9.逆転
「——さて、そろそろ失礼しよう。」
エドワードはおもむろに立ち上がると、メリルへ手を伸ばした。
自分の手をそっと重ねる。父と娘の初めての触れ合いは、そんな些細な一瞬だった。
エドワードが去ったモーティス家は、張り詰めていた緊張が解れたように、いつもの穏やかさを取り戻した。だがそれも束の間、今度はメリルの待遇を公爵令嬢として相応しく整えるための準備が始まる。
今まで気兼ねなく接していた使用人たちから、「メリル様」と呼ばれ、恭しく頭を下げられる。自分は何も変わってないのに、周りの変化に追いついていけず、メリルはそっと目を伏せた。
自室も使用人棟から本邸へと移り、まだ慣れない空間に座る場所にさえ戸惑う。使用人棟の木漏れ日のような柔らかな陽射しと違い、大きな窓から燦々と陽光が降り注いでいた。
——一方その頃
セディは張り切った様子で仕切っていた。突然公爵令嬢となったメリルはドレスを持っていない。ひとまずセディは、自分の若い頃のドレスを直して着させることにした。
次々持ち運ばれるドレスに、「それは古めかしいわね」とか、「こちらよりあちらの方が明るくていいわ」など、一言指示を出す。
その横でソフィアは苦笑を隠しきれない。
「セディ様、そんなに慌てずともよろしいのでは。」
セディはパチンと閉じた扇子で手を叩くと、眉を上げソフィアの方を向く。
「いいえ、慌てずにいられましょうか。メリルは公爵令嬢になるんですよ!ああ、急ぎ仕立て屋を呼んでちょうだい。」
ソフィアは気圧され、思わず一歩下がった。
「ソフィアもですよ。あの公爵様のご様子では、すぐにお迎えにいらっしゃっても不思議ではないわ。抜かりなく準備を進めなければ。」
使命感に燃えるセディに、ソフィアは必死についていくのであった。
***
その日の夕食から、ソフィアとメリルは伯爵家と同じテーブルにつくことになった。
収穫祭やクリスマスなど、季節のお祝いや節目には、こうして同じ食卓を囲むこともあった。特別だった席は、普通の日常へと変わる。
物思いに耽っていたメリルに、ジョシュアが話しかけた。
「メリルが公爵令嬢だったなんて、驚いたよ。」
珍しく興奮気味に話すジョシュアは、グッとグラスのワインを煽った。
「私もです。」
そうクスリと答える。
「これで、身分の差もなくなったわけだ。これからはお兄様って呼んでくれるね?」
「ジョシュア!」
セディの叱責が飛ぶ。
「冗談ですよ、母上。」
そう笑いながらもジョシュアは隣のイーサンへ視線を向けた。
「でも、いっそのこと名実共に妹になってくれたら最高なんだけどなー。」
「ゴホッ!」
水を飲んでいたイーサンが盛大に咽せる。
「「ジョシュア!!」」
慌てたアルバートとセディの声が重なる。
「そんなに怒らなくても。」
ジョシュアは肩をすくめた。
食卓に一瞬、気まずい沈黙が流れる。
「私は嬉しいです。」
はにかむように答えるメリル。
「本当の妹のように思ってくれてるのね。」
心から嬉しそうに笑うメリルを見て、ジョシュアは吹き出した。
「ハハッ。」
イーサンは額を押さえ、小さくため息をついた。
***
自室に戻ったイーサンは、深く腰掛け目を閉じた。
(メリルが……公爵令嬢……)
今まで主と従に無理やり壁を作ってきたのに。
それが無意味だったなんて…。
メル。——ウィルダーバーン公爵令嬢。もう手の届かないところへ行ってしまうようだ。
机の引き出しから、一冊の本を取り出した。そっとページを開く。
そこには、色褪せたクリーム色の白星草が静かに挟まれていた。
指先でつまみ、かざして見る。
『願いが叶う金星』
願い……私の願いは…………
『僕がメルを守るよ』
幼い頃の約束を思い出す。
そうだ。メリルが公爵令嬢になったからこそ、もう身分を理由に諦める必要はない。ようやく堂々と隣に立てる日を目指せるのだ。己を磨き、優れた騎士になる。そして、真っ向から迎えに行こう。
拗らせ続けた自分の気持ちから、やっと前を向くことができた、そんな夜だった。
***
メリルが伯爵本邸に居住を移してから、数日が経った。
礼儀作法、ダンス、学問と令嬢教育が始まり、目まぐるしい日々を送っている。
(次は、マナーのレッスンね)
メリルは復習していた本を閉じ、移動しようと部屋を出た。廊下を歩いていると、向こうからイーサンがやってくる。
「メリル!……いや、メリル嬢。」
イーサンは畏まって頭を下げた。
「やめてください、イーサン様。」
メリルは慌てて首を振る。
「では、メリル、と呼んでも?」
胸に手を当て、顔だけ上げたイーサンがこちらを見上げる。
(できればメルと呼んでほしい……)
そんな願いを浮かべながら、微笑んだ。
「もちろんです。」
「メリルも昔のように話してくれないか。その……『イーサン様』は、やめてくれ。」
「ふふ、わかったわ。」
「……公爵邸へ行ってしまうんだな?」
「その予定よ。」
「私ももうすぐ出立だ。」
「……そうね。」
お互いが口を閉じ、沈黙が落ちる。
「メリル、離れていても君の幸せを祈っている。」
イーサンは半歩だけ距離を詰めると、メリルの髪をそっと撫でた。久しぶりに頭を触れられ、顔が熱くなる。
(昔はこうしてよく撫でてくれたのに)
懐かしさだけではない、甘く波打つ酔いに、恥ずかしさが混じる。
イーサンの手が離れてゆく。
「話せてよかった。」
イーサンは離した手をギュッと握り、去っていく。
メリルはしばらくその場を動けずにいた。




