1.距離感
(届かない。もう少しなのに……)
メリルは精一杯背伸びをして、棚の上段にある本に手を伸ばしていた。
背後から誰かの手が、メリルより先にその本を掴む。
「はい、メリル。」
聞き慣れた声に振り向けば、イーサンがお目当ての本を差し出していた。
「ありがとうございます。イーサン様。」
「どういたしまして。」
本を受け取ると同時に、イーサンはそのまま図書室を後にした。
静かに閉まった扉を見つめる。
(昔はあんな風にすぐ行ってしまわなかったのに……)
以前なら「何読んでるの?」「それ面白いの?」と、何気ない会話をしながら、自然と隣にいた。今はそれができない。メリルは彼が取ってくれた本を胸の前で強く抱きしめ、目を伏せた。幼い頃へと記憶が飛んでゆく——
***
メリル・スレーデンは、母ソフィアが伯爵夫人セディ付きの侍女をしている関係で、ここモーティス伯爵家で育った。父は他界したと聞いている。
モーティス家次男のイーサンとは、生まれたときから一緒で、2歳年上の彼は良き遊び相手であり、家族のように過ごした仲である。
例えば、イーサンが五歳ごろ風邪をひいて自室で休んでいるのを聞き、メリルは白星草の金星を探して持って行ったことがある。白星草はよく見かける野花だが、数千本に一輪、淡いクリーム色の花を咲かせる。そのクリーム色の花を金星と呼び、人々は見つけると願い事が叶うと信じていた。
メリルはイーサンの風邪が早く治りますようにという願いを込めて、庭に群生している白星草からやっとのこと金星を見つけ、イーサンに届けたのだ。
『メル、どうしたの?服も膝も泥だらけじゃないか。』
『いーしゃん、あのね、げんちだしてね。』
『金星?僕のために?ありがとう、メル。』
『どういたしまして!じゃあね!』
その翌日、すっかり元気になったイーサンと、金星はすごいねと、二人で笑い合った。
虫を見つけ泣きながらイーサンを呼んだこと。
七歳から一緒にダンスを練習したこと。
剣の稽古を間近で見守ったこと。
いつだって気づけば隣にいる、そんな存在だったのに。
十二歳になると、イーサンと手を組みダンスの稽古が始まった。メリルは少し大人の仲間入りをしたみたいで、気持ちが高鳴り、イーサンとのダンスに夢中になった。目が合うと微かに口元を緩める。そんなイーサンを見るのが、メリルは好きだった。
そんな関係が崩れたのは、メリルが十三歳、イーサンが十五歳になった頃だった。
パートナーダンスのレッスンが始まってから一年ほどたったある日。ダンスの練習後、メリルとイーサンはそれぞれの母親に呼ばれて、真剣な顔で言い聞かされた。
『メリル、あなたも十三歳ね。明日からはイーサン様のことを敬称をつけて呼ぶように。あの方はあなたとは違う。伯爵家のご子息なの。あなたは仕える立場よ。砕けた話し方はやめるように。わかった?』
突然の母からの言葉に、メリルは目を見張る。母の言ってることは理解できるのに、心の中がザワザワと落ち着かない。
『メリル、いいわね?』
『……わかりました。』
そう念押しされ、消え入りそうに返事をした。
翌日から、二人の間には明確な線が引かれるようになった。気安さはなくなり、主従関係が浮き彫りになっていく。メリルはなるべく視線が合わぬように、イーサンの側では俯き加減でいることが多くなった。
それから二年の月日が経ち、メリルが十五歳になった頃には、そんな関係も習慣に変わっていた。
メリルも伯爵夫人の侍女見習いとして、学ぶことが多くあり、使用人としての自覚が育ったことも大きかった。イーサンと接する際も気負うことなく、イーサン様と呼ぶことにも慣れた。ただ、ぽっかり空いて寂しくなった心の穴はいつまでも埋めることができなかった。
——去年のあの日を、鮮明に覚えている。
伯爵夫人のセディと母のソフィアが用事で出掛けていた午後。メリルはセディに頼まれた仕事を細々とこなし、ホールへと向かった。次の夜会の備品をチェックしようと戸棚を開け、中を確認しようとした時、ホールの扉が開く音がした。後ろ手に扉を閉めるイーサンの姿が目に入る。
メリルは素早く立ち上がって頭を下げた。
『イーサン様』
コツコツコツと、靴の音が近づいてくる。
明確にこちらへ向かってくるその音に、心拍数が跳ね上がる。靴先が視界に入った瞬間、音が消え静寂が訪れる。
『楽にして。』
メリルは顔を上げた。イーサンは昔と同じように温かな笑みを浮かべている。積み上げてきた主従関係がまるでなかったかのような態度に、メリルは手を固く握りしめた。
『メル、踊らないか?』
(え……?)
今イーサンは踊ると言ったか。メリルは意図を理解しようと考えを巡らす。だがすぐに姿勢を正した。
『なりません、イーサン様。言いつけを破ることになります。』
『メル、そんな悲しいことを言わないで。今この時だけ、昔のように呼んで欲しい。』
昔のように、その一言でメリルは胸にぽっかり空いた穴が動き出すのを感じる。
『メル?』
こちらを伺うように見つめるイーサンが、気遣うように名前を呼ぶ。メリルは呼びたい気持ちと、呼んではいけない決め事の間で、無意識に唇を噛んでいた。
『………………イーサン』
呼んでしまった。母からの忠告を無視した後ろめたさが胸を掠める。けれどそれよりも、今までの我慢の糸が切れ、目の奥が熱くなり、視界が滲む。
『メル、踊らないか。』
イーサンはメリルの手を取り、ホールの中央へと足を運ぶ。
久しぶりに触れ合う距離に、懐かしさだけではない感情で、繋いだ手のひらがじんわり汗ばんでいく。
『ほら、いくよ』
いち、に、さん——
衣擦れと足音だけが奏でる音の中、二人の中にあった距離は、意識せずとも近づいていく。
『メル、相変わらずここのステップが苦手だな。』
『あれからあまり踊ってないもの。イーサンだって、さっきの力加減、ちょっと強かったわ。』
お仕着せのワンピースの裾が波打つように揺れる。
メリルが次のステップで重心を下げたその時、視界がぐるっと回り、腰に添えられたイーサンの腕に力がこもる。背中を預け、天井を見上げるような体勢。
一拍の後に、メリルは何が起きたかを理解した。
ライトブラウンの瞳が真正面からこちらを射抜く。窓からの日差しを浴びて陰影を深める栗色の髪、腰を支える逞しい腕、逃さないとばかりにしっかり握られた大きな手。
胸が急激に高鳴り、頬が染まる。うまく息が吐けず、ハッハッと短く繰り返す呼吸音。二年間の空白が、まざまざと迫りきて、思い知らされる。
ああ……
彼はもう少年ではない。一人の男としての階段を、着実に上っているのだと。




