10.出立
あの日を境に、メリルとイーサンは昔を取り戻したかのような穏やかな日々を過ごした。
嬉しい反面、この先のことを考えると、憂鬱な気持ちが顔を出す。
これからイーサンは王国騎士団へと旅立ち、自分はモーティス家を離れ公爵令嬢となる。イーサンが帰省しても、もうそこに自分はいない。それぞれの道を進んでも、イーサンに会えるのだろうか。そんな不安が気分を曇らせていた。
***
夏の暑さが落ち着いてきたある日、イーサンが王国騎士団へと出立する日を迎えた。
イーサンは騎士見習いの制服に身を包み、家族と別れの挨拶をしていた。
「父上、行って参ります。」
「モーティスの名に恥じぬ騎士となりなさい。」
イーサンはアルバートに頭を下げる。
アルバートはその勇姿をしっかり見つめていた。
次いでセディの前で止まる。
「母上、お体に気をつけて。」
「あなたも、無理はしないでちょうだい。」
涙ぐんだセディは、そっとイーサンを包み込み、別れを惜しんだ。
「兄上、あとは頼みます。」
「ああ。心配するな。胸張って行ってこい。」
いつものジョシュアの軽々しさはなりを潜め、真剣な顔つきで激励をする。
「ソフィア様、またお目にかかれる日までお元気で。」
「イーサン様も。ご活躍を願ってるわ。」
ソフィアが頷いてみせると、イーサンも微笑を漏らす。
ついにイーサンがメリルと向き合う。
「メリル。……行ってくる。」
「うん、いってらっしゃい。」
短く言葉を交わす。笑顔で見送ろう。そう決めていた。込み上げる寂しさを押し込み、無理にでも口角を上げる。
玄関前に並ぶ皆の顔を見渡して、静かに屋敷を見上げるイーサン。やがてゆっくりとこちらを向く。目が合った。互いの間に穏やかな風が吹き抜け、赤い髪がふわりと揺れた。
「行って参ります。」
その声と共に、馬車はゆっくりと王都へ向けて進み出した。
***
イーサンが出発して、半月後。エレナがモーティス家へ訪れた。
「メリル様、お目に掛かれて光栄です。」
見事なカーテシーで挨拶をするエレナ。
「エレナ様おやめください!」
「……ップ。」
エレナは笑いながら姿勢を崩した。
「ひどいですわ、エレナ様。」
そう頬を膨らませて抗議すれば、エレナはますます声を上げた。
「メリル、お久しぶりね。イーサン様が出立なされたと聞いて、お顔を見に来ましたの。」
笑いを収めたエレナが、首を傾げて口元を緩める。
「わざわざありがとうございます。エレナ様、私の部屋でお話ししませんか?」
そう声をかけ二人で部屋へ向かった。
まだ慣れない自分の部屋へ通し、側付きの者も下がらせる。メリルは自分の手でお茶を淹れもてなした。
「少しは落ち着いたのかしら?」
エレナはそう切り出した。
「それが、まだ……。」
首を振って俯くメリルを見つめ、エレナは静かに紅茶を口に運んだ。
「ねえ、公爵令嬢になっても、メリルはメリルよ。あなたなら大丈夫。」
エレナの言葉にハッと顔を上げる。
こちらを安心させるかのように微笑んだエレナと目があった。
(私は私。)
エレナの言葉を反芻すると、のしかかっていた公爵令嬢としての重みが少し軽くなったように感じる。
「エレナ様、これからも仲良くしてくださいますか?」
目が潤んでしまい、上目遣いで目を瞬かせる。
まるで捨てられた子猫のようなメリルのいじらしさは、エレナの胸を打ち抜いた。
「メリルーーー!」
ガバッと立ち上がったエレナに抱きしめられ、突然のことに二人そろって椅子から転げ落ちそうになった。
「ふふ、危なかったわ。」
顔を見合わせて笑い合い、体勢を立て直した頃には、カップの紅茶もほとんど空になっていた。
「それで?イーサン様はなんて言ったの?」
「幸せを願ってると、言ってくださいました。」
「……それだけ?」
「あと、その……髪を……」
「髪を?」
「撫でてくれました…。」
恥ずかしさに顔を覆ったメリルを見つめ、エレナはきょとんと目を丸くしたかと思うと、勢いよく身を乗り出した。
「あのイーサン様が!?やるじゃない!見直したわ。」
エレナがイーサンを褒めるのは珍しい。
「きっと、幼い頃の癖が出てしまったのでしょう。」
そうに違いない。きっと特別な意味なんてないわ。
「……そうね。そう言うことにしておきましょう。」
エレナは少し呆れたように、紅茶を飲み干したのだった。
***
秋も深まり、庭の木々も緑から赤や黄色に変わった頃、モーティスとの別れの日がやってきた。
アルバート、セディ、ジョシュアに加え、付き合いの深い使用人たちの顔も玄関前に集まっている。
母とセディは別れを惜しむかのように手を握り合っている。
「メリル。」
呼ばれて振り向けば、ジョシュアが両手を広げていた。
「ほら、おいで。」
「……ジョシュアお兄様!」
ジョシュアの胸に飛び込んだ。本当はここから離れたくない。モーティスでの温かな思い出が甦る。溢れ出た涙で視界が滲み、ジョシュアのシャツが濡れていく。しゃくりあげるその肩を、ジョシュアは優しく抱きしめた。
「メリル、もし辛かったら帰っておいで。お兄様が匿ってあげよう。」
「……ふふ。そうね。でもそんなことはできないわ。」
「はは。メリルならそう言うと思った。大丈夫。閣下はメリルを大切にしてくださるはずだ。安心していい。」
ジョシュアの確信を持った声で、少し落ち着きを取り戻す。
「ありがとう、ジョシュア様。」
「あれ?お兄様は?」
「ジョシュア、あまり引き留めてはなりませんよ。」
セディの声でジョシュアから離れ、涙を拭う。
「メリル、気をつけて。」
セディは目尻を押さえ、優しく微笑んだ。
父のようなアルバート、
もう一人の母のようなセディ、
兄のようなジョシュア。
三人の顔を改めて振り返り、また涙が込み上げそうになった。
「さ、行きましょう。」
母の声で馬車へと向かう。
黒塗りの立派な馬車の扉には、大輪の百合と二頭の馬が刻まれていた。馬車へ足を掛ける。その一歩は、もう後戻りのできない一歩だった。
メリルは、ウィルダーバーン公爵令嬢として、新たな人生を歩み始めた。




