4.募る想い
主人のいなくなったモーティス邸は、忙しくも静かな時間が流れていた。
イーサンの部屋の前——。足が止まる。幼い頃は無邪気にノブを回せたその扉を、メリルは立ち尽くして見つめた。十三歳のあの日から、その向こう側は遠い。
そっとドアノブを握る。冷たい金属の感触が、そのまま心まで沁みるようだった。メリルは回すことをせず、その場を去った。
十五歳のあの日、ホールで踊った秘密のダンスをきっかけに芽生えた恋心は、皮肉にもイーサンとの距離を遠ざけたように思う。
あの日以降のイーサンは、にこやかに笑っているのに、どこか張り詰めた空気を纏っていた。表面上はおかしな点はないのに、心の壁を感じる。
ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。
(初恋は実らないなんて、誰が言ったのかしら)
もう二度と、あの優しい声で「メル」と呼ばれることはないかもしれない。そう気づいた途端、メリルは堪えきれなくなり目を伏せた。横向きに丸まり体を抱きしめる。頬を伝う涙を拭っても、次から次へと溢れてくる。こんなに苦しい思いなら、恋なんて知らない方が良かった。
社交シーズンは二ヶ月続く。イーサンが王都に行ってしまえば、心も落ち着くかと思っていた。それなのに、日を追うごとに苦しさが増していく。
図書室に行けば、イーサンがいつも座っていた席へ腰掛け、机に頬を寄せる。もう温もりなんてあるはずがないのに、少しでもイーサンを感じたくて、行動してしまう。
次の日も、また次の日も、慣れることなんてできなくて、虚しさが募ってゆくだけ。
イーサンは騎士団入団を決めたらしい。本人から聞いたわけではないが、剣の稽古を真剣にやっていた姿を思い浮かべる。幼かった頃、『僕は騎士になるんだ。メルを守ってあげる。』そう誇らしげに言っていたことを思い出し、また心がじくりと痛んだ。
きっと社交シーズンが終われば、そう遠くない未来、イーサンは騎士団へと行ってしまうのだろう。イーサンのいない日常が、この先ずっと続くことを意味する。目が潤み、鼻の奥が痺れる。
「最近泣いてばかりだわ。」
まさか自分がこんなに泣き虫だったなんて。メリルは抱えきれない感情をどうすることもできずにいた。
夏の到来と共に、社交シーズンは終わりを迎えた。二ヶ月間、胸の痛みに堪えながら、この日を心待ちにしていた。
帰還の知らせが届く。期待と不安とが入り混じる中、身なりを整える。
外に出て母の隣に並び、主人の到着を待つ。段々と近づいてくる馬車に、自分の鼓動も大きくなっていく。
馬の嘶きと同時に頭を下げる。ソフィアは馬車から降りるセディに寄り添い、「おかえりなさいませ」と声をかけていた。
次々と砂利を踏み締める音が聞こえる。顔を上げれば、今まさにイーサンが降りようとしていた。ドア枠に手をかけ、ゆっくりと下車する。目線は下に向けられ、こちらを見ない。待ちに待ったイーサンの姿に顔が熱くなる。こちらを向いて欲しいような。でもまたあの貼り付けたような笑顔は見たくないような。複雑な感情でイーサンを見つめていた。イーサンが顔を上げてこちらを向く、その時——
「メリル。ただいま。お兄様におかえりは?」
いつのまにかメリルの横に立っていたジョシュアに声をかけられる。
「あ、ジョシュア様、おかえりなさいませ。」
慌ててジョシュアに向き直り、深々と頭を下げる。
「ジョシュア様、ねぇ。」
ジョシュアはわざと大きくため息をついた。
「ジョシュア、メリルを揶揄うのはおやめなさい。」
セディの叱責が聞こえ、ジョシュアは片眉を上げると、屋敷へと入って行った。
もう一度イーサンの方を振り向く。イーサンはこちらを見ていた。その瞬間嬉しさが胸いっぱいに広がった。だが、目が合ったと思ったのも束の間、すぐにイーサンは視線を逸らしてしまった。
隣を通り過ぎる背中に慌てて声をかける。
「おかえりなさいませ。」
イーサンは立ち止まった。
「ただいま。」
彼は顔をこちらへ向けたが、視線はどこか別の場所を彷徨っていた。すれ違いざまの短い挨拶。メリルはそっと目を閉じ、喉の奥からせり上がる苦味を必死に飲み込んだ。




