18.噂話
マリアの執務室の机には、山のように積まれた縁談の書状が並んでいた。
ソフィアは一通ずつ目を通しながら、小さく息をつく。
「こちらは侯爵家のご嫡男。家格は申し分ありませんね。」
マリアも頷く。
「ですが、領地経営の評判が今ひとつです。見送りましょう。」
ソフィアは次の書状を開けた。
「こちらは?」
「伯爵家ですが、年齢が三十五歳。」
「ずいぶん離れていますね。」
「論外です。」
ソフィアはさらに一通手に取る。
「こちらは人柄は悪くないようですが……。」
「財政が不安定です。」
二人が淡々と選別をつづけていると、ノックの音が来訪者を伝えた。
「母上、エドワードです。入ってもよろしいか?」
「どうぞ。」
マリアは鼻梁に掛けていた老眼鏡を外し、机へ置いた。
現れたエドワードは上着の前を軽く開きながら、机に置かれた書状へ目をやった。
「何をしているんだ?」
「メリルへの縁談です。」
ソフィアが苦笑する。
「毎日のように届くんですよ。」
エドワードは一番上の書状を手に取り、一瞥した。
「……全て断りなさい。」
ソフィアが目を丸くする。
「まあ、全部ですか?」
「当然だ。」
マリアが呆れたようにため息をつく。
「いつまでも囲っておけませんよ。」
エドワードは静かに椅子へ腰掛けた。
「社交界へ出たばかりだ。まだ誰を選ぶ必要も、選ばせる必要もない。メリルには、もっと広い世界を見せたい。婚姻は、その後でも遅くない。」
マリアはしばらく黙っていたが、小さく頷く。
「……その考え自体には賛成です。ですが、全て断れば、求婚を望む家から反感も買います。」
「承知の上だ。」
エドワードは即答する。
「やっとこうして家族になったのだ。誰にも邪魔はさせぬ。」
ソフィアは困ったように微笑みながらも、その横顔をどこか嬉しそうに見つめていた。
その日を境に、公爵家へ届く縁談は一つ残らず丁重に断られていった。
メリルもまた、公爵令嬢としての日々を懸命に歩み続ける。数え切れないほどの夜会や茶会へ出席し、少しずつ社交界へ溶け込んでいった。最初は緊張で強張っていた笑顔も、今では自然に貴族たちと言葉を交わせるまでになっている。
マリアの厳しい指導は変わらなかったが、「よろしい」と頷くことは以前より増えた。
夜会では、キース第二王子と顔を合わせる機会も少なくなかった。その度に気さくに声を掛けられ、時にはダンスへ誘われることもある。
聞き上手で褒め上手、人との距離の縮め方も実に自然だ。女性たちの人気が高い理由を、メリルも少しずつ理解していった。
エドワードは相変わらず縁談を退け続け、そのたびにマリアへ呆れられ、ソフィアは苦笑していた。
それでも夕食の席には笑い声が絶えず、四人は少しずつ、本当の家族になっていく。
メリルもまた、もう自分を「侍女の娘」だとは思わなくなっていた。
ウィルダーバーン公爵家の長女として。
そして、一人の娘として。
メリルの社交界デビューはこうして幕を閉じた。
***
王宮騎士団の訓練場には、朝から木剣の打ち合う音が響いていた。ひと通りの鍛錬を終えた騎士たちは休憩所へ集まり、水を飲みながら思い思いに言葉を交わしている。
「聞いたか?」
若い騎士が声を潜める。
「何をだ?」
「キース殿下が次に狙ってる女性。」
「またか。」
周囲から苦笑が漏れた。
「今度は誰なんだ?」
「ウィルダーバーン公爵令嬢らしい。」
その名に、木剣を拭いていたイーサンの手が止まる。
「例の、公爵が十六年探し続けた娘か。」
「ああ。帰国祝いの夜会で一曲踊ったんだと。」
「見ていた奴が言うには、まるで絵画だったらしい。」
「美男美女で、本当にお似合いだったってさ。」
「以前ほど女性を取っ替え引っ替えという話も聞かなくなったな。」
「その代わり、ウィルダーバーン公爵令嬢が出席する夜会では、よく殿下のお姿を見かけるって聞いたぞ。」
何気ない噂話だった。
だが、その言葉だけはイーサンの目の前を暗くさせる。メリルが第二王子と踊った。王族からの誘いを断れないことも、公爵令嬢となった今では当然のことも理解している。それでも、「お似合いだった」という一言が、みぞおちを押しつぶす。
第二王子。
王族という揺るぎない身分。優れた容姿に、人を惹きつける話術。外交を任されるほどの器量を持ち、多くの令嬢の憧れを集める存在。
対して自分は、騎士として歩み始めたばかりだ。
イーサンは木剣を強く握りしめ、あえて自分を痛めつけた。
「イーサン。」
名を呼ばれ、顔を上げる。
「次、お前だ。」
「はい。」
木剣を手に取り、訓練場の中央へ歩み出る。
構えた瞬間、雑念は消えた。
踏み込む。
振り下ろす。
受け流す。
再び踏み込む。
木剣同士が激しくぶつかり合い、乾いた音が響く。
教官は何度も頷いた。
「いい踏み込みだ。」
だが、イーサンは止まらない。
一撃ごとに迷いを振り払うように木剣を振るう。
剣しかない。騎士として功績を積み、この国に必要とされる存在になる。
それが、メリルの隣へ立つために自分が選んだ道だった。
訓練が終わる頃には、制服は汗で重くなっていた。
荒い呼吸を整えながら木剣を握り直す。
——負けるものか。
誰にも聞こえないほど小さく胸の内で呟き、イーサンは再び教官へ視線を向けた。
春に行われる王国剣技大会。
そこで結果を残す。
その一心で、イーサンは再び木剣を構えた。




