24.寸前
——期限まで、あと三日。
エドワードは執務室で、書きかけの返答文を前に唸っていた。婉曲な断りの文言をいくつ並べてみても、王家を納得させる「理由」だけが、どうしても埋まらない。
ソフィアが淹れ直した紅茶は、手をつけられないまま冷めている。
コンコン、と扉が叩かれた。
「失礼いたします。」
ヨーゼフが一通の封書を手に入ってくる。
「旦那様。モーティス伯爵家より、書状が届いております。」
「モーティス家から?」
エドワードは封書を受け取り、差出人へ目を落とす。
アルバート・モーティス。
この時期に届く、伯爵家からの書状。
「縁談か……?」
何気なく漏らした一言に、ソフィアが弾かれたように顔を上げた。
「……まさか。」
エドワードは封を切り、中へ目を通した。
読み進めるにつれ、その表情が変わっていく。
黙って隣へ書状を差し出すと、ソフィアは急いで受け取り、食い入るように文字を追った。
そして次の瞬間。
「ああ……!」
ソフィアは一度目を閉じると、震える手で書状を机の上に置いた。
「フィア、どうした。」
「早く……早くメリルに伝えてあげてください。」
涙ぐみながら訴えるソフィアを見つめ、エドワードは再び書状へ視線を戻す。
そこには、次男イーサン・モーティスと、公爵令嬢メリルとの婚約を願う、正式な申し入れが記されていた。
あの夜、ソフィアが「でも……」と言いかけて口を閉ざしたこと。
叙任式から戻った自分に、メリルが熱心にイーサン殿の様子を尋ねてきたこと。
剣技大会の日、貴賓席で祈るように手を組んでいた、娘の横顔。
そして、今日のこの書状。
すべてが、一本の線となって繋がっていく。
「……そういうことか。」
エドワードは指先で書状の端をなぞった。
「私にも分かるように説明してください。」
マリアが淡々と口を挟む。エドワードは苦笑し、頷いた。
「失礼しました。」
そして、ソフィアへ視線を向ける。
「フィア。」
ソフィアは目元を拭いながら話し始めた。
「以前から、もしかしたらと思っていました。あの子はイーサン様のお話になると、ほんの少しだけ表情が変わるんです。本当に小さな変化でしたから、私も確信はありませんでした。ですが先日、気になる方がいるのか尋ねた時……あの子は、答えませんでした。」
一度言葉を切り、ソフィアは続ける。
「あの沈黙で、確信したんです。それでも、私は何も言いませんでした。イーサン様のお気持ちも分からないのに、私たちが先に動いてしまえば、あの子たちから選ぶ権利を奪ってしまいます。それだけは、したくありませんでした。」
「王家の打診が届いてからも、か。」
「……はい。」
消え入りそうな返事だった。
娘の覚悟と、迫る期限。その板挟みで、この数日ソフィアがどれほど苦しんだか——エドワードは今になって思い知る。責める言葉など、あるはずもなかった。
「叙任式で見たが、イーサン殿は軍人として申し分ない青年だった。二年で主席騎士となった、あの尋常ではない努力も——今日の書状で、すべて納得がいった。」
マリアは何も言わずに目を閉じている。
反対の言葉は、出なかった。
やがてマリアは目を開くと、扇子の先で書状を指した。
「これで、王家への『理由』ができましたね。」
「ええ、母上。」
エドワードはヨーゼフへ視線を向ける。
「ヨーゼフ、メリルを呼んできてくれ。」
「かしこまりました。」
***
ヨーゼフの後について、メリルは執務室へ向かった。
「お父様、お呼びでしょうか。」
「入りなさい。」
「失礼します。」
部屋にはエドワードの他に、ソフィアとマリアの姿があった。三人分の視線が、一斉にこちらを向く。
「メリル。」
エドワードは肘をつき、手を組んだ。
「縁談が決まった。」
メリルは僅かに眉を上げ、真っ直ぐにエドワードを見返した。
(とうとう、決まってしまったのね。)
ザワザワと嫌な音を立てて、不安が広がってゆく。覚悟はしていたはずなのに、いざ告げられると、思った以上に苦しい。それでも、取り乱すまいと体の前で手を重ねた。自分で選んだ沈黙だ。今さら、誰を恨むこともできない。
「お相手は、モーティス伯爵家次男の、イーサン殿だ。」
「……え?」
思ってもいなかった名を聞いて、息が止まる。
「どういうことか、聞いてもよろしいですか。」
エドワードは安心させるように目元を緩めた。
「モーティス家から、正式な申し入れがあった。イーサン殿が、メリルと縁を結びたいと。」
(イーサンが……?)
言葉が耳をすり抜けていくようで、意味を掴むことができない。嬉しさと戸惑いが同時に押し寄せ、手が震え出す。
「本当に?」
「ああ、本当に。イーサン殿は、メリルを想っていると。」
理解は追いつかないのに、反射のように目の奥が熱くなる。口を歪め、瞬きを繰り返した。
ソフィアが寄り添い、そっと肩に手を置く。
堪えきれなくなったメリルは、両手で顔を覆った。
「受けてくれるか。」
エドワードの問いかけに、やっと頭の中で意味が形を帯びていく。
「はい!」
メリルは涙をこぼしながら、何度も頷いた。
***
メリルたちが退室し、静かになった執務室で、エドワードは一人、書状を手に取った。もう一度、初めから目を通す。
『ウィルダーバーン公爵 エドワード・ウィルダーバーン様
拝啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
突然の書状にて失礼を承知の上、お願いの儀がございます。
我が次男イーサンが、このたび王国騎士団にて主席で叙任されましたこと、すでにお耳に届いているかと存じます。本人はかねてより、貴公爵家のご令嬢メリル様への変わらぬ想いを抱いておりましたが、身分の隔たりを理由に、長らく胸の内にとどめておりました。
しかしながら此度、騎士として正式な地位を得たことを機に、本人より「今こそ、正々堂々と想いを伝えたい」との強い申し出がございました。
メリル様への想いは、幼き日より変わらぬものと、息子の様子から私自身も確信しております。
不躾なお願いとは存じますが、何卒ご検討賜りますようお願い申し上げます。
敬具
アルバート・モーティス』
読み終えたエドワードは、書状を畳んだ。
それから机へ向き直り、新しい便箋を広げる。王妃殿下への返答——数日のあいだ一文字も進まなかったその手紙が、今は迷いなく書けた。
『恐れながら、娘にはすでに婚約者が決まっております。』
偽りのない、ただ一つの理由。
ペンを置いたエドワードは、椅子の背に体を預け、長い息を吐いた。
想う人と結ばれる。自分の味わった苦しみを、子に味わわせずに済む。その安堵の中で——娘を手放す寂しさだけが、ゆっくりと胸に染みていった。
***
数日後、王宮。
王妃は届いたばかりの返書を読み終えると、傍らの息子へ目を向けた。
「キース。ウィルダーバーン公爵家のお話だけれど——ご令嬢には、婚約者がお決まりですって。」
「そうですか。」
キースの答えは、あまりにあっさりしていた。
「あら。存外、驚かないのね。」
「……お相手は、騎士では?」
今度は、王妃が目を瞬く番だった。
「まあ。どうして分かるの。」
キースはグラスを傾け、遠くを見るように目を細めた。
脳裏に浮かぶのは、春の競技場。完璧な公爵令嬢の仮面が、たった一人の剣士の名にほどけた、あの横顔。
「いいえ。——ただ、良いものを見たことがあるだけです。」
それ以上、キースは何も語らなかった。
王妃も深くは追わず、話はそれきりとなった。
***
同じ頃。色づいた野では——
イーサンが川辺に立ち、汚れた手を濯いでいた。水面のきらめきを目で追ううち、導かれるように、対岸へと視線が移る。
風に揺れる白星草の群れが、陽の光を受けてきらめいていた。
その白い花々の中に、一輪だけ——淡いクリーム色。
「……あった。」
見間違いではない。
次の瞬間、イーサンはためらわず、小川へ踏み込んだ。




