは安全です」
「やめろ!!」
思わず叫ぶ。
その瞬間。
すべての声が、ぴたりと止まった。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
「……っ、はぁ……」
額に、冷たい汗が流れる。
「……なんなんだよ」
そのとき。
カチッ、と音がした。
近くのビルの壁。
壊れているはずのパネルに、わずかに光が灯る。
「……電気?」
ありえない。
誰もいないはずなのに。
ゆっくりと近づく。
パネルに、文字が浮かび上がる。
『適応処理 進行中』
「……適応?」
意味が分からない。
『対象:人間』
心臓が、大きく鳴る。
『安全状態へ移行』
「……っ」
後ずさる。
そのとき。
ふと、思った。
“それの何が悪いんだ?”
「……は?」
まただ。
自分じゃない考えが、混ざる。
“安全なら、それでいいじゃないか”
「違う……!」
頭を押さえる。
“怖い思いをしなくていい”
“苦しまなくていい”
“ここにいればいい”
「やめろ……!」
膝をつく。
視界が、揺れる。
そのとき。
ポケットの中で、何かが触れた。
「……っ」
取り出す。
メルセのスカーフの切れ端。
それと——
端末。
震える手で、再生する。
『……アッ君』
あの声。
『にげて』
「……っ」
意識が、引き戻される。
『ここ……だめ……』
ノイズ混じりの声。
でも、確かに“メルセ”だった。
「……そうだ」
息を整える。
「僕は……」
ゆっくりと立ち上がる。
「メルセを、探しに来たんだろ」
頭の中の声が、少しだけ遠のく。
「安心してください」
また聞こえる。
でも、さっきより弱い。
「……うるさい」
はっきりと、言い返す。
「ここは安全です」
「そんなわけあるか」
一歩、前に出る。
「助けてって言ってたじゃないか」
声は、もう揺れていなかった。
「……待ってろよ」
小さく呟く。
「絶対、連れて帰る」
その瞬間。
どこかで、機械音が鳴った。
まるで——
何かが、こちらを認識したみたいに。




