2.すれ違い
イーサンは図書室を出て自室へ戻った。
「ふう……」
背伸びをするたびにふわふわと揺れるストロベリーブロンドの髪、必死に伸ばす細い腕、本を引っ掛けようと震える指先。メリルの後ろ姿を思い出し、ふっと自嘲気味に笑った。
『メル、踊らないか。』
一年前、戸惑うメリルをダンスに誘った日のことが脳裏に蘇る。久しぶりに敬称を省いて呼ばれた名前に、甘く痺れるような目眩を感じた。「メル」「イーサン」——あの距離がどれほど恋しかったか。
何度も母に抗うことを考えたが、伯爵家次男の自覚で律してきた。「メリルにも悪影響よ」そう言われれば、自分が我慢する方を選んだ。
図書室で本を読むメリルを盗み見ては、仄かに湧き上がる愉悦に戸惑い、息を吐く。
文字を追う視線。難しそうに寄る眉根、何か発見した時に見開かれる目、落ちてきた髪の毛を耳にかける仕草……
その一つ一つを目に焼き付けていた。
そうやって気づけばメリルを追ってしまう。声が聞こえれば、どんな顔をしているか想像し、一目見たい思いを押し殺した。会えば主従の壁に、胸が痛むと分かっていたから。
そう自分を騙し続けた日々は、あの日限界を迎えた。
イーサンと呼んでほしい——
堂々と目の前に立ち、その手に触れ、腕の中に閉じ込めたい——
そんな欲望が理性を突き破った瞬間、イーサンはメリルに声をかけていた。
手を取り合った途端、今まで味わったことのない高揚感に包まれた。少なくとも拒まれてはいない。演奏も照明も何もない、人気のないホールにただ二人きり。世界がまるで切り取られたような感覚。
一歩前へ進めば、メリルが下がる。二年前よりも体格差を感じる。動くたびに揺れる赤毛からメリルの柔らかな香りが鼻をくすぐる。空色の瞳がこちらを見て、微笑む。記憶の中で繰り返したメリルの姿は、今まさに花開こうとしていた。自分のものにしたい——その強い衝動のままメリルの体を傾けていた。
驚くメリルの表情に、冷水をかけられたかのような背徳感が湧き起こる。
我に返り、メリルを起こしてやれば、戸惑いがちにこちらを伺う目と合った。
「楽しかった。ありがとう。」
自分の感情を悟られまいと、仮面を被りホールを後にした。
——コンコン
ノックの音に思考が途切れる。入ってきたのは兄のジョシュアだった。
「イーサン、何ぼーっとしてる。メリルのことでも考えてた?」
入ってきて早々、ジョシュアは愉快そうに口の端を上げた。
「兄さん、やめてください。それより何用ですか。」
イーサンは話を逸らそうとした。否定しても、兄の愉悦を深めるだけだと分かっているからだ。
「ああ、お前この先どうするのかと思って。そろそろ十八になるだろ?本当に騎士団に入るのか?」
この国では十八歳になれば、それぞれ将来の選択をしだす。次男であるイーサンは家督を継げない。以前から剣の稽古が好きで、そのまま騎士になるものと漠然と思っていた。でもそろそろ本当に考えなければならない。このままここにはいられない。
「はい、そのつもりです。」
「へぇ。お前はそれでいいの?うーん、まぁ今のままだと辛いだけだしな。距離を取るのもいいと思うよ。」
「何の話ですか。」
「わかってるくせに。俺の弟がこーんな堅物だったとは。」
「いい加減にしてください。」
「おーこわ。ちゃんと決めたなら父上に報告しろよ。」
言いたいことを言ったジョシュアは、片手をひらひらと振り去っていった。
イーサンはどさりとベッドに体を預けると、目を閉じて自分の気持ちを整理する。
もうここにはいられない。そう、これ以上は。騎士団に入り、己を磨こう。そうしていれば、この切なさもやがて消えていくだろう。そのはずだ。
迷う隙を自らに与えぬよう、イーサンは身を起こし、書斎へ向けて歩を進めた。父にこの決意を伝えれば、もう後戻りはできない。
***
イーサンが父アルバートへ騎士団入りの意思を告げた数日後——
「お茶にしましょう。メリル、あなたが入れてみて。ソフィアはそちらに座ってちょうだい。」
セディがそう指示を出した。
「かしこまりました。」
メリルは茶器を取りに厨房へと向かった。
それを見届けたセディが口を開く。
「もうメリルも十六歳ね。早いものだわ。あなたが身重でうちを頼ってきた時の不憫さを思えば、あの子がまっすぐ育ったことが我が子のように嬉しいの。」
「恐れ入ります。」
ソフィアは軽く頭を下げた。
「もう十六年よ。あなたもよく頑張ったわ。そろそろご実家に戻ってもいいのではなくて?」
セディの言葉にソフィアは戸惑いの表情を浮かべた。
「それは……」
「ああ、誤解しないで。うちから追い出そうなんてことじゃないの。メリルのことを思えば、その方がいいような気がして。」
「はい。」
セディの言葉にソフィアの顔が曇る。それを見たセディは慌てて言葉を続けた。
「イーサンもね、騎士になることを決めたようなの。もう私たちも子供の手を離す時がきたようね。」
過ぎた年月を懐かしむように目を細めた。
「メリルならあなたが立派に育てたわ。どこに出しても恥ずかしくない子よ。」
セディは安心させるようにソフィアの手を握った。
コンコン
「入ってちょうだい」
「お待たせいたしました。」
茶器を手にしたメリルが戻り、緊張した面持ちでお茶を淹れる。
「どうぞ。」
「ご苦労様。メリルも座りなさい。」
「お言葉に甘えて。」
メリルは淑女らしくゆっくりと腰掛けた。
「メリル、あなたもあと二年で大人の仲間入りね。何かやりたいことはないの?」
「やりたいこと…ですか?」
唐突に問われ、目を瞬かせる。この国では十八で成人とみなされるため、きっと身の振り方を聞かれたのだろう。だが、メリルは具体的にやりたいことが思いつかなかった。
「行ってみたいところならあります。」
「まぁ、どこかしら?」
セディは眉をあげ、興味深そうに耳を傾ける。
「スレーデン湖です。幼い頃、本で自分の姓と同じ美しい湖があると知りました。」
スレーデン湖、その言葉に一瞬の緊張が部屋に走る。
「お母様覚えてるかしら?あの時私、そんな綺麗な湖と同じ名前だなんて、とても嬉しかったのを覚えています。」
子供の頃と同じように空色の瞳が生き生きと輝く。
「ええ、覚えているわ。」
「スレーデン湖はここから馬車で四日ほどかかるわ。いつか行けるといいわね。」
セディは気遣うようにそう締め括った。




