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金星の約束  作者: ロンネ


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2/12

2.すれ違い

 イーサンは図書室を出て自室へ戻った。

 

「ふう……」

 

 背伸びをするたびにふわふわと揺れるストロベリーブロンドの髪、必死に伸ばす細い腕、本を引っ掛けようと震える指先。メリルの後ろ姿を思い出し、ふっと自嘲気味に笑った。


『メル、踊らないか。』

 一年前、戸惑うメリルをダンスに誘った日のことが脳裏に蘇る。久しぶりに敬称を省いて呼ばれた名前に、甘く痺れるような目眩を感じた。「メル」「イーサン」——あの距離がどれほど恋しかったか。

 何度も母に抗うことを考えたが、伯爵家次男の自覚で律してきた。「メリルにも悪影響よ」そう言われれば、自分が我慢する方を選んだ。

 

 図書室で本を読むメリルを盗み見ては、仄かに湧き上がる愉悦に戸惑い、息を吐く。

 文字を追う視線。難しそうに寄る眉根、何か発見した時に見開かれる目、落ちてきた髪の毛を耳にかける仕草……

 その一つ一つを目に焼き付けていた。

 

 そうやって気づけばメリルを追ってしまう。声が聞こえれば、どんな顔をしているか想像し、一目見たい思いを押し殺した。会えば主従の壁に、胸が痛むと分かっていたから。

 そう自分を騙し続けた日々は、あの日限界を迎えた。

 

 イーサンと呼んでほしい——

 

 堂々と目の前に立ち、その手に触れ、腕の中に閉じ込めたい——

 

 そんな欲望が理性を突き破った瞬間、イーサンはメリルに声をかけていた。

 

 手を取り合った途端、今まで味わったことのない高揚感に包まれた。少なくとも拒まれてはいない。演奏も照明も何もない、人気のないホールにただ二人きり。世界がまるで切り取られたような感覚。

 一歩前へ進めば、メリルが下がる。二年前よりも体格差を感じる。動くたびに揺れる赤毛からメリルの柔らかな香りが鼻をくすぐる。空色の瞳がこちらを見て、微笑む。記憶の中で繰り返したメリルの姿は、今まさに花開こうとしていた。自分のものにしたい——その強い衝動のままメリルの体を傾けていた。

 

 驚くメリルの表情に、冷水をかけられたかのような背徳感が湧き起こる。

 我に返り、メリルを起こしてやれば、戸惑いがちにこちらを伺う目と合った。

 

「楽しかった。ありがとう。」

 

 自分の感情を悟られまいと、仮面を被りホールを後にした。


——コンコン


 ノックの音に思考が途切れる。入ってきたのは兄のジョシュアだった。


「イーサン、何ぼーっとしてる。メリルのことでも考えてた?」

 

 入ってきて早々、ジョシュアは愉快そうに口の端を上げた。

 

「兄さん、やめてください。それより何用ですか。」

 

 イーサンは話を逸らそうとした。否定しても、兄の愉悦を深めるだけだと分かっているからだ。

 

「ああ、お前この先どうするのかと思って。そろそろ十八になるだろ?本当に騎士団に入るのか?」

 

 この国では十八歳になれば、それぞれ将来の選択をしだす。次男であるイーサンは家督を継げない。以前から剣の稽古が好きで、そのまま騎士になるものと漠然と思っていた。でもそろそろ本当に考えなければならない。このままここにはいられない。

 

「はい、そのつもりです。」

「へぇ。お前はそれでいいの?うーん、まぁ今のままだと辛いだけだしな。距離を取るのもいいと思うよ。」

「何の話ですか。」

「わかってるくせに。俺の弟がこーんな堅物だったとは。」

「いい加減にしてください。」

「おーこわ。ちゃんと決めたなら父上に報告しろよ。」

 

 言いたいことを言ったジョシュアは、片手をひらひらと振り去っていった。

 

 イーサンはどさりとベッドに体を預けると、目を閉じて自分の気持ちを整理する。

 もうここにはいられない。そう、これ以上は。騎士団に入り、己を磨こう。そうしていれば、この切なさもやがて消えていくだろう。そのはずだ。

 迷う隙を自らに与えぬよう、イーサンは身を起こし、書斎へ向けて歩を進めた。父にこの決意を伝えれば、もう後戻りはできない。


 ***

 

 イーサンが父アルバートへ騎士団入りの意思を告げた数日後——

 

「お茶にしましょう。メリル、あなたが入れてみて。ソフィアはそちらに座ってちょうだい。」

 

 セディがそう指示を出した。

 

「かしこまりました。」

 

 メリルは茶器を取りに厨房へと向かった。

 それを見届けたセディが口を開く。

 

「もうメリルも十六歳ね。早いものだわ。あなたが身重でうちを頼ってきた時の不憫さを思えば、あの子がまっすぐ育ったことが我が子のように嬉しいの。」

 

「恐れ入ります。」

 

 ソフィアは軽く頭を下げた。

 

「もう十六年よ。あなたもよく頑張ったわ。そろそろご実家に戻ってもいいのではなくて?」

 

 セディの言葉にソフィアは戸惑いの表情を浮かべた。

 

「それは……」

 

「ああ、誤解しないで。うちから追い出そうなんてことじゃないの。メリルのことを思えば、その方がいいような気がして。」

 

「はい。」

 

 セディの言葉にソフィアの顔が曇る。それを見たセディは慌てて言葉を続けた。

 

「イーサンもね、騎士になることを決めたようなの。もう私たちも子供の手を離す時がきたようね。」

 

 過ぎた年月を懐かしむように目を細めた。

 

「メリルならあなたが立派に育てたわ。どこに出しても恥ずかしくない子よ。」

 

 セディは安心させるようにソフィアの手を握った。

 

コンコン

 

「入ってちょうだい」

 

「お待たせいたしました。」

 

 茶器を手にしたメリルが戻り、緊張した面持ちでお茶を淹れる。

 

「どうぞ。」

「ご苦労様。メリルも座りなさい。」

「お言葉に甘えて。」

 

 メリルは淑女らしくゆっくりと腰掛けた。

 

「メリル、あなたもあと二年で大人の仲間入りね。何かやりたいことはないの?」

 

「やりたいこと…ですか?」

 

 唐突に問われ、目を瞬かせる。この国では十八で成人とみなされるため、きっと身の振り方を聞かれたのだろう。だが、メリルは具体的にやりたいことが思いつかなかった。

 

「行ってみたいところならあります。」

「まぁ、どこかしら?」

 

 セディは眉をあげ、興味深そうに耳を傾ける。

 

「スレーデン湖です。幼い頃、本で自分の姓と同じ美しい湖があると知りました。」

 

 スレーデン湖、その言葉に一瞬の緊張が部屋に走る。

 

「お母様覚えてるかしら?あの時私、そんな綺麗な湖と同じ名前だなんて、とても嬉しかったのを覚えています。」

 

 子供の頃と同じように空色の瞳が生き生きと輝く。

 

「ええ、覚えているわ。」

「スレーデン湖はここから馬車で四日ほどかかるわ。いつか行けるといいわね。」

 

 セディは気遣うようにそう締め括った。

 

 

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